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初めから信じてなどいないから、有り得ない。
あの夢の先まで 6
「あ…やっべ、携帯…」
いつも通りラストまで居ずに店を出て、暫く歩いたところで、ふと重大な忘れ物に気が付いて小さく舌打ちをした。
仕事柄、人前でイイ顔すんのは得意だが、一人の時はやくざ者の素が出てしまう。
とにかく、あれを忘れるのだけは本当にまずい。副業とはいえホストなら手放してはいけない物だ。
…戻る以外、ない。
すぐにクラブへの道を引き返す。
さすがに一ヶ月半も経てば、肩口の傷も薄く残っている程度になっていた。元より、軽く掠めただけの話だ。そもそもこれくらいの傷、受けるのは初めてではない。当然だ。
いわゆる暴力団、である"新鮮組"に居た以上、大して不思議でもない。
うちの組はあらゆる意味で特別だった。当代である近藤の若さ、そして異常なまでの人の良さ。跡目が決まった当時は、「あんなお人好しに務まるものか」と裏で相当叩かれたらしい。腐っても組長、表立って言う者など皆無ではあったようだが。
しかし、そうであるからこそ、今俺はこんな生活が出来ているのだ。
俺は中学の時に身寄りをなくした。父のやった事…、思い出したくも無い光景。裏切り、だなんて、そんな軽い言葉で表せるものではなかった。それによって、友達の態度すら一変、学校にすら通うのが億劫になったのだった。
何を信じたら良いのか分からない。自分以外の何を信じろというんだ?
…いや。
何も信じる意味なんて無いし、その必要もない。
全てに気力を失くしていた。
しかし、そのまま中卒でフリーター…の筈であった俺を高校どころか大学院まできっちり出させてくれたのは、全て親戚と親交の有った近藤の厚意によるものだった。
その代わりとして、彼に引き取られると同時に、俺はすぐに組の下っ端としてその世界に入った。喧嘩っ早い性格ではあったし、ガキの頃から剣道をやってはいたが、所詮その範囲。初めはそれまでと全く違う世界に入る事を渋っていた。
だが、実際入ってみれば、組長の決めたことは絶対と見えて、いきなり加わった全くのド素人である俺にも、風当たりは無かった。
…一人の例外を除けばだが。
当時目に見えて面白くなさそうな顔をしていた数え九つの小さなガキは、何が気に入らないのか十年近く経った今となっても俺に対する当たりが目立つ。
付き合いこそ長けれど、飄々として何を考えているのやら見当もつかない男だ。
分かるのは、とんでもなく強いという事くらいのもの。近くでずっと成長を見てきたが、恐らく天性なのだろう、あいつが数えで十四を過ぎた辺りから、俺が実力で勝るか怪しくなった。
武道館じゃあるまいし、手合わせなどしないから分からないが。
そいつは…沖田総悟は、最近副長の座に納まった筈だが、詳しい事はよく分からない。俺がその座を明け渡すと引き換えに組から離れてしまったからだ。
本当に理解のある組長であった。もし普通の組であれば当然のように抜ける事が叶うはずがない。しかし、彼は、
「そもそもこっちの人間じゃないのだからいつでも抜けて良い」
などと昔から言っていたのだった。
それをずるずると居座る事約十年、いつの間にやら副長だ。
暴力団幹部には良学者がいるのが望ましいのだが、何せこの組長のこと、その辺の采配をしていない。俺の他に、まともに学校に通った者はないに等しい。
お陰で俺は、在学中には既に副長としての任を受けていた。しかし、ヤツのことがずっと引っ掛かってもいたのだ。
総悟は俺より古株であるし、組長にも可愛がられてきていた。何よりあの冷静さ、実力。
いつも副長の座を寄越せと喚くアイツこそ、実際副長に相応しい。そもそも、俺はこっちの人間じゃないし、本業もあるのだから。
そんな事を考えていた矢先、クライアントから「その話」を持ち掛けられたのだった。…全く以て異例の引き抜きであった。
承諾したならアメリカに発たねばならない。
そうしたら、組に関わっていられなくなるのは明らかだ。ならばこの椅子には座っていられない。とすると…。伊東の件をどうにかするのに丁度良い。組内にいながらでは動きが付かないので二の足を踏んでいたところだ。そして…アイツにこの椅子譲って、そんで終わりだ。
俺は、一週間と空けずにその話を受諾したのだった。
同時に、組長の近藤さんに訳を話して抜けて、伊東を呼び出して。全て終わりの…はずだった、のだが。
武器を持ってねェってのは、嘘だった。相手が武器を持って来ないと言うのを鵜呑みにするほど、人を信用するような人間じゃなかった。
それでも、死なす気までは無かったから、わざと出さずにおいたのだ。
、だというのに。
…完全に手違えた。
実際、殺しの始末がどれだけ厄介なものか。その上アイツに持ち掛けられた"ビジネス"の対価。
確かに、今は金に困っている訳ではない。
それなりに稼ぎのある仕事をやらせてもらっているし、クラブでバイトもしているのだ。
うちの組がついているホストクラブに初めて入ったのは、高校卒業と同時だった。
目的は大学の学費を稼ぐためだ。高校は普通のバイトでどうにかなっても、私大となってはそうもいかない。
組長は払うと言ってくれたが…、ただでさえ世話になってるってのに、全額出してもらうなんて出来るかよ。
未成年だったので飲みは出来なかったが、割と楽に仕事を覚えていった。そして、ランキングに入るようになるのにもそこまで時間はかからなかった。酒が飲めるようになってからは、それがトップに落ち着いて、激しい変動もなく今に至る。
そう、五年以上経った今に。
さすがにこれだけ長くやっているので、客それぞれへの態度や営業トーク、色掛け友営、演じ分け。大概の事はホストとしてはかなりの技量を身につけたと自負出来る。
というか、これだけやっていて身についていないのであれば相当向いていないとしか思えない。
そう。
本業副業共に、それなりに業績も認められているし、給料だって申し分ない。金に困っている訳ではないのだ、それでも。流石にあの提示金額はポンと払えるものではない。
…ったく…。
仲間内で吹っかける値ではない。アイツ…半分ゆすってやがる。もはや組を抜けたというのに、未だに俺を目の敵にする理由がどこにあるのだろうか。
まあでも大概、ああいう奴の方が世渡りを上手くやるのだ。人にやたらと親切にしたり、人を無闇に信用したり、そんなものは、生きていくうえで要らないモンだ。
但しこの世界…、義理を通さねば始まらない。受けた恩はきっちり返す。
近藤さんに受けた大きな恩は一生掛かりでも返せないかもしれないが。
彼に受けた恩。
…と、あの金髪の男に売った恩。
返す、返される、そんだけの事だ。
今の今まで居たクラブの裏口に回ると、丁度空のボトルをまとめていた内勤の男が顔を上げた。
「トシさん?お忘れ物ですか」
「ああ、まあな」
「取って来ましょうか?」
「いや、良い」
今日はなかなかの盛況だった。恐らくあの調子なら置き放した控え室には誰も居ないだろうし、自分で行った方が早い。短く断りを入れ、真っ直ぐ控え室に向かう。
…だが、入った瞬間、やはり内勤に頼むべきだったと後悔する事になる。
誰も居ないか、居てもランク下部の者だろうと思ったのだが、読みが外れたのだ。
よりによって、か。
この男と二人になるのは…正直避けたかった。
「抜けてんなァ、トシさん?」
バイオレットの派手なシャツの袖先には、見覚えのある携帯電話が弄ばれている。
これがうちの店に入って僅か一ヶ月余りの者の態度とは思えない。別店でナンバーホスをしていた経歴のある男であるから、多少は仕方ないのだろうが、それにしても人を小馬鹿にしたようなこの言動。
思わず舌打ちをしそうになるのを辛うじて抑えて、なるべく落ち着いた声調を押し出した。
「寄越せ、晋」
口元を上げたままのそいつは、携帯を小さく投げ上げてはキャッチするという事を繰り返していた。
「これを忘れちゃおしめェだわな」
「だからわざわざ取りに来たんだろうが」
心なしか声に苛立ちが入る。俺も大概、年上に対する態度ではないのだが。
「んな怖ェ顔するもんじゃねェぜェ?せっかくキレーなツラしてんだからなァ、」
男は無造作にソファーから立ち上がると、つかつかと歩み寄った。口角を僅かに上げた表情は全く変わらない。
「…俺好みのよォ」
耳元を掠めた囁き、すれ違い様に四角いそれをポケットに滑り込まされる。
…この男は苦手だ、正直。
「じゃ、戻んねェとなァ」
何故わざわざそんな事を口に出すのかと振り返ると、向こうはまさに部屋から出ようとしている所だった。そして出る間際、何気なさそうな口調を投げ掛けたのだ。
「新宿のNo1ホスさんが来てっからよ」
「…」
何がしたい。何故俺にそんな事を言う?
…野郎、俺の反応を確かめている。
表情は変えなかったつもりだった。だが、チラとこちらを一瞥した男の洩らした小さな笑いが、その自信をぐらつかせる。
彼はそのまま場内へ姿を消していった。
「金時、か…」
さすがに同業者であるから、新宿トップの名くらい知らぬ訳でもない。その男が来ている?何故この店に。
胸ポケットからラークの箱を取り出して一度振り、端の覗いた煙草を咥えて引き出す。
見つかった、ろうか。
直接見ていなくとも、表にランキングが掲げられている。嫌でも目に入るであろう。
とにかく、それに気づいていないと考える方が不自然である事は明らかだ。
駅で見掛けた瞬間から、そいつが金時という名のホストである事は分かりきっていた。向こうは俺の事など知るはずもないが、此方にしてみれば相手は業界トップ。名や顔くらい判る。
実際に歌舞伎町界隈で何度か目にしていたし、悪い意味でなく随分と目立つ男だった。あの日とて、目立たぬ礼服など着ていたにもかかわらず、一瞬で分かってしまったのだ。
単純に端麗だからというだけではなく、ぱっと目を引く何かがある。その上、数メートル先にあるその瞳の綺麗さには、ホームで思わず溜め息を吐いたくらいだ。
まあ…俺とは違う存在だ。
内面から滲み出る、何か。人を惹き付けるそれは性格の違いから来たものか?育ちの?…それとも別の。
何とはなしに整った貌を見つめていたのだが、あの時は突然のことに流石に焦った。
…そう、焦ったからだ、俺があんな似合わぬ事をしたのは。
人助けなんて、お優しい事をする人間だったか、俺は。
その後、差し出された名刺に記された役職には大して興味を持たなかった。結局ここでひとつ、「嘘」。
澄んだ目してても、所詮ホスト、か。
…まあ良い。別にそんなの、「裏切り」にもなりゃしねェ。
元から何も信じちゃいねえし、信じねェ、から。
「…んな事してる場合じゃねェ」
時計に目をやり、無意識に呟きが漏れた。
明日は仕事だ。早く帰らねば。
回想から頭を引き離すと、ジッポをカチリと響かせて、足早に店を立ち去った。
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※以上全て架空であり、実在の団体、事件、場所などとは一切関係有りません。