前は真っ暗な闇、後ろは猛牛。聞こえるのは、私の息切れした息遣いと、闇夜を走る足音と、地面を蹴る牛の蹄(ひづめ)の音。 ああ、本当についてない。というか、これ、なんなんだ! 鞄の中から3枚目の札を取り出して、人差し指と中指で挟んで後ろを振り返る。 迫ってくる相手に気迫負けしてしまわないように、ぐっと集中する。そして、相手めがけてそれを放つ。 お札はまっすぐに向かった。それが当たるかどうかなんて見てる暇はないから、すぐに回れ右をして走り出す。後ろでバチィ!という音が聞こえたから、たぶんちゃんと当たった。 残すところ、あと1枚。 ああ、本当にどうしよう。早く、夜が明けてくれないかな…。 だいぶ疲れてきたようで、息切れもしてる。あたりまえだ。かれこれ何時間?そんなにたってないかもしれないけど。昔は部活をやっていたりして体力はあったほうだけど、大学に入ってからはまったくもってやってなかったから、かなり体力は落ちているみたい。 やっぱり、運動はしとくべきだったよ。うん。 って、そんなこと考えてるひまないんだよっ! なるべく距離を取りたいがために、地理も分からないのに角があればとりあえず曲がる、なんてしていたら、前なんてちゃんと見えていないため誰かにドンとぶつかって反動で倒れてしまった。 「痛っ!ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」 「いたたたた、えっと、俺のほうこそすいません」 「どんくさいぞ。昌浩」 「うるさいな。もっくんは黙っててよ」 「…もっくん?」 ぶつかった男の子を見てみると、なんというか、変わった格好。あれ?男の子でいいんだよね? 長い髪は後ろで一つにまとめられていて、幼いながらもきれいな顔立ちをしている。それに赤い衣を着ていて、中は緑だ。彼の傍らには、ツッチーの赤バージョンみたいな物の化がいる。 「あ、えっと…。なんでもないです。それより、怪我してませんか?すいません。ぼーっとしていまして」 「あ、私は大丈夫。それよりっ!」 後ろに迫ってきているだろう牛を振り返れば、そこには、牛なんていなかった。振り切れた、のかな? 尻もちをついていた彼は立ち上がって、私も立たせてくれた。と、そこに、またさっき感じたような気配が。 彼は、首の後ろに手をやって後ろを振り返った。物の化が同じように振り返る。 「ん?どうした?」 あ、やっぱりこの子話せるんだ。 「ん…、なんか、ピリピリした感じが…」 私は、お尻についた砂を払ってたちあがり同じようにそちらを見る。背中に冷たい汗が伝った。 思った通り、あっちの遠くの方に、さっきまで私の後ろにいたものがいる…。 「あ、…。あれ、なんだろう?」 私は、無意識のうちに一歩後ずさっていた。というか、この子も見える子なんだ。そうだよね。ツッチーと同じ種類の物の化と一緒なんだし…。 「なんで牛が!?」 私も目を凝らして見ると、さっきまで、札を何枚か当てていたはずなのに、全然効いてないみたいだ。しかも、残す札は後一枚。これは、絶体絶命、って奴? 「昌浩!どうする?」 もっくんと呼ばれた物の化が昌浩と言う男の子に問いかけ、毛を逆立てた。牛は私の時と同じように、猛牛よろしく唸り声をあげる。それと同時に、衝撃波みたいな風が吹き抜けた。 「これは!」 「なんだ、あれは!見たこともないぞ!」 「あのときも、感じた妖気っ」 「!!昌浩!逃げるぞ!」 しかし、昌浩は動かないでずっと牛を睨んでいる。 「何している!」 「考え中」 「そんな場合じゃ!」 猛牛は再び足で地面を空蹴りすると、こちらに突進してきた。 あぶないっ! 私はとっさに鞄に手を突っ込んで札を取り出し投げた。それはまっすぐに飛んでいき牛に当たる。ってとっさに使ったけど、これ最後じゃん!もう打つ手なし! 「逃げるよ!」 「え!」 昌浩君の手を取って回れ右をして走る。体力的にはかなりきついけど、でもそんなこと言ってる暇はないっ!私のせいで巻き込んだみたいなもんだし、なんとかして、この子だけでも逃がさないとっ。 視界の端に映った牛は、札があたり、しばらくしびれているのかその場で動けなくなっていた。 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、っ!」 走る。走る。走る。 道なんてわからなくて、でも、とにかくあの牛の目の届かないところに行きたかったから、右へ左へと適当に走って行った。 走り際に、手ごろな手に収まるぐらいの石を拾った。 男の子を見れば、訳がわからないながらも、ちゃんと走っているようだったので、掴んでいた腕を離す。 そして、私は右手親指を口元に持っていき、指の腹を噛んで血を出す。少しだけど出てくる血を石の平らな部分にあてて、指を動かす。所謂マントラと言うやつを描いた。ひらがなの『お』に似ている。 それを掌に置き、息をふーっと吹きかける。もちろん、私の霊力を込めて。 「何をっ!?」 「効いてよね!」 後ろに振り返りざまその石を投げる。もう半分ヤケクソダ。その石は、また牛の方へ一直線に飛んでいき、牛の前にとまると、それが光を放った。 「お前、何者だ!」 再び前を向き、走り出す。横を一緒に走りながら、もっくんが鋭い目で睨んできた。でも、私は走ることに精いっぱいで、しゃべるほどの息遣いができない。 「ハッ、ハッ、ハッ!」 後ろを振り返れば、ちょうどそこの角を牛が曲がってくるのが見えた。さすが猛牛とあって走るのが速いっ。誰だよ。牛はノロマとか言った奴。 再び前を向いて走りだそうとした瞬間、私は何かに躓いたようで勢いよくこけてしまった。もちろん、手をつないで一緒に走っていた昌浩君も道連れに。 「っ!ごめんっ!逃げて!」 「でも!」 「速くっ!」 でも、昌浩は立ち上がれなくて、そのまま迫ってきた牛は前足を高く持ち上げた。 「うわああっ!」 私は、とっさに、となりで尻もちをついていた昌浩君の上に覆いかぶさる。 「―――っ!」 迫りくるであろう痛みに目をつむる。しかし、その痛みはなく、代わりに頬を赤色が照らした。 そちらを見てみると、前足を上げた牛の角を持ち、足が下がらないように支えている、赤い髪の男の人。しかも上半身裸だ。 助かった、とかの前に、なんで、という疑問が一番早く生まれた。この人はどこから来た?味方?また妖怪? 「…ぐれん」 昌浩君がそうつぶやくと、男の人はその牛を少し押し返してから、昌浩君の襟首を引っ張り上げ自分の後ろに立たせる。ついでに私も同じように立たされた。 「下がっていろ」 そして、その人は4本ある角のうち、長くて太い2本の角をそれぞれ両手で持つと、そのままその牛を少し揺らして勢いをつけ、壁の方へ投げ飛ばした。 壁がへこみ、壁の下に牛が倒れる。やったのかな?そう思うのもつかの間。すぐに牛が起き上がりだした。 男の人は、それを見て、手を上にかざす。 すると、その手に赤い光がともったかと思うと、行けという男の人の言葉とともに、炎の龍が現れ、牛に向かっていった。 炎の龍が牛をはがいじめにする。苦しそうな声を上げる牛に、容赦なく、男の人は手を横に切る動作をする。すると、炎は一気に燃え上がり、牛を包み込んだ。 「もっくん!変化するのがおそい!」 「この姿の時は紅蓮だ」 って、この人(明らかに人っぽくない)ってもっくんなの?つーか、紅蓮って人もつっこむとこそこ!? 彼は再び牛に目を向ける。 「あの…あの炎…」 私が呟くと、それにこたえるように昌浩君も炎を見ながら呟く。 「紅蓮の炎は地獄の業火。いかなるモノも焼き尽くし、全てを灰に帰す。暗黒の闇に燃え盛る炎」 暗黒の闇に燃え盛る炎…。まさに、今のような情景じゃないか。その言葉で理解するのは、彼は闇に生きるよう定められた者だってこと。そして、昌浩君から紡がれた言葉はどこかで聞いたことがあるような気がした。 「らしいけど…。なんであいつ燃え尽きないんだ?」 再び唸り声を上げる牛から、昌浩君をかばうように立った彼。 「お前はなんだ」 [ その子供をよこせ ] あの牛のギョロっとした目が昌浩君を睨む。恐怖を打ち払うように作った握り拳に力を入れる。そうすれば爪が手のひらに少し食い込み、痛さが現実にとどめさせてくれた。 「答えろ」 [ よこせ!秘められた霊力は極上!またとない獲物。我が主に献上する! ] 「昌浩を、献上だと!?」 昌浩君が彼の手を握る手に力を込めたのがわかった。 炎がここら一帯を明るくし、牛の全体もはっきりと見えるようになる。 [ 貴様。妖にあらず。人の配下に陥った哀れな神か ] 人の配下に下った神?そんな神なんて、私は少ししか知らない。そう、その例が十二神将だ。たしか、あの神将たちは神であり、安倍晴明の式になった者たちだったはずだ。 彼を見ると、彼は、そのまま牛を見つめている。その赤い瞳は、炎によってルビーのようにきらりと光っていた。 「確かに俺は、自分の意思で人の配下に下った。だが…、お前如きに言われる筋合いはない」 静かに言い放つ彼。そんな彼をどこか心配そうにみつめる昌浩君がいた。 彼は、腕を上げる。 「この謄蛇に暴言を吐いたこと、後悔するがいい!」 そして、振りかざした手を合図に、炎は一気に強さを増した。 しかし、牛は唸り声をあげたかと思うと、炎を振り切った。 「そんな!」 そして、毛が焦げて黒くなり、闇とどうかし始めているところに、ゆらりと体勢を整える牛。 [ 致しかたない。この身を献上するか… ] ところどころ、赤い炎をちらつかせながら、牛はそういうと、いきなり膨れ上がり、しぼんだかと思うと強力な風が舞い起きた。私は、その風に耐えきれなくて体が浮き、後ろの壁にたたきつけられる。 あ、と思った瞬間には、もう意識がもうろうとしていっていて、霞んでいく目には、ぐれんと呼ばれた彼と昌浩と呼ばれた男の子の後ろ姿が写るのを最後に、私は意識を手放した。 ちいさな絶望を胸に (ねえ、本当にここはどこなの?) (君たちは誰なの?) (さっきの奴は、なんなの?) (聞きたいことがたくさんあるのに、) (本当は聞きたくなんてないんだ…) |