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青嵐の日溜り・陸
流れる水は清らかなれど、
溜まる水は澱みて濁る。
肚に数多を蓄え腐らせ、
やがて全てに食まれ融け往く。
萠す芽吹きの下に敷かれて。





青嵐の日溜り・陸





風はどこまでも温かった。
山間の峠を吹き往くそれさえ、どこか昼間の熱気を運び倦ねるように、暑く湿って重く揺蕩って、この地に蜷局を巻いているようだった。
日が暮れ始めた街道を笠と外套を着て往く二人を、未だ風は苛んでいた。

「もうじきだ。準備は良いだろォな」
「やる気があれば完璧でした」

軽口かと思いきや、ひかたの顔は存外確かな失望と疲労と寝不足に苛まれた、年頃の少女にしては憐れな相がありありと見てとれた。

「準・備・は・い・い・なァ?」
「うわぁぁん冗談です冗談です耳たぶ潰れるぅぅ!」

それを把握しつつも、ひかたの柔い耳たぶを皮の厚い指で圧しながら不死川は低めに返した。

「…サイダーくらいで臍曲げてんじゃねェ」
「ふぇぇ…違いますもん。そんな食い意地張ってませんもん」
「そォかい。じゃあ気合入れて行くぞォ」
「…ふぁい」
「それが返事かァ?」
「はい!!! 気合ぃ一丁ぉぉ!!!」
「宜しいィ」

血走る笑顔で圧倒する不死川を前に、ひかたが許された言葉は余りに少ない。
次に気の抜けた返事をすれば鉄拳が飛ぶのは想像に難くないと察すれば、当然背筋に顕れて声を張るが最善手。
不死川も不死川の方で、隊士とは言え年頃の少女と鬼殺の道すがらである。
昼間の迂闊な希望でやる気を下げてしまった事から、安易な発言を謹むように注意を払っていた。
気力は時に戦いを左右する重要な要素だ。
嘗て隣で共に戦った兄弟子のように、気さくに喋れる質ではない彼には、遠く離れた弟より少し上かと言う程度のひかたをどう励ませば良いのか、それは相当に気を揉む難儀な問いに相当する。
何故なら彼は彼女に対して、まるで妹のようにとは行かないものがあったからだ。

「でも、出てきますかね?」

ひかたが笠を軽く持ち上げ、不死川と眼を合わせて問うた。

「これだけ立派な旅人サンが居るのに、出ないなんてこたァ鬼の癖して坊主か何かだな」

そんな彼の胸の内など知る由もなく、ひかたは気掛かりを口にした。

「だって、襲われた頃は逢魔時ですよね?」
「何が言いてぇんだァ」
「おかしいじゃないですか、日射しが残ってる時間に出てくるなんて」

逢魔時。黄昏時。すれ違う人の顔も判らぬ時間帯。誰そ彼。
今、まさに。その刻限に差し掛かる。
確かに、鬼が現れるには些か早い。

「何だか、嫌な予感が」

ひかたがそう言い募る最中、不死川の足が止まり彼女の進行を手で制する。
赤く暮れ泥む夕景を背にそれは立っていた。
特徴的な笠を被り、ゆったりとした袈裟を纏った青年と思しき体格の、虚無僧。

「当たるもんだなァ。マジで坊主かよ」

その殺意が、外套越しにすら二人の肌を灼いた。
陽光の残滓に目を細めるひかたは一挙動遅れて、虚無僧鬼が尺八を取り出すのを確認し、攻撃の予感に身を強張らせる。
対する不死川は刀に手を掛け、先制を許さぬ速さで矢の如く飛び出した。

「っらァア!」

その一刀を跳ね上がって躱した鬼は軽やかに着地し、不死川の追撃を避け林へ駆ける。
身の熟しからして、そいつが手強い事はひかたにも判った。

「逃がすかよォ! テメェは待機してなァ!」

言うが早いか、外套を脱ぎ捨て草木の繁る脇道へ飛び込む不死川。

「罠ですよ!」

ひかたの声は届いていたろう、けれど柱たる者は臆さず、足を止める事も無い。
今退けば、更なる被害を許す事と同義なのだから。
笠を脱ぎひかたも後を追う。
駆け出して程なく響く尺八の音色。
途端にひかたは足下が歪む感覚に襲われた。
酷い目眩と視界の明滅。緑の中にいる筈なのに、夕日の僅かな赤がいやに目について、ぐらぐら揺れる。揺れる。反射的に呼吸が荒く乱れる。
駄目だ、集中、集中。
耳を押さえてゆっくり息を整える。
教えられたように、落ち着いて。
目蓋を閉じて視界を遮断すると大分ましに感じるが、目を閉じたまま林を駆ける事は難しい。
ひかたは脳裏に浮かんだ不死川の背中を思い出して、何とか走り出した。

「ォああああァア!」

雄叫び。不死川の声。風柱様。
ひかたの胸に押し込められていた恐怖の蕾が綻んで花を咲かす。愛しい家族を失った絶望の記憶が掠める。
間に合って。走れ。間に合え。走るんだ。

「風柱様!」

虚無僧鬼の尺八が喚き立てる中、耳を押さえて蹲る不死川がそこに居た。
抜刀したひかたの剣が、水の唸りを上げて型を成す。

「水の呼吸 弐ノ型!」

突撃の勢いのままに回転し斬りつける、弐ノ型 水車。しかし虚無僧鬼は草むらとは思えない足捌きで後退し難なく躱す。
近付くだけ酷くなる視界のちらつきに、ひかたは追撃を止めて不死川を背に庇い立つ。

「風柱様! 大丈夫ですか?!」

ひかたの呼び掛けに不死川は応えない。ただゆっくりと顔を上げ、見つめたひかたの顔に「お袋」と呟いた。
そしてひかたの目にもまた、不死川は不死川の顔でなく、とうに喪った姉の顔に映った。
心臓が跳ねる。顔以外がぼやけて、顔だけ鮮明に蘇る。あの日のまま。
幻覚だ。
ひかたは頭の片隅でそう確信した。
最高級の写真で見るような鮮やかに美しい姉は、幻想の極みのように儚げで、今すぐ掻き抱きたい衝動に駆られる。
だが、ひかたにはそれが幻だと言い切れる確証があった。
しかし、時は待ってくれない。
思案するひかたの頚を掴んで近くの樹に叩き付けたのは、不死川の腕だった。
息が詰まる。
そうか、不死川も幻覚を見てる。
ひかたの思考はとにかく鈍かったが、冷静な判断力を失ってはいなかった。

「済まねェな…お袋ォ」
『あんたが死ねばよかったのよ』

声が二重に響いた。幻覚と幻聴で、元の声も姿も酷く乱雑に聞こえる。
視覚か聴覚。どちらか捨てねば勝機は遠い。
不死川の掌に力が篭ると、ひかたの喉は息が出来ない程締め付けられた。

「今度こそ、俺が」
『皆そう望んでたのに』

今、彼に届くことは、何だ?
必死に考えたひかたは、不死川の手首に指を這わせる。
内側、皮膚の薄い所。
素早く、目立たなく。書け。届け。
触覚だけは偽物じゃない!
ぴくりと、頑強な左腕が微かに震えた。

「思い出して、風柱様…!」

ひかたの切な願いが、どんな幻聴を伴って不死川の耳に届いたかは分からない。
だが、その声を合図に不死川はひかたの隊服を引き裂き、柔らかな左腿に刀を突き立てた。
絹を裂くような悲鳴が林に響いた時、尺八の音は一瞬弱まる。虚無僧の笠の内で鬼が密やかに嗤ったからだ。
刹那、鬼の眼に映ったのは、猛然と迫る緑の刃が煌めき。
笠ごと、尺八ごと、鬼の頚は落とされた。
朽ち逝く眼に映るのは、血で濡らした布を耳から垂らした不死川と、隊服の切れ端を持ち震えるひかたの姿。
水は音を通しづらくする性質を持つ。
ひかたは自らの血で破かせた切れ端を濡らし、不死川の耳を塞ぐ事で幻聴と目眩を緩和したのだった。悲鳴で尺八の音を遮り、獲物を嬲る様を見せれば鬼は油断すると踏んで、その間があれば不死川は過たず鬼を討てると信じて。

「…見事」

聴く者の無い称賛を遺して、鬼は塵芥となった。

「竹垣!!」

木の幹に身体を預け、左足を伸ばしてしゃがみ込んだひかたの顔色は良くない。
辛うじて骨は避けたが太い血管を傷付けたようで、血が止まらねば命が危うくなるのはそれほど遠くないだろう。
不死川が裂いた隊服から見える肩が痛々しい程、白く映える。

「…済まねェ…俺が下手踏んじまったァ」

素早く止血帯を巻き付ける手際に淀みは無い。表情もいつもの仏頂面と対して変わらない。が、彼は酷く失態に狼狽えているようにひかたには見えた。

「風柱様、大丈夫ですよ」
「馬鹿野郎ォ、やせ我慢なんか…」
「もう悪い鬼は風柱様が斬ってくれましたから、こわい夢はみませんよ」

ハッと上げた不死川の顔は、涙を堪える子供のようで。
ひかたには堪らなく守ってやりたい顔だった。
だから出来る限りの穏やかな顔で、微笑んで。

「でも、きれいな、夢だったなぁ」

ひかたが意識を保てたのは、そこまでだった。



風が吹く。
違う。風を圧して進んでいるのだ。
温かな背中。
羽織に僅かに、藤の花の微香。
何て安心するのだろう。
どんな痛みも、熱に浮かされても、この安堵に勝る感覚は無いだろう。
ああ。染み渡る体温の心地が。
こんなにも。
こんなにも。



昨夜の客人への御礼状を鎹烏へ預けた晩、まさか彼らが負傷し舞い戻るとは、藤の花の主人も思ってもみなかった。
昨日あれ程勇ましく我と我が子の為に駆け抜けた韋駄天が、共に任務に当たっていた若い隊士を負って駆け込んで来たのは宵五つも過ぎた頃。
奥方の経過を見守っていた医師が急ぎ処置に当たるが、出血が多く容態は芳しくない。
風柱の顔には逡巡と焦りが目まぐるしく渦巻く。
鬼殺隊たる柱の一分一秒、無駄にする事は罷り通らない。
それを許せば人が死ぬ。鬼が蔓延る。
行かなくては。
だが、意識の無いひかたの呟いた言葉に不死川は動けなくなる。

「おにいちゃん…」

彼女の言葉は、夢の中でも現実の中でも、他の誰でもない不死川実弥を呼ぶものだと。
その言葉が呼ぶのは誰なのか、確かに理解する事が出来たのは不死川実弥だけだった。
懸命に刀を振ってもまだまだ堅くなり切らない華奢な掌を、ただ彼は優しく握って、安寧を祈る夜を耐えた。



微かな名残の体温も、日の当たる寝間には残っていなかった。
太陽が風を温め溶かしてしまったように。
医者から訊いたのはひかたが一晩寝ていた事と、風柱が看病していた事だけ。
ひかたは理解した。
彼は自分を見守っていてくれたのだと。
それはきっと彼自身の意志とは言い難い、ひかたの我が儘を許してくれた結果だと。
優しい事は知っていた。
助けられた時から、鬼殺隊士として、目上として、人間として、彼が他人にどれ程優しく強く在ったか。
粗暴で酷い言葉は、本当は誰かを庇うものなのに、いつも誰かを遠ざけるばかりで。
心を寄せる時も、独りで。
今、ひかたは彼を抱き締めたくて堪らなかった。
胸の前の掌を握り合わせて、肩を震わせた。
どこにも行かせたくなかった。
側に居て寄り添いたかった。
きっとそれでも、そんなにしても届かないものは沢山あるけれど。
染み渡る体温の心地を分かち合いたい。
こんなにも。
こんなにも。





つづく。


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あきゅろす。
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