彼が最後に来てから、数えて2日が立った。 気が狂いそうなほど、『リイナ』という子の情報が頭の中に入ってくる。 すでに、彼女の生涯記録は3周目をまわっていた。いい加減耳にたこな出来事が、今もテレビの中で行われている。 気が、狂いそうだった。 耳元で囁き続ける声は、お前はリイナだと言う。 地獄のようだった。まるで、拷問だ。沈黙という名の拷問。私の精神はそこまで強くない。 どうやったら、このつらさから解放される?外の情報は一切与えられない。わかることは、今日の天気と、日の高さがどれくらいかということのみ。今、私のことを他に知っている人がいるのか、とか、いつもきていた沢田さんはどうしたのか、とか。 一切何も分からない。 ただ、リイナ、リイナ!という声だけが聞こえてくる。なんて、幸せそうな声なんだ。 結は限界だった。ほとんど何も口にしていないという状態もそうだが、なにより精神的に参っていた。 「………もう、嫌だ…」 耳をふさいでも耳に残っている声は、結の脳に刷り込んでいくように『リイナ』の情報を与えていく。 まるで、結の持っている記憶は誰かに与えられた偽物で、本当はリイナであったかのようだ。それが正しくて、結が結であるということは間違いであるかのよう。 こんなことを言っていたら訳がわからなくなってくる。誰が誰で、誰が本物で、そんなものどうやって判断するのだろう。記憶を失った人が、自分のことをどうやって知るのだろう。鏡に映る自分は、本当に自分?それさえも信じられなくなってくる。何を信じていいのか分からなくなってくる。 私は、今までどうやって『私』でいられた? 私は、どうやったら、『私』でいることができる? いくら考えても結の中に答えは出てこなかった。 既に、3回も映像をみているせいか、次に何がおこるか分かってしまう。それに彼女のしゃべりかたも、癖も、見つけてしまった。 「私は…、結だ…」 呟いた声は、弱々しく、私じゃ無いみたいだった。 そう考えて、嘲笑を浮かべる。 どうやったら、解放される? この苦しみから。ここに居場所はない。『結』の居場所はないんだ。 「でも、ここには『リイナ』の居場所はある…」 口に出していえば、脳内にその答えがしっかりと当てはまった。 ずっと、その答えは違う。違うのだと否定してきたものだ。しかしずっと心の奥に会ったもの。この苦しみから解放されるには、こうする他ないことは嫌でも分かりきっていた。 明白だ。 でも、それをしてしまうなら、自分じゃ無くなるのだ。 きつく目を閉じる。 そう、簡単だ。堕ちてしまえばいいのだ。とどまっているのがつらいなら、堕ちてしまえばいい。相手の策略へと。 『えーっと、あたしは、やーっと!高校、卒業できましたー!おめでと〜!お兄ちゃんたちの武勇伝をたくさん聞きながらやっと卒業!これからは、もっとお兄ちゃんたちの傍で支えていけます!がんばりま〜す!』 にこにこ笑いながら、テレビの中で宣言しているリイナ。 「……あたし…、…がんばり、…まーす…。お兄ちゃん…。だよねー…」 この、苦しみから解放されるなら、私はなんにだってなろう。私は私じゃなくていい。私は、……違う。『あたし』は結じゃない。リイナだ。 『もうすぐ、お兄ちゃんたちに会えまーす!楽しみだな〜。イタリア観光してー、お兄ちゃんたちと遊んでー…、あ、でも、お仕事忙しいかな?まずは…、リボーン君にねっちょりきたえられるのかー…』 「おに、いちゃ……、リボーン、君…」 テレビを見つめたまま、ずっと彼女のいっている言葉を繰り返す。繰り返し、繰り返し言って、自分の言葉になじませる。 簡単だった。 癖も、何もかも分かっている。彼女の記憶は、結の記憶として脳内に刻み込まれていた。 「あたし、お兄ちゃんのこと思い出したよー…、だから、ここから………」 お願い、出して。 私は、結よ!私は、リイナじゃ無い。私は結なの! ぎゅっと拳を握る。爪が手に食い込む。涙が滲んできて、目の前がゆがむ。楽しそうな笑い声だけが聞こえてきた。 私は、私なのに、なんで、私は私でいちゃいけないんだろう。私が結だってことは誰も認めてくれないの?私の、知らない人に会いたい。リイナのことを知らない人に会いたい、な…。 結は、閉じた瞼の裏でさえ流れ続けるビデオの映像に、苦笑する。 「誰も、知らないところに行きたい。そしたら、きっと…きっと…っ」 誰も、この部屋にこなければいい。この部屋に彼が来たときに私は私からリイナに変わらなきゃいけない。演じ続けなければいけない。でも、きっとこのくるってしまいそうな部屋からは出られる。そうしたら、きっと何か変わる。 そう信じてないと、生きていけない。 くるってしまいそう。心が折れてしまいそう。 ううん。もしかしたら、狂ってしまった方が楽だったかもしれない。心が折れてしまった方が、こんなにも傷つかなくてよかったのかもしれない。いっそ、ぐちゃぐちゃにかきまわしてくれれば、なりふり構ってられなかったんだ。 「ああ、もうっ…、いやだな」 結は、狂ってしまう前に自分を封じ込めることに決めた。何度も言い聞かせる。 私は今からリイナよ。結じゃない。リイナよ。 何度も、今はいない兄に問いかける。私が、リイナになったら居場所を与えてくれますか? 結は、机の上にある日記帳を手にとってそれを一番初めから読み始めた。かき始めは中学生の入学式から。 その中には、彼女の性格や、ビデオにもあった出来事や、そのときの感情が事細かに記されていた。 |