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短編
無駄



 ――早く、アイツから逃げなければ。

 月の明かりだけが頼りの暗い林の中。背後の男から逃れる為に、脚の痛みでTシャツに冷たい汗を滲ませながら、人通りのある場所を目指した。片足を引き摺って地面を削りながら進む。木々の向こうに街の明かりは一切見えず、本当にこの方向に歩いていって間違いないのかわからない。
 でも、このまま立ち止まって捕まるわけにはいかない、絶対に。
 歩いて体重がかかる度に、強く打ち付けた脚がズキリズキリと痛む。

 あんな子供染みた罠にはまるなんて一生の不覚だ。
 今時、呼び出された先に落とし穴が掘られているだなんて、誰が思い付くだろう?しかもその穴に、廃棄された乳児用の歩行器や、古い三輪車が放り込まれているだなんて……お陰で土の上に着地するよりもダメージを負ってしまい、この有様だ。
 闇夜の中、アイツが喜々としてシャベルを手にして地面を掘っている様が目に浮かぶ。いや、アイツの事だから素手も有り得るかもしれない。

 背後からはボクの引き摺った音とは違う、雑草を踏みしめる足音。ボクと一定の距離を保ちながらいつまでも着いて来る。
 そして、姿を見ずともわかるほどにつまらなさそうな声。
「せっかく助けてやったってのに、何も言わないまま立ち去るなんざ随分と礼儀知らずじゃねぇかぁ?」
 ……よく言う。あの落とし穴を仕掛けたのもお前じゃないか。
 不愉快に顔をしかめつつも、絶対に振り向かないように俯く。口を聞くつもりもない。
「なぁ、脚イテェんだろ。肩貸すぜ。それともおぶってやろうか?」
 あっと言う間に背後の足音はボクに追い付いた。肩に置かれた手を、すぐさま払い除ける。
「触るな!」
 一瞬だけ振り向いて睨み付けたあと、また前を向いて歩き出す。
「一人で歩けるから結構だよ。気を遣うつもりならどっかに行ってくれないかな。それが一番嬉しいよ」
「冷てぇな。……ま、そういうところも嫌いじゃねぇぜ。だがご好意は有り難く受けておけよ。捻挫が悪化するかもしれねぇだろ?」
 尚もしつこく肩を捉まれ、うんざりしてまた手を振りほどく。
「いいって言ってるだろ!!」

 そう叫んだ直後、脛に鋭い打撃を受けた。
 怪我をしていた足とは反対側で、身体を支える箇所が両方痛み、その場にうずくまる。
「痛っ……!」
 コイツはボクの脚を思い切り蹴り飛ばしたのだ。そしてうずくまったボクを見下して嗤う。
「ほーら。これでオレの手を借りなきゃ歩けねぇだろ?」
「お前ッ……」
 絶対に、何があってもコイツの手なんか借りるもんか……!

 膝に手を置いて無理やり立つ。両脚が痛んで立つのもやっとだけど、ずっとコイツに見下ろされるのは堪えられない。背を向けて歩き出す。
「無理すんなよ。背中に乗りな、脚イテェだろ?」
 笑いを含んだ声はやっぱり着いて来る。それでもボクは振り向かない。コイツの顔なんか、見たくない。
 痛む脚に動機が速まる。ジーンズの下で、強く蹴られた箇所が熱を持ち始めたのがわかる。でも絶対に悟られないように、冷めた声を出すように努める。
「お前になんか助けられなくて結構だよ」
「だがその足じゃあ好きなところにも行けねぇよなぁ、可哀想に!」
 からかったような言い方だ。
「わっ……!?」
 強引に腕を捉まれ、背に抱き付くように手をコイツの首に回される。
「ここは大人しく甘えとけよ。今まで甘える相手なんざいなかったから嬉しいだろ?」
 太ももが持ち上げられ、おんぶされる形になる。

 ボクが甘える?
 コイツに?
 冗談じゃない!!

 このまま好きにさせるわけにはいかない。
 首に回した腕をそのまま締め上げた。喉仏を潰すほどに力を込めると、苦しげな声がコイツから漏れる。
「う、っぐ……!」
 腕に手がかけられるが、振りほどくまでの力はない。
 今、ボクの方が圧倒的に有利だ。コイツはボクを馬鹿にしすぎたんだ。油断するからこうなるんだよ!
「ぁが……ぐぐっ……!」
 ……このまま死んでしまうだろうか?
 でも、今のボクに加減が出来るような余裕はない。ここまでボクを思い詰めさせたのは間違いなくコイツ自身。暴力は好きじゃないけど、自業自得だ。
 抵抗が一切なくなれば解放しよう。ボクだって人殺しにはなりたくない。
 死なずとも、これで懲りればいい。
 ボクがお前と打ち解けるつもりはないのだと、思い知ればいい。
「お前なんかに、好きにさせるもんか……!」

 途端に、ボクの身体はコイツの背から吹き飛ぶ。
 突然の事で何がなんだかわからなかったけど、力比べでコイツに負けたらしい事は一瞬の内にわかった。
 あの体勢でどうやって……?

 樹に背中を強かに打ちつける。打ち付けたせいか胸が潰された錯覚を覚え、無意識に呻き声が漏れた。
「うう……う……」
 後頭部を打ち付けてぼうっと霞む目で見上げると、コイツはけろっとしてボクを見下ろしていた。まるで、少しもダメージを負っていないかのように。
「あんま締めんなよ。イっちまうだろ?」
 小ばかにしたような言い方に、ボクの我慢はもう限界だ。
 何度か咳払いして訴える。

「お前一体、何がしたいって言うの?!」

 怒りが抑えきれず、自然と声が大きくなる。木々がボクの怒りに応じるように、暗闇の空でざわりと揺れた。
「別に?これと言ってしたい事はねぇよ。一緒に居られればそれでいいぜ」
 ボクの怒りとは裏腹に、コイツは平然と言う。それで少し熱くなった頭が冷めて、今度は冷静に問う。
「一緒に居たい理由は?」
「お前がオレのお気に入りだからさ」
 打てば響くように返されて一瞬言葉に詰まったけど、負けじと睨み付けた。影になった顔はよく見えなくても、ニヤニヤしているのは何となくわかる。
 コイツからこんな言葉をもらっても、全然嬉しくない。

「ボクはお前が大っ嫌いだ」
「ほーぉ?」と興味ありげに人型のシルエットが首を傾げた事に再び怒りが湧くのを抑え、目を閉じて一気に言う。
「ボクはお前なんか大ッッ嫌いなんだよ。こんな風に思ってる奴と一緒に居たって楽しくなんかないでしょ。一緒に居たって楽しい事なんか何もない。わかった?ボクは帰るよ」
 力を込めると痛む脚を無理に立たせ、その場から早く離れようと背を向けた。「大嫌い」を特に強調して言ってやったから、これでボクの気持ちがわかっただろう。

「……ははは、ヒャハハハハハハ!!」

 すると、背後から耳につくのは嗤い声。
「ヒャハハハハハ、ハーッハハハハハハ!」
 片腹を抱えそうなほどの笑い声は、狂気すら感じて寒気がする。本当に腹を抱えているのかもしれない。周りが静かなせいか声が反響してやけにうるさい。木々も一緒になって笑っているような錯覚を覚える。
 ボクは何か、オカシな事を言った……?

「……何が可笑しいの」
 立ち止まって、振り返らないまま。動いていないといないで脚が痛む。身体を支えるのがつらい。
 笑い声が止む。
 代わりに、チリンと金属を触れ合わせたような音がした。その音の冷たさに内臓を針で刺されるような緊張が走る。
 コイツは馴れ馴れしくボクの肩に手を回して隣に立つ。
 痛いから体重をかけないでほしいのに、喉がはり付いて言葉が出ない。
 きっとあの吊った目でボクを見ているのだろうが、目を合わせてはいけない気がした。
 目を合わせれば、何かが駄目になる。

「何か勘違いしてんだろ」
 耳元で声がする。すぐ隣にコイツの顔がある。近い。離れなきゃ。
 わかってるのに、ボクの身体は凍り付いて動かない。
「お前がオレを嫌ってようが好いてようがどうだっていいんだよ」
 横顔に視線が突き刺さるのを感じる。冷や汗が首筋を通った。脚が痛い。
「オレはお前を気に入ってるんだぜ。それ以上にお前と一緒に居たがるのに必要な理由なんざねぇだろ?」
 声音は今までと打って変わって甘ったるい。冷たい手が優しげに頬を撫でる。
 ぞわりと肌が粟立つ。
 纏わりつく嫌な空気を拭い去るように、声を振り絞った。
「だったら……っ!」
 一度声が詰まり、ごくりと喉を鳴らして言い直す。
「だったら、気に入ってるって言うなら、なんでこんな事するんだよ……!足、痛いんだよ……穴に落っこちた時も、死ぬかと思ったんだよ?!なのに、お前と一緒になんか居たくない!!」
 肩が上下するほど息が上がる。立っているだけで脚が痛くて、今すぐしゃがみ込んでしまいたかった。でも見下ろされるのは嫌で、震えて痛む脚に耐えて俯いた。
 ボクはこんなに余裕がないのに、コイツはなんて事ないように耳を掻いている。
「なーんもわかってねぇな」
 そして、口元が笑みの形を作る。
「幸せそうにニコニコしてるお前なんざ居心地わりぃんだよ」

 ……ああ、わかった。
 幸せそうにニコニコしてやるのが、コイツの一番の痛手なんだ。

 だったら、と思い、笑おうと頬に力を入れる。無理やり口の端をあげようとするのに、笑い方を忘れてしまったように笑えなかった。

 ――今のこんな状況で、笑えるはずなんてない。

 笑おうとした反動か、崩れた表情のまま堪えきれなくなった涙がぼろぼろと溢れた。脚も痛くて耐えられなくて、そのままその場にうずくまる。
「痛い……痛いよぉっ……」

 もうどうでもよかった。早く家に帰って、安心したかった。
 ここは酷く不安になる。
 どうしてこんなに不安になるんだろうと考えて、ここが昔、家族で行ったお祭りではぐれて迷い込んだ林に似ていた事に気付いた。慣れない浴衣は歩きにくくて、どっちに行っても誰も居なくて、ただただ不安で恐かった。
 あの時はまだ小さくて、天音も生きていた。妹がいるんだからしっかりしなきゃと思いながら不安には勝てなくて、幼かったボクはとうとう泣いてしまった。
 泣いているところを父さんが見つけてくれて「お兄ちゃんなのに泣いてたら恥ずかしいぞ」と、言われたのを覚えている。

「脚、っ痛くて、もう、立てないよぉ……ッ」
 一度零れた涙は後から後から湧いてきてとまらなかった。涙と一緒に、文句も口に出る。
「ほら、これで満足でしょ……いい歳して、男なのに泣いて、バカみたいだって思ってるんでしょ?!なんで……ボクが何したって言うの……?どうしてっボクが……!」
 吹っ切れたように声を出して、あの頃みたく子供みたいに泣いた。喉が苦しくて、目元を擦っても擦っても涙が溢れて、もうどうにも出来なかった。

「可哀想な宿主サマ」

 小さな子供をあやすような声は目の前から聞こえた。同じ目線にしゃがんだコイツは、ボクの顔にかかる髪を壊れ物にでも触れるようにかきあげる。
 近くで目が合う。
 辺りは暗いのに、猫みたく目が光っているような気がした。
 ボクと同じ顔で同じ声。だけど決定的に、何かが違う。
「いい子だから大人しく手当てされな」
 ――お前がやったクセに。
 なのに、コイツの優しい声は、なんて心地良いんだろう……
 そう思ってしまった。
 何故だか父さんを思い出した。今、父さんと母さんは元気にしているだろうか。そんな場違いな事を考えた。

 コイツはボクの脇に腕を通して立ち上がらせる。
「どれ、脚見せろよ」
 ベッドに座らせられる。しゃがんだコイツは返事を聞く前にボクの素足を手にとった。そしてパジャマのズボンの裾をめくりあげ、繁々と眺めたと思うと一撫でする。
 くすぐったい。
 身を捩じらせる。身動ぎして、予想していた脚の痛みがない事に気付く。
「な?もう痛くねぇだろ」
 脚を伸ばしてみる。
 もう、痛くない。
「……うん」
「そりゃあよかった」
 肩を押されて寝かしつけられ、ふかふかの枕に頭を置かれる。そして肌触りのいい軽い布団をかけられ、頭を撫でられる。
 さっきまでの嫌悪感は不思議なほどなかった。疲れたのかもしれない。
「今日は疲れただろ。しばらくここでゆっくり休んでな」
 コイツは心を読んだみたいにそう言う。

 確かに、身体が重くて酷く疲れた。
 鉛のように重たくなった身体。優しく包んでくれるふかふかしたベッドは心地良くて、強烈な眠気を誘う。
 そして暗示をかけるように、追い討ちの言葉。
「おやすみ、宿主」
「ん……」
 返事もそこそこに瞼を閉じる。
 あんなに怒ってあんなに悲しかったのに、感情まで疲れたように何も感じなかった。
 今はただ、眠たい。
 意識が沈んでいく。目を閉じて息を整えるとすぐに猛烈な睡魔がやってきた。
 眠りに落ちる直前、ふと思う。


 ――『コイツ』は誰で、『ここ』はどこ?


 一瞬湧いた疑問は、ゆっくりと暗転していく思考にかき消された。





END





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