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短編
No other choice.





 ――――こんな風に生かされるくらいなら、消えた方がマシだった。



 あの日、不愉快な光を放つホルアクティがオレに与えた未来。

『罪深き魂の消滅は必ずしも償いにはならないのです。特に貴方のような存在にとっては、唯一の救済にも成り得ましょう。しかも貴方には、貴方が最も傷付けた魂の傷を、其の手で癒す義務がある……』

 大邪神ゾーク・ネクロファデスの存在すらねじ伏せる事の出来てしまう、あの光から死刑判決のように下された言葉。
 四方から照りつける強すぎる光は、影一つ落とす事が出来ないままオレの闇を消し去った。何の力も持たないこの肉体を与えられた時、オレは、オレの存在意義の全てを奴に奪われたのだ。

『故に、これは千年輪に宿る闇に与えられる、贖罪の未来なのです』

 抵抗出来ない光の中で聞かされたその言葉は呪いのように、新たに与えられたこの身体の耳にこびり付いて離れなかった。





 冬の夕暮れの寒々しい光が、開け放したカーテンから窓の形に滲んでぼんやりと室内に入り込んでいた。重たい灰色の空では太陽の在り処はわからない。それだけが今の救いだ。眩しすぎる太陽は、いつも嘲笑うように今のオレの姿を照らし出す。
 抜け殻のように過ごす毎日は、憎しみも、欲望も、何も感じさせない。
 そこに置かれただけの人形のように動かないまま、毎日毎日与えられたこの一室のベッドの上で、上体だけを起こして窓の外を見つめながら、いずれ人間として死ぬだけの未来を呪い続けた。その呪いも、かつてのような激しさはない。憎悪というよりは、虚無に似た。
「夕飯、食べよっか……」
 視界の隅でただの同居人となった宿主が、器を置いたトレイを持って部屋に入ってくる。ドアはいつも開け放してある。何が入ってこようとどうでもいい。
 目的の為の最大の駒だと思えば愛おしさすら感じていたこの男にも、今はもう何も感じない。ホルアクティに双子の兄として設定されたコイツはもはや、甲斐甲斐しくオレを生かそうとする、鬱陶しいだけの存在になっていた。
 宿主はベッド横の粗末な椅子に腰を掛けて膝にトレイを乗せ、オレの顔を覗き込む。
「ほら、口開けて」
 煮詰めて液状になった米を乗せたスプーンが、無理やり唇の間にねじ込まれる。味はない。口の中に放り込まれた生温かいそれが不愉快で、噛まないまま飲み下す。飲み下したどろりとした塊は、喉の内側から締め付けるように食道を通り、腹の中へ落ちていく。
 初めはこの感覚が不愉快で、頑なに口を開かなかった。だがそうすると宿主がしつこくオレに付き纏うから、さっさと飲み込んで自室に戻らせた方がいいと考えて今はこうしている。
「うん、えらいね……ちゃんと飲めたね」
 大して嬉しくもなさそうに微笑みながら、再びスプーンをオレの口元に運ぶ。オレは口に入れられるそれをまた飲み込む。宿主がまたスプーンで器の中の生温かいものを掬って口元に運び、オレはまたそれを。器の中身が空になるまで繰り返す。人間が生きる為の、オレにとっては屈辱的な行為を。

 空になった器に満足したのか、宿主はオレの口を濡れた布で拭きながら少し機嫌が良さそうに言う。
「プリン買ってきたんだ。食べようよ。食べたコトないよね?美味しいんだよ」
 今度は小さなプラスチックのカップの蓋をぺりぺりと剥がしながら、オレに笑いかける。のっぺりとした黄色い塊を、小さなスプーンで掬う。
「はい、あーんして」
 開けてない口に、スプーンに乗った塊がねじ込まれる。舌に触れた黄色っぽい塊は甘い。
「っ……」
 べっとりとした甘ったるさが嫌で顔を背ける。口に入らなかった甘い塊は、頬を掠めて布団の上に落ちた。
「あ……」
 宿主は驚いたように目を丸くしてオレの顔を凝視する。
「今、嫌がったんだよね……?」
 返事をするのも億劫で、背けた顔で視線だけ宿主へ向けて肯定の意を返す。オレの反応がないのをいい事に、何でも口に突っ込むのはやめてもらいたい。
「うん……うん、ごめんね。嫌がるようなコト、しちゃったね……。甘い物は好きじゃなかったかな」
 拒絶されたというのに、宿主は何となく嬉しそうにオレの顔を拭いて、布団に落ちた塊も拭き取る。
「ねぇ。食べたい物とか、好きな物とかない?用意できる物なら何でもいいよ。何かあるでしょ?あ、ゲームはどうかな!お前、実は結構好きだったでしょ。お皿片付けたら持ってくるよ」
 宿主はいつも、返事のない会話を一人でずっと続けている。動かない、口を開かないオレの分まで、コイツの中に居た時は想像も出来なかったほどによくしゃべる。
「遊戯くんも言ってたんだ。お前ともう一度決闘したいって。お前とあっちの遊戯くんが決闘してたなんて知らなかったよ。お前は負けちゃったらしいけど、凄く手強かったから、今度は違う形でやってみたいって言ってたよ。だからボク言ったんだ。元気になったら遊びに来てねって。春からはボク達、大学生なんだよ。ちょっとズルをしたらしいけど、あの人がお前の入学手続きもしてくれたんだ。春には元気になって、一緒に通おうね」
 ベラベラとしゃべり続ける宿主を見つめる。他でもない、この男に世話を焼かれる毎日がどれだけ屈辱か、コイツにはわからないのだろう。
 いい加減、不愉快を感じて口を開く。

「殺せよ」

 初めて人間として言葉を発した。その言葉は、自分でも驚くほどに覇気がなかった。
 トレイを下げようと立ち上がりかけた宿主は、その姿勢のまま固まってオレを見つめる。
「え……?」
 何を言われたかわかっていなさそうな宿主に、もう一度言う。
「殺せよ。お前はオレを憎んでいい」
 ようやく言われた事を理解したのか、宿主の表情が歪む。トレイを床に置き、椅子に座り直す。
「なんで、そんなコト言うの……」
 やはりコイツは何もわかっていない。オレがどんな気分で毎日を過ごしているか、どれだけの屈辱を感じてここに居るか。目的のない今の生にどれだけの無意味と絶望を感じているか、何もわかっていない。オレがこの姿になっても、宿主……いいや、獏良了は、何も知らない愚者のままだ。
「お前はオレを殺していい」
 それが獏良了がオレに出来る、唯一の善行であると言い切るように、はっきりと言う。
「オレを殺す理由が、お前にはある」
「やめてよ!!」
 同じ言葉を繰り返すオレを遮って、獏良了は叫んで立ち上がる。オレの肩を掴んだ手が、背中を枕に押し付ける。抵抗はしない。自分を見下ろす顔を前に、瞼を閉じる。絞めるも殴るも好きにすればいい。この身体がどうなろうと、どうでもいい。
「お前はもう、ボクから何も奪う権利なんかないんだ……!」
 顔に、ぽたりと一滴の水滴が落ちた。生温かい水は肌を伝って唇に侵入し、その味が舌に触れる。塩気のある味がひどく懐かしい気がした。唇についた残りも舐め取る。
 薄まる味が名残惜しく、薄く瞼を開けて水の落ちる元を辿る。獏良了の顔、頬、眼窩。泣いている。何故コイツが泣くのか。こんな未来を与えられて泣きたいのはこちらの方だ。
 それでも涙の味はどこか心地よくて、コイツの濡れた頬を舐め取る。一瞬肩を強張らせたが、すぐに力を抜いてオレの髪を撫でた。
「うん、いいよ……お前の好きにして……」
 コイツの邪魔な横髪をかき上げる。細い髪はサラサラとした感触を指先に与える。次々と頬に流れ落ちる涙を、柔らかい頬肉ごと吸い付いて舐め取る。口の中に塩気が広がる。
「んっ……」
 くすぐったがる身体がオレの腕に囚われて身動ぎする。腰にむず痒いような感覚が生じる。どうすればいいかわからないもどかしいこの感覚は、人間の。

 荒くなりそうな呼吸を堰き止めるように、頭を撫でていた手をオレの首元に運ぶ。
 早く今の生を終わらせたかった。何の目的もない、意味を見出す事も出来ない人間の感覚に流されるのは、もう。
「オレを殺せ……!」
「嫌だ……絶対嫌だ……っ」
 要求を拒絶するコイツはただの人間に成り下がったオレの手を振りきり、抑え込むように身体に抱きつく。
 獏良了がオレを殺さないのなら。
 床のトレイが視界に入る。これも食わせようと思っていたのか、空になった器と食べなかった小さな容器の隣には、林檎と果物ナイフが置かれていた。
 獏良了を突き飛ばす。ベッドの上から落ちそうになりながら手を伸ばして果物ナイフを取り、自らの首元を目掛けて刃先を向ける。
「ダメ……!」
 咄嗟に止めようとしたコイツがオレの手を叩き、ナイフは呆気なく手から落ちた。
「痛っ……」
 刃に触れてしまった獏良了の指先から血が滲む。何でも形作る事が出来た器用な指先が傷付いて、真っ赤な一筋が流れる。その赤さに魅入ったオレの手は、勝手にそれを掴んで口に含んだ。
「っ、痛い、よ……」
 涙とは違う、もっと繊細な生の味。吸い付くと体温に紛れてじわりと舌に広がる。生きた人間の血潮を感じて、腰の奥の熱が狂喜して昂ぶる。
 腕を引くと、されるがままの身体は簡単にオレの腰に跨った。重みを感じる部分に生じた感覚がどういう衝動であるか、気付いた頭では嫌悪しながら、湧き始めた人間の本能が忠実に従おうとする。獏良了の血が人形同然だったこの身体に血を与えて通わせるように、熱を与えていく。
「お前、舐めるのが好きなの……?」
 切れた指先が舌に擦り付けられる。見上げるとその顔は困ったように笑っているのに、まだ涙を流している。それを舐め取るのにはこの体勢ではキツい。
 思うより先に身体が動いて獏良了の身体を倒し、のし掛かっていた。人間の身体は勝手に獣のような荒い呼吸を繰り返す。腰に生じた熱が頭にも回り、冷静な思考を奪って流れる血と涙を貪らせる。もどかしい腰の熱を、獏良了の身体に押し付ける。
「お前がしたい事、なんでもしていいよ……今までだってそうだったんだ。だから、これからも……」
 傍らに落ちた果物ナイフを再び手に取る。こうして刃物を持つとかつて感じていた昂揚を思い出すと同時に、人間らしい欲望が身体を熱くする。色味の強い二つの感覚は全く別物なのに、一つの熱としてこの身体の中で混じろうとする。頭で拒もうとしていても、熱は勝手に温度を上げていく。
 果物ナイフを手にしたオレを見て、獏良了が悲しげに笑う。
「でも、死ぬのはやだなぁ……」
 血を求めて腹を裂こうとした刃先を止める。
 目的のない今、コイツを失ったところで困る事は何もない。コイツが死ねば、オレもこのままここで衰弱して死ねるだろう。目的のない無駄な生を終わらせる事が出来るのだ。
 なのに、刃はそれ以上進まない。
「……死にたくない理由はなんだよ」
 問いかけると、獏良了の手がオレの頬に触れる。血のついた温かい手の平。少し考え込んで黙った後、オレに笑いかける。
「なんでかな。わからないから、わかんないまま死にたくないのかな……」
 その答えはオレの気分を苛立たせた。
 無力な人間のみに与えられた、目的のない不透明な未来の人生。生まれ落ちて死ぬだけの無駄な時間。
 かつては鮮明な目的を思い描けたというのに、それを奪われた代わりに与えられた今の生がどんなに屈辱か、誰なら理解出来るだろう。人間である獏良了には、それを理解出来るはずがない。獏良了だけじゃない。きっと誰でもそうだ。理解出来る存在がいるとすれば、オレを生んだ親愛なる闇と、今のオレを与えたあの忌々しい光。

 血を求めていたはずの刃先は行く先を変えて、獏良了の着ていたシャツを切り裂く。
「っ……!」
 怯えた身体が震える。破かれた布の間から現れた白い上半身の真ん中には、五つの薄い傷跡。千年リングがここにあった証。オレの居場所。途端に、宿主であった獏良了が恋しくなる。だがこれも、所詮は人間の。
「……このまま心臓を一突きにされたくなければ、ここから出て行きな」
 左胸に刃先を向ける。振り下ろせば突き刺さる位置にある刃物を見て、獏良了の顔が恐怖に歪む。
「オレはテメーと人間ごっこをするつもりはサラサラねぇんだよ」
「でも、お前は……!」
「お前が出て行かねぇならオレが出て行ってやるよ」
 刃物を軽く投げつけ、寝間着のまま横たわる身体を放って立ち上がる。
「どこ行くの?!」
 獏良了はオレの後を追おうとして叫ぶ。そんな事はオレだって知った事じゃない。ただ、今は。
「テメーの居ねぇ所だよ」
 その言葉を聞いて、獏良了は破れた服の前で手を握り締めた。下唇を噛んで無理に笑おうとするその目には、涙が溢れそうになっている。
「そっか……ボクはもう、お前にとって必要ないんだね…………"永遠"なんて、嘘だったんだっ……」
 ぼそぼそと呟いた言葉の後に、すすり泣く声。
 千年リングにいた頃に自由にいじってやった思考回路が、本当にオレの所業だったのかわからなくなる。獏良了は千年リングがなくても、たった今オレを求めている。何故だかわからない。
 だが今更、獏良了の心境を知ってどうする?
 もうコイツは宿主でもなければ目的を果たす為の駒でもない。コイツがオレに何を期待して世話を焼いていたか、オレの知った事じゃない。応える義務も意味も、何もない。
 苛々とさせられるすすり泣きを遮って乱暴にドアを閉める。廊下に出ると、泣き声は嗚咽混じりの激しいものに変わっていく。実際には痛みなんかないのに、じくじくと胸に刺さる棘を感じる。

 ――――だから人間になんざ、なりたくなかったんだ。

 泣き声を無視して出て行く事が出来ず、閉め切ったドアに背を預けてその場に座り込んだ。
『春からはボク達、大学生なんだよ』
 嬉しそうに言った獏良了の顔が浮かぶ。
『あの人がお前の入学手続きもしてくれたんだ。春には元気になって、一緒に通おうね』
 そんな未来を与えて、ホルアクティの奴はオレに何をしろと言うのか。

『貴方はもっと、知るべきなのです』

 オレをこんな状況に追い込んだ元凶の声が聞こえる。
 その声と背後から聞こえる泣き声を拒絶するように両手で押さえつけた耳の奥で、誰かの朗らかな笑い声が聞こえた。固く閉じた瞼の裏で、桜の花弁が舞う。舞い降る花弁はうっかり手を伸ばしてしまいそうなほどに美しく、その向こうには、見慣れた後ろ姿。
「テメェの思い通りになってやるかよ……!」
 吐き捨てた拒絶の言葉は、視界の中で踊る花弁の幻影と共に掻き消された。






END







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