溝は深くその距離は遠い

「久しぶりね!風」


玄関先で片手をあげ軽やかに挨拶をしたのはその人は、記憶より少しだけ目尻にシワを増やしていた。それでもあの頃と何も変わらず華やかな恰好をした女だった。


「元気そうね。空ちゃんは元気?」


目を見開いて固まる私に彼女はにこやかに問う。私の後ろの廊下を覗くような仕草はどこか幼さすら感じさせる。赤く塗られた唇が絶え間なく動く様を見ながら、空は今日は玄関に出るなって言っていた理由がこれだったのだとようやくわかった。


記憶が確かなら彼女は既に40代も半ばのはずだ。年相応とはとても言い難い華やかな服装に、濃い目の化粧をしたこの人は、楓の母親であり、私の産みの親でもある人。


そして、約10年ぶりの再開だった。皮肉なことに、母親の顔は忘れていなかったらしい。もう最後の記憶すらあいまいだったのに、だ。


なんで今更目の前に現れたんだろう。そんな疑問が頭の中をぐるぐると駆け回っている。


「この子が風ちゃん?本当に楓ちゃんとそっくりだ」


「そうよ。一卵性双生児だもの」


扉の影から顔を出したのは、サラリーマンなのか、きっちりとしたグレーのスーツを着こなす男性だった。爽やかで実直そうな男は、まじまじと私の顔を見ては感心している。


若い男だった。彼女の隣に立つには不自然に見えるほど、今この状況で同じ場所に居合わせるには明らかにおかしいほど若い男だった。おそらく20代前半。多く見積もっても35歳は超えていないだろう。


二人は随分親しいようで、距離感もさることながら交わす会話から親密さが伝わってくる。この男が誰なのか、女が何の用事で来たのかはわからなくとも、目の前で見せられて気分のいい光景ではないことは確かだった。


「何しに来たの」

「話があってきたのよ」


ようやく絞り出した声は随分と弱々しいものだった。そんな私とは対照的に、どうしてそんなことを聞くのかわからないといった様子であっけからんと答えた。


それが約10年ぶりに顔を見に来た親の言うことなのか私にはわからない。


お父さんが病に倒れた時、まっさきに頼ったのは母親だった。唯一知っていた電話番号に連絡したが、留守電だったため必死に伝言を残した。折り返してくれることを、戻ってきてくれることを、迎えにきてくれることを期待したそれは見事に裏切られることになる。


お父さんが倒れてから亡くなるまで、それどころか葬儀が終わってからも母からの連絡は一切なかった。


その間私とお父さんの面倒を見てくれたのは空の両親だった。手続きなどすべてを取り仕切ってくれた。


火葬場でお父さんが真っ白な骨になって出てきた時、ようやく私は悟った。私の唯一の家族は死んでしまったんだって。


本当はあの頃少しだけ期待していたのかもしれない。一人になった私を迎えに来てくれるかもって。でも、彼女は来なかった。


その後私は空の両親が面倒を見てくれることになったが、そうでなければ孤児院に入ることになっていただろう。


「大きく、なったわね。風」


おもむろに伸ばされた手が私の頬に触れる。


玄関先で、楓の手を引いて出て行った母も最後にそうやって私に触れた。姉だから大丈夫だよねと言って、同い年の楓を連れて出て行った。あの日、ただ漠然と置いていかれたことを理解した時の悲しみや寂しさを、きっと彼女が知ることはないのだろう。


「風!」


後ろから聞こえてきた声にハッとする。それと同時に、後ろから包まれる温かい温もりにひどく安堵をおぼえた。空が私の肩に腕をまわして抱きしめる。お風呂から上がったばかりなのだろう。いつもより高い体温。そして濡れた髪が肩にかかる。


「あら、空ちゃん。久しぶりね。元気そうでよかったわ」


「久しぶりです」


「空ちゃんには、いつも風がお世話になってるわ。感謝しなくっちゃ」


「いえ…、そんなこと、ないです」


浅く呼吸を繰り返す。空と彼女の会話が少し遠いところで、繰り広げられているように感じていた。


視線をさまよわせる。


「智世さん。本題を」


男が、彼女の背中に促すように触れた。彼が私を見る。彼の目には、私に対する感情は何も見受けられなかった。


「そうだった!忘れてたわ。久しぶりに会ったから、興奮しちゃって」


照れくさそうに笑い返す彼女と、それを見て微笑む男。恋仲の関係にあるのだろう。雰囲気だろうか、彼らの表情だろうか。私は直感的にそれを悟っていた。


この男女間特有の空気はどうにも苦手だった。


はやく立ち去ってしまいたい。できるなら話など聞かずに、部屋へと戻ってしまいたい。しかし、それは空が後ろにいるためにできないだろう。それに、逃げても意味がないのだ。


「ねえ、風。突然なんだけどね?私、この人と今度結婚することにしたの。もちろん楓も認めてくれてるわ」


男性の腕に腕をからませてすり寄る彼女は、本当に幸せそうに男性を見上げていた。男性も同じように女を見つめている。


「それでね?風。この結婚は絶対にうまくいくわ。幸せにしてくれるって約束してくれたの」


女の細い指には銀色に輝くリングが光っている。


「それでね!彼が、あ、名前は正明さんって言うんだけど、正明さんが、風も一緒でもいいって言ってくれたの!」


彼女は至極うれしそうに笑うのだった。しかし、私の中では、その言葉がまるで他人に言っているように現実味がなく、しばらく、その言葉が理解できなかった。この人は何を話しているんだろう。回らない頭で何が楽しいのかニコニコを笑みを向けてくる女を見つめる。


「ね!空ちゃんの家にずっとお世話になってるわけにもいかないでしょう?だから、一緒に暮らしましょうよ!今度は絶対にうまく行くわ!それに、やっぱり、双子が別々に暮らすのはおかしいわよ!」


両手を合わせ、夢見る女の子のように晴れやかな笑みを浮かべくるくると表情を変えていく。その姿に、笑みに、声に、漏れたのは冷笑だった。


この人は、私のことなど何も考えないのだろう。理想ばかりを追い求め、いつまでも夢を見ている。


「風を、連れていくんですか?」


「空ちゃんには、とってもお世話になったわ。私の身勝手で大変な思いをさせたと思ってる。でもわかって?やっぱり、家族なのよ」


「…ぇ…って」


「それにね、新しい家もかったのよ!風。マンションじゃ、お隣さんとか考えたりして大変でしょ?ね!」


べらべらと聞いてもいないのに話し続ける女に湧いてきたのは明確な怒りだった。


「それに、もっと裕福に暮らせるし、今までの分もたくさん遊べる―――」


「帰って」


「風?」


「帰って。今更何を言いに来たかと思えば。来て早々結婚の挨拶?勝手にすればいいじゃない。私にはもう関係ないわ。それに、今までお世話になってきた空にその言いぐさは何?葬式にも来なかった人が今更私の生活に口出さないで」


言い切った瞬間、男の手が飛んできた。横っ面を掌で叩かれる。乾いた音とともに、横に拭いた顔。痛み始める頬をそのままに、手を挙げた男を見た。


興奮しているらしく、顔が真っ赤になっている。私を見る目はとても険しかった。


「…親に向かってその口の聞き方はないだろう。それに、彼女はずっと君に逢いたがっていたし、お父様の葬式にだって出たかったはずだ。どうしても外せない仕事があっただけで、今でも命日にはお墓参りを欠かさない。彼女の気持ちも考えるべきだ」


「……なら、私の気持ちは踏みにじってもいいって?」


「そんなことは言ってない」


「もうその人に振り回されるのはまっぴらごめんなんです。結婚には反対しません。どうぞご自由に。ですがともに暮す件については、ムリです」


「…風ちゃん。お願い、もうちょっと考えてみて?ね?楓ちゃんとも一緒に暮らせるのよ?それに、今までは別々だったけどまた、家族水入らずで」


「…帰ってください。あなたは私の母親なんかじゃない。あなたはあの日に私を捨てたんでしょう。頼りたいときにそばにもいてくれなかったくせに。今更母親面されても迷惑です」


冷静な部分ではひどいことを言っているなっていう考えが残っていた。しかし心の大部分はどうにかして傷つけてやりたかった。言葉で態度で空気で傷ついてしまえばいいと思った。


男が不機嫌そうに口を開こうとするのを女が止める。涙を目に浮かべ、悲しみをあらわにするその姿こそが深いだった。もっと何か徹底的な言葉を突きつけてやりたかったのに頭には何も浮かんでこない。自分がひどく見にくくて惨めでこの場にいることも嫌で仕方がなくて、無言で踵を返した。


「風!また来るわよ!」


手で耳を覆う。何も聞きたくない。何も考えたくない。イライラする心も何もかも鬱陶しくて、舌打ちをした。


リビングに戻れば、気を使ってくれたのだろう、テレビを消して、静かに座っている二人がいた。


「風?…なんか、あったか?」


心配そうにちかづていくる武が、私の方へ手を伸ばす。それをよけ、部屋の扉の前に立った。


「一人にして」


「風っ」


「何?」


「……っ、俺ってそんなに頼りねえ?」


「武には関係ない」


すらすらと口をついて出てくる言葉は、まるで鋭利な刃物のようだと思った。容赦なく武を傷つけている。それをわかっていながら、止まらない。完全なる八つ当たりだ。それもわかっている。


「っ!説明ぐらい、してくれても、いいだろ?」


「……空に聞けば」


ゆがめられた表情。揺れている瞳。マフィアであるせいか、動揺などあまり見られない彼の目が揺らいだ。


私は、それ以上見ていられなくて、逃げるように部屋へと入った。実際逃げたのだろう。先ほどのことも、傷つけてしまった武からも。


電気もつけずに、ベッドに腰掛ける。ゆっくりと吐いた息は、部屋の空気さえも重くさせたように感じた。


考えないようにしても、頭の中をよぎっていく、真っ赤な唇。そして、優しい声音で紡ぐ私の名前。いらだちに任せて、布団を殴った。衝撃は吸収され、腕の疲れだけが残る。それでも、何度も何度も布団を殴った。


私のことなどちっとも考えていないあの女も、無関係なのにしゃしゃり出てくるあの男も、何よりこんなことに囚われてどうしようもなくなってしまっている自分自身が嫌で嫌で仕方がなかった。


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あきゅろす。
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