さっきから貧乏ゆすりが凄い獄寺の横で、風と空が来るのを玄関口で待っていれば、始業を知らせるチャイムが鳴った。 「何か遅くね?」 「チッ。オイ、お前はここにいろ、俺が捜しに行く」 余程心配でしょうがないらしい。 壁に預けていた背中を起こして、その場から離れようとした獄寺に行って来いと送り出そうとした俺は、更衣室の方から走ってくる数名の女子が真っ直ぐにこちらに向かってくるのを見て、一人で行こうとした獄寺の腕をつかんで引き留めていた。 「おい、やまも――」 「山本君!春日さん、保健室運ばれたわ!」 「どういうことだ」 一瞬にして、思考がストップした。 今、何て言ったのか。風が、保健室に運ばれた?何で、さっきまで、普通にぴんぴんしてたじゃねぇか。 「この子が見てたらしいの!」 ずいっと前に押し出された女子生徒は、びくつきながらも視線を彷徨わせ、俯きがちに口を開いた。 「あの…私、トイレから出てきた時に、伊集院さんに呼び止められて、その、春日さんをお願いって」 「おい、空は!!」 「三年の先輩が手引っ張てて。伊集院さん、すっごい震えてたから、あの、私も怖くて何も言えなくて」 しまった。 考えなかったわけじゃなかった。俺たちが傍を離れていて、風しか空の傍にいない絶好の機会を作れるのは、今この瞬間だけだった。 「獄寺先に行け!」 「くそっ!」 女たちを押しどけて走り出した獄寺を見送って、今すぐにでも風の所に行きたいのをぐっとこらえて、一部始終を見ていた彼女に視線を戻す。 「三年のそいつの他に、誰か近くにいなかったか」 「い、いなかったけど……直ぐ後に波音先生が通りかかって、一緒に運ぶの手伝ってくれて」 「そうか、悪いな。俺は、風のとこ行くから、お前たちは授業戻ってくれ」 「あ、山本君!」 取り敢えず、これはもう、かたつけるしかねぇぞ、獄寺。俺なんかよりずっと我慢して、堪えて、空の為に動いていたアイツが早く空の元へ辿り着くように祈って、保健室に駆け込んだ。 「あら、山本君」 「武……?」 勢いよく飛び込んだ俺を見て目を丸くする保険医の前で、ベッドに横たわっていた風は、俺を見て薄ぼんやりした意識の中、名前を呼んだ。 「如月先生が運んでくれたのよ。気絶していたみたいだけど、外傷は見られないし、もう少しだけ休んだら戻っても大丈夫よ」 「あ、そ、そうッスか」 正直あんまり頭に入ってこねぇけど、取り敢えず風が無事でよかった。 保健医が気を使って場所をあけてくれて、ベッド脇にあるパイプ椅子に腰を下ろす。 「武、空が……っ」 「大丈夫だ。獄寺が行ってる。心配しなくていい」 ぎゅっと風の手を握る。 まだ少し意識が朦朧としているのは、不幸中の幸いだった。 ここで意識がはっきりなんてしてたら、お前は飛び出しちまいそうだからな。 「少し寝てろ」 「う、ん……」 「一人にしてごめんな」 「来てくれて、あり、がと…」 「っ」 ふわりと笑う風の前で、情けねぇ面なんか見せたくねぇのに。 守れなかった――。 傍にいなかった自分を責めずになんていられなかった。 *** 「何で泣いてるの?空ちゃん。やっと二人きりになれたのに」 「な、何でこんなことするんですか…?」 部室棟。 文化部の方の今は使われていない部屋に、あたしはいた。 別に拘束されているわけでも、目の前お男に何かをされるでもなく、ただ椅子に座らされて。 「君の為。全部君の為だよ。あんな不良と付き合ってたら、君だって危ないじゃないか」 何が危ないというのか。 自分のやっていることは棚に上げて。この人は何を言っているのか。 「相模にしておけば、僕も何も言わなかったのに。相模と別れて、あの男を選ぶのは容認できないよ」 「な、何言ってるんですか…っ」 南先輩はよくて隼人は駄目。 それこそ意味が分からない。確かに、南先輩と付き合っているときは、挨拶こそしてきたけれど、ここまで狂気じみた事をする人ではなかった。 「君は騙されているんだよ」 「なにっ!?」 一房すくわれた髪。 それに鼻を近づけて、深く息を吸う彼にぞっとした。 「ほら、また」 「あ…っ」 「何でこんなに煙草の匂いがするの?君は、もっといい匂いだったのに」 やめて。 もうやめて。 もう何の感情からくるのか分からない涙がぽろぽろこぼれてきて、坂下の狂気じみた目が、自分に向けられることに恐怖しか感じなかった。 ぶるぶると勝手に震え出す身体のそれを止める術なんて、この場にはなくて、直視できずに顔を逸らせば、両頬に手が添えられた。 「何でそっぽを向くの?今、大事な話をしてるんだよ」 「っい、あ…っ」 もう声にならなかった。 抵抗したくても、震えた手で、力の入らない身体で、何かできるわけもなくて。 「空ちゃんの香りが変わったのは、アイツのせいだ」 「……っ」 両頬にあった手がするすると首におり、そのまま、制服のシャツに触れた。 嫌だ、嫌だ、嫌だ。 はじけ飛んだボタンが、床に転がる。 次にどうなるのか想像もしたくなくて、かたかたと震えていれば、あたしの首筋に顔を埋めた坂下が、息を吹きかけるように声を発した。 「ずっと見てたから知ってる。君の事、監視するのに選ばれたのは僕だったんだ。僕は、ちゃんと君の事、監視して、君に害成す存在は、僕がちゃんと消してあげるから」 ただ匂いをかがれているだけ。 そう言ってしまえば、大したことなんてないだろうとそう言われてしまうのかもしれない。 でも、でも、違う。 もう、限界だった。 もう、耐えられない。 そう思った時だった。 小さな爆発音。 じゃらり、と重たい鎖が外れる音がして、扉ががらりとあく。 差し込んでくる光の先に見えた人影にどれだけ、安堵したかしれない。 「隼人ー…っ!」 漸く出た声。 弱弱しくも呼べた彼の名前。 「何してやがんだ、てめぇ!」 「っ!」 一瞬の出来事だった。 あたしにしがみつくようにしていた坂下先輩を殴り飛ばしてくれた隼人は、直ぐにあたしの手を引くと、腕の中に抱きしめてくれた。 「うっ、うぇっ…っく」 「遅くなった。すまねぇっ」 ぎゅうっと苦しいくらいの抱擁に冷え切っていた体温が戻ってくる。どくどくと嫌な風に鳴っていた心臓の音も和らいで。 ゆったりとしたリズムを取り戻していく。 「僕の空ちゃんをこれ以上汚すな!!」 パシッ。 あたしを抱きかかえたまま、器用に片手で坂下先輩の拳を止めた隼人は、そっとあたしの耳元に唇を寄せる。 「ちょっと外出て待ってろ。直ぐ行くから」 「や、やだっ」 「山本がもうこっち向かってっから、大丈夫だ」 ふるふると首を横に振る。 隼人の表情がいつもと違った。南先輩の時に助けに来てくれた時の表情とも違う。 凄く冷たくて、沸点がふりきれてしまっているような顔をしている。 直感的に隼人の傍を離れたらだめだと、そう思った。 「獄寺!」 「あ…たけちゃ……」 「山本、空連れて外出ててくれ」 「おいっ」 「あ、隼人!」 たけちゃんが飛び込んできて、それを目視した隼人は、あたしの背をおして、たけちゃんに預けると、後ろ手に扉を閉めた。 瞬間、凄まじい打撃音が響く。 「あのバカ」 「隼人止めなきゃ…っ」 二人で顔を見合わせて扉に駆け寄るけど、何をしたのか、扉はびくともしなくて。 そうしてる間にも中からは、人を殴る音と、小さなうめき声が止まることなく聞こえ続けてきていた。 *** 「何だよその目」 「空がいたら、加減しなきゃなんねぇだろ」 扉を開けた瞬間目の前に飛び込んできた光景が頭にこびりついて離れない。 我を忘れて殴り飛ばしてしまった俺は、それでもその場に空がいたから留まれた。 一度空の無事を確かめるように腕に抱いて、落ち着かせては見たが、どうにも今回は腹の虫がおさまりそうにない。 「っぐ」 「なあ、お前アイツに何したんだよ」 「うっぐ」 「汚ぇ手で触れやがって」 人をこんなに殴るのは久しぶりだった。 ストーカー行為が続いていて、大分イラついていたのは確かだが、ここまで振り切れるのは、相模の野郎の一件以来なかった。 あの時は、それでも怪我したアイツをその場にとどまらせたく無い一心でその場から離れる事だけを考えていたから、ここまでにはならなかったが。 「俺は、テメェみてぇな男一人ぶち殺すくらい何とも思わねぇ」 「!……僕は悪くない!」 「うるせぇよ」 血だらけで潰れた顔に拳を振り上げた瞬間、それは振り下ろされる前に、山本の手によって止められていた。 腰回りには、震える何かが抱き着いていて。 ゆっくりとした動作で振り返れば、空が泣きながらしがみついていた。 「獄寺、それ以上やったら死んじまう」 「……空」 「隼人、だめっ」 ハッと我に返る。 扉の向こうには、いつ来たのか、空の親父を引っ張ってきたらしい春日が息を呑んだようにこちらを見ていて。 ああ、無事だったのかと、その姿を見て思う。 「獄寺君、その手を離しなさい。彼は、こっちで預かるよ」 「……」 スッと手を離す。 そのまま、すとん、とその場に座り込んだ俺に飛びついてきたのは、空で。 それを抱きしめ返して漸く、落ち着きを取り戻している事に気が付いた。 「武」 「俺たちもいったん、出よう」 山本と春日が先に部室から出ていき、空の親父が、坂下の腕を引っ張り上げる。 その時だった。 ぼそり、と呟いた坂下の言葉を俺の耳は確かに拾っていた。 「これは全部、如月に言われたんだ……」 「坂下君、立ちなさい」 「相模がおかしくなったのだって、如月が何かを言ったからじゃないか。全部アイツが悪いんだ、そうだ」 腕の中でびくり、と空が反応する。 おそらくこれが聞こえているのは、俺を含めて、近くにいた三人だけだろう。 「さっきから何をわけのわからんことを」 「ねえ、空ちゃん!君は騙されてるんだ!如月にも、この男にも!」 「娘にそれ以上、近づくんじゃない!」 「空に触るんじゃねぇ!」 短い悲鳴を上げる空を抱きしめて声を張り上げれば、外に出ていた二人が何事かとこちらを見たのが視界の端にうつった。 「さあ、くるんだ」 「っ!如月だ、全部あいつが…」 ぼそぼそと小さく何度も如月、如月と繰り返して、坂下は引きずられるようにその場を後にした。 それで終わりだ。 なのに、どうしてこんなに胸がざわつくんだ。 何か、俺は大事な事、見落としてんじゃねぇのか。 「隼人」 「!……悪かった。怖い思いさせたな」 今はいいか。 今は、もう、いい。 空が無事で、俺の腕の中にいる。 もう、それだけでいい。 .... (風、お前寝てろって言ったのに) (もう大丈夫よ) (風ちゃん、娘の事を頼んだよ) (はい、理事長) |