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短編集・読み切り
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 ようやく店主への借りを返せるようにな

った頃には当時の場所に珈琲店は無くなっ

ており、なんとか人伝で見つけ出したこの

店で影無のその後を聞くことができた。

 珈琲店を五十年続けていた影無は当時給

仕をしていた今のマスターに店を押しつけ

て気ままな一人旅に戻ったらしい。

 生来の風来坊の血が騒いだのだろう、と

白髪を撫でつけながら現マスターは笑った。

 店を譲るにあたり影無が要求したのは、

旅の途中で再び訪れた時に無料で美味い珈

琲を飲ませてくれること。

 しかしそれ以来いくら待てど影無は姿を

見せず、自分が引退するまでには戻ってこ

ないつもりかもしれないとマスターは皴を

深くした。

 だから影無へのツケはいつか本人に直接

支払ってほしいという言葉に頷く他なかっ

た。

 人間である今のマスターはあと三十年も

しない間に寿命を迎えて死ぬだろう。

 何十年、何百年を当たり前のように生き

る私たちのような異形とは時間の流れ方が

違うのだ。

 自らが引退する時のことを考えて今の青

年たちを雇ったのだろうか、と視界の端で

動き回っている青年に視線をやった。

 一見してどこにでもいる日本人のように

見えるが、その身に流れる血は純粋な人間

のものではない。

 遠く古くに血を遡れば私の祖とも血が交

わるかもしれないとさえ思う。

 人の歴史で紀元前と言われるほど遠い昔

に私の祖先である吸血鬼は直系以外にもう

一つ別の種族と血を分けたのだと昔何かの

文献で読んだ。

 もしかしたらあの青年はその末裔かもし

れない。

 彼がもしこの店を継いでくれたらなら、

或いは影無が戻ってくるまでこの店を切り

盛りしてくれるかもしれない。

 そのような淡い期待がマスターの脳裏に

は生まれているかもしれない。


「お疲れ様です、マスター」


 カウンターの脇にある階段から金髪の青

年が降りてくると、店内にいた若い女性客

が静かながら色めき立った気配を放つ。

 金髪の青年はテレビや雑誌で見かけるよ

うな整った顔立ちをしており、若い女性客

たちの本当の目当てが珈琲ではなく彼なの

だと気づくのに時間は必要なかった。

 マスターと一言二言交わした青年はすぐ

傍を通りかかった黒髪の青年に声をかけて

呼び止める。

 十九歳くらいに見える黒髪の青年に比べ

て金髪の青年はまだ十七歳くらいで、黒髪

の彼との会話で満面の笑みを浮かべると更

にもう少し幼そうに見える。

 金髪の青年は青い目をしているが黒髪の

青年とは血の繋がった実の兄弟らしい。

 彼を目当てに来店したらしい女性客とよ

くその話題で盛り上がっているので、通っ

ていれば自然と耳に入ってくる。

 金髪の彼が“兄さん”と声をかけている

こともあり、それは偽りなく事実なのだろ

う。

 見た目でしか判断できない彼女たちは揃

って不思議そうな顔をするが、青年達が互

いのフォローをよくし合って仲良く仕事を

しているのを見て次第に納得するらしい。

 気配から判断できる私から見れば、兄弟

と言われれば成程と疑問にも思わない些末

な問題ではあるのだが。


「お代わり、お持ちしましょうか?」

「いや、結構だ。ありがとう」


 黒髪の彼に勧められた焼きプリンを口に

運んでいると他の席を回っていた本人が再

び私の席へと現れた。

 私がいつもは注文したデザートには手を

付けずに帰ることを覚えていて、それなの

に今日は珍しく口に運んでいるのを見て気

を遣ったのだろう。

 だが青年から勧められた焼きプリンは、

残念ながら私の舌では味を感じることがで

きなかった。

 青年が美味しいと思ったのであればある

いはと思って食べてみたものの、人間の血

が混じっている青年とはやはり味覚が違う

のだろう。

 そもそも私がいつも口につけないデザー

トまで注文するのはサービスとして付けら

れる焼き菓子分の代金を上乗せする為だ。

 デザートの材料費などを考えれば代金丸

ごと店の利益になるわけではないが、払わ

ないよりは幾分かマシだろう。

 今のマスターはあくまでサービス品だか

らと値段をつけようとしないからだ。

 それは客によって内容を変えていること

も理由としてはあるだろうが、あくまでも

こちらの気持ちを金額として上乗せする為

には適当だと思っている。

 あの焼き菓子にはそれだけの価値がある

し、だからこそこの店に定期的に通ってい

ると言っても過言ではない。

 特別な焼き菓子はこの店でしか味わうこ

とができないのだから。


「そうですか。

 では何かありましたら遠慮なくお申し付

 けください」


 私が断っても青年は嫌な顔もしないで丁

寧に一礼して去っていく。

 客一人一人に気配りをという初代マスタ

ー影無からのやり方は今なお継承されてい

るらしい。

 そんなことを考えながら、私はカップに

残ったコーヒーを飲み干した。





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