東京メトロ

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その腕の力は、本当。


あの夢の先まで 3
 
 
「…っぶねぇ…!」

思い切り腕が引かれ、反動で重力に逆らってホーム側へと倒れ込む。



笑ってしまうくらいに、あまりにもベタな出会い方だった。これが下手な男女の恋愛ドラマならば、本当に笑ってしまうところだ。
全く以て、廻り合わせというのは不可思議なもので。

最近では自家用車での移動をする事が多かった俺だが、あの車で葬儀に赴いては嫌味を言われるに決まっているし、気も引けた。
だから、あの改札をくぐったのだ。

偶然に偶然が重なって。
そして、あの安っぽいドラマみたいな出来事が、全てを変えた。



全てを済ませて帰る頃には、陽は落ちていた。少し歩いて、麻布十番。丁度到着した大江戸線へと乗り込む。
胸ポケットには名刺入れがすっかり納まっている。着衣にその重みを感じる度、胸が締め付けられる思いに捕われた。
あの時の夢。父への憧れ。
そして今、正に事務所長の椅子は不在となってしまったのだ。そうなったからには、事務所を畳むか…後継しなければならない。

夢だった。父のような弁護士になること。彼の事務所を引き継ぐこと。誰にも言わなかったけれど、それでも、本気で志していた。

だが、俺に法曹になる資格など無いのだ。俺のような無法者には。マフィアに恩義を受け、その警護用として拳銃を手放せない、そんな俺には。

誰がそんな者に弁護をしてほしいなどと考えよう?
人を弁護するどころか、自分が訴えられる事のほうが余程向いている。
ただでさえ、マトモな人間として扱ってもらえるには少々突飛な容姿で。それだけでも十分に不安要素だというのに?
その上、国内有数の歓楽街でトップを背負っているという自覚も責任も差し置いて、だなんて。あてどもなくフラフラしていた俺を拾ってくれた、あの人を落胆させてしまうことも厭わずに、なんて。

彼女を失望させてしまうことになる。
――親父と、同じように…。


気が付けば、アナウンスは青山一丁目駅の名を告げていた。
煩雑なホームへ降り立つ群衆の一人に紛れる。
駅というのは特殊な場所だ。こういう場に於いて個々の人間なんてものは大して意味など成さないし、成す必要も無い。互いに無機的にすれ違い、離散してゆくだけで良い。此処に在るのは、一つの群衆であって沢山の人間では無い。俺のポケットに名刺入れが入っている事も、ベレッタ拳銃が入っている事も、誰一人気にも留めずに脇を通り過ぎていく。
全く、つくづく、楽なものだ、と思う。

とくに急ぐ必要も無かったのだが、周囲の忙しない雰囲気に促され、乗り換えのため銀座線ホームへ向かう足取りは自然と速まる。着いたホームには、一分後の到着を待つ人々がまばらに立ち並んでいた。隣には、ロングスカートを履いた育ちの良さそうな若い女性がぼうっとしたようにトンネルの奥から接近してくる車体を見つめている。此処から一駅で赤坂見附、このまま帰って今日は……


そこで、予想外の事態が起こった。
 
 
「…っ…」

何か思いつめたように小さく息を吸い込んだ隣の女性が、躊躇い無く足を踏みだした。

何だ?どうして
ホームから…、

「ちょ、と…」
 
反射的に腕を掴もうとするも、間に合わずにその手は空を掴む。
周りの人間たちがこちらを振り返って目を見開くのが目の端に映った。一気に、ああっ、とか、なに、とか、意味を成さない叫びが溢れだす。
 
ああ、一つの群衆が、感情を持った個々の人々へと融解した、
 
と思った瞬間、女性のヒールがホームを蹴った。もはや車体は目の前。考える前に体が動いていた。

「待てっ!」
 
ホームの縁へ駆け寄ると、既に身を投げ出しかけた女性を思い切り引き戻す。勢い良くそんな事をすれば自分がバランスを崩す事など分かり切っていたが、構ってはいられなかった。ホストとして、SPとして、女性の身を第一に考えて行動するのが、当然の選択となっていた。
 

驚愕の表情を浮かべた女性と目が合ったのと引き換えに、突如自分の体を浮遊感が襲った。
 
丁度、良い。
こんな親不孝な裏切り者。
ホームの悲鳴すら申し訳ない。
あっちで親父に謝れんならよほど好都合だ――…
 


目の前に迫った銀座線が、やたら大きく見えた。
 
 
 
 


「…っぶねぇ…!」

一際切迫した声が耳を衝いた。

ガッ!

続いて俺の腕を掴んだ力は強くて、確かで。先ほどの女性とほとんど同じ条件下、驚きに見開いた目で捉えたのは、彼の端整な顔立ち。

息を呑むほど、綺麗な男だ、と。


強すぎるほどの力が俺を引っ張り、反動で重力に逆らってホーム側へと倒れ込む。


 
一瞬後、僅か数センチの隙間を残して、銀座線はピタリとプラットホームの縁に付いた。
 


「ってぇ…」

背面全体をしたたかに打ち付けたために、暫し動きを奪われる。落ち着くと、ホーム中から安堵の声や息が漏れるのが耳に入って少し申し訳無く思った。駅員が遠くから駆けてくるらしく、申し訳ありません、道を開けてください、という声も聞こえる。俺の腕を引いた男は数度息を吐いて立ち上がると、地に尻餅をついている俺を、隙の無い動作で手を伸べて立たせた。
 
「お怪我は?」

「いえ…全く」

「そうですか」

自分が随分と間の抜けた声を発したように思えたが、相手は気に留めなかったように短く返答したので心なしかほっとさせられる。男はきっちりと着込んだスーツを手で軽く払った。社章の光るスーツに合わせたグリーンのネクタイが、黒髪によく映える。その黒髪自体、すっきりとした目元との対比が傑出しているのであった。
 
「それなら良かった」
 
小さく微笑んでみせた男は、泣きそうな表情でへたり込んでいる女性と銀座線の車両を交互に見やった。急いでいるのかもしれなかった。問いかけようとしたところで、息の上がった駅員が傍にやって来た。
 
「お客様、ご無事でしたか!?」
 
此方が答える前に、駅員は深く息を吐いて俺とスーツの男に頭を下げた。
 
「申し訳有りません、本来なら此方の者が監督しているべき所…」
 
「いいえ」

「とんでもない」
 
口々に否定の言葉を述べると、駅員の目が女性の方へ向いた。
 
「お立ちになれます?少し来て頂きたいのですが…」
 
少ない降車の者たちを吐き出し終えた銀座線が、物珍しそうに此方を眺めていた者たちを吸い込んでいく。スーツの男が、放り出していたらしい鞄を拾い上げると、此方へ一度目礼した。

「じゃあ、私はこれで」

「あ!本当に有難う御座いました」
 
やはり急いでいたらしかった。駅員の言葉を聞いた男は、すぐに踵を返して乗り口へと向かう。ぼうっとしている間に、その男は群衆の中へ紛れ込もうとしていた。俺の命を助けてくれたその端麗な男には、恐らくもう、会う事は無い…なんて、

…、駄目だ。

大体、俺、礼も言ってない。
あの人がいなかったら今頃…

 
「ちょっと、待って下さい!」
 
慌てて叫ぶが、男の耳には届いていない様子だった。大した距離でも無いが、周囲の雑音が音声を吸収してしまうのだ。一寸迷いはしたが、再び声を上げて小走りに男に近づく。
 
「あの、すみません…!」
 
プラットホームにいて先程の経緯を知っている者は、道を開けてくれた。それに感謝しながら男の左肩を掴む。
 
「った…」
 
掴んだ瞬間、肩が跳ね、相手は驚くほど過剰な反応を示した。斜め後方から見るに、微かに目元も歪めているようだった。
 
「え…?ああ、すみません」
 
そんなに力が入っていたろうか。慌てて手を離すも、振り返った相手は、単に驚いただけのような表情をしていた。
 
「何ですか?」
 
「お礼を、したいんです」

「…え?そんな、結構ですよ」

「それじゃ気が済みません」

面食らったような相手に構わず続けて短く礼を述べた俺が、発車直前に渡した…というより押し付けたのは、胸ポケットに入っていた名刺だった。
電車は今にも発車しそうであったし、手っ取り早く自己紹介をするにはそれが一番だった。仕事でもいつも名刺を配っているから、癖になっていたのかもしれない。
もしくは…相手の名刺が欲しかったのだろうか。連絡先が分かれば何かしらの礼は出来るから。
クラブのお客様向けと同業者向けの名刺も何枚かは財布に入れっぱなしで持っていたのだけれど、そちらを出そうとは思わなかった。まあ、当然の事だけれど。
 

そして、思った通り、多少逡巡していたものの、彼は慣れた動作で名刺を差し出した。

後ほど連絡しますね、と言うと、諦めたように了承の言葉を口にして頷いたのが、微かに感じた嗅ぎ慣れた香りと共に、やたらと印象に残った。

そして、ついに銀座線は発車したのだった。地下鉄が一つの駅に停車しているほんの僅か、まさに一瞬の間にこの全てが起こったなんて、信じられない気がした。
 

 
振り返ると、駅員の側で未だにその女性は座り込んでいた。育ちの良さそうな女性だ、と思ったのは、長袖のブラウスにロングスカートという出で立ちだったからでもあったのだが、今はその裾が乱れて足首から脹脛にかけてが露出していた。

華奢な脚に沢山の激しい青痣、切り傷。

裏の世界に居る者なら一瞬でそれくらいの判断はつく。そう、彼女が人為的に激しい暴行を加えられた事くらいは。

治りかけの物から真新しい物まで。ということは、恒常的に。
 

見ている間に、女性は駅員の支えを借りてゆっくりと立ち上がった。スカートの裾がふわりと真実を覆い隠す。そんな簡単な事で見えなくなってしまうのか。
本当、つくづく、楽なものだ。

 
「あの、先程は…、…っ…」

二人の元に歩み寄ると、その女性が視線を落としたまま何か言おうとした。だが、その言葉は途中で震えて立ち消えになる。
俺は、彼女が見ていないのを承知で少し首を横に振ると得意の営業スマイルで詮索への衝動を封じ、落ちていた彼女の鞄を拾い上げた。そして、わざと彼女に見えるように、それでいてさり気なく、クラブの名刺をそのバッグに滑り込ませる。彼女は少し驚いた様子であったが、黙ってそれを見ていた。
 
続けて女性にバッグを持たせると、駅員に伴われて立ち去る彼女を見送り、次の電車を待つべくホームの壁に寄りかかった。
 
事の成り行きを見守っていた者たちも、また元の無表情へと戻っていく。
そんなものだ。こんな事は、此処にいる者たちにとっては、これきりの話。精々、話のネタくらいにしかならないだろう。
 
 
当事者は――‥
俺にとっては、もう少し違う意味を持つだろうか。
彼女に、…そして彼に、「つづき」を要求した俺には?
 
 
そう、彼と言えば。
去り際に嗅いだあの香り…

、硝煙…?

いや、そんな筈は無いか。
ふうっと息を漏らして、先の名刺を眺める。


土方十四郎…。

頭書に記された、その監査法人の名前は余りに有名。役職がマネージャーという事は、公認会計士、そして俺とそんなに変わらないであろう若年で管理職という事だ。
 

こともあろうに、有り得ない話。明らかに思い過ごしだ。
この名刺。彼がどんなに優秀な人材であるかをはっきりと物語っている。今アウトローの域を抜け出しきれなくなっている俺とは対極にある人間だ。
あの容姿。仕事柄、単に美麗な男など見慣れているというのに、何故あそこまで感じ入ったのか。惹かれたと言っても過言ではない心持ちであったのは何故か。
明快だ。他の知り合いとは根本的に違うのだ。だから…銃、だなんてますます有り得ない。



彼は…、俺とは全然違う世界に生きている人間、なのだから。





東京メトロ銀座線は、代わり映えのしない六両編成で、ホームへと我が物顔に滑り込んできた。 

 
 
 
 
 
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※以上全て架空であり、実在の場所、実際の事件などとは一切関係有りません。
 


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