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短編集・読み切り



【欲しくはないのか?

 他人を意のままに操ることが出来る魔法

 のペンの力】


 不快な言葉がざわり…と心を撫でる。

 砂だらけの掌で心を揉まれているようだ。

 しかしそんな高取の心境を無視して言葉

は続いた。


【あのペンがあれば、もう子供だからと遠

 慮することはない。

 殆ど帰ってこないお前の父親やその不倫

 相手、口煩く怒鳴る母親、煩わしい教師、

 …それからお前を嘲った道場の上級生も

 お前の思い通りになるのに】


 耳を塞いでも侵入を阻むことが出来ない

言葉の主は高取自身が気づかなかった心の

奥底まで見透かして囁いてくる。

 それをただの一度も考えなかったかと問

われたら嘘だ。

 心を圧し潰すほどの罪悪感と犯人に対す

る憎悪にも似た感情の奥に生まれた小さな

小さな感情を無造作に拾い上げて突き付け

られる。

 本人の意思さえ無視して従わせることが

出来るのであれば…と一度だけ考えてしま

ったことを見透かして咎める様に。

 だが。


 ふざけるな。

 そんなもので服従させたところで、何の

意味がある。

 どれほどの価値がある。

 体に落書きし続けなければ継続できない

思考や言動なら、それが途切れた時点で全

て無意味だ。


 認めてしまうわけにはいかない。

 ふとした拍子に浮かんだとりとめもない

想像に首を絞められてはいけない。

 誰にも話したことのない心の奥を言い当

てられ動揺する心を落ち着けながら、声な

らざる声に強い感情で返す。

 …それすらも実は既に見透かされている

かもしれないということまで考えている余

裕は高取にはなかった。


【出来るさ。

 人間はとても弱い生き物だし、自己修復

 機能も完璧ではない。

 特定の人間に体に文字を書かれる事その

 ものを習慣づけさせた者もいたし、体の

 修復機能が及ばない範囲で体を変化させ

 られた人間はそれをフォローしながら生

 きていく。

 それは文字の書き手であるお前が何もせ

 ずとも、文字を書かれた者の本心からの

 言動になる】


 口角を上げ鋭い牙をますます剥き出しに

して影は嗤う。

 とても抽象的な言い回しだが、それは露

骨な事例を挙げていないだけで人を人とも

思わない…赤い血の通わない者の精神構造

だとも言えた。

 それに気づいて気丈にふるまおうとして

いた高取の思考の芯がスッと冷える。

 人の体に近い形をとっていても、それは

およそ人間の考え付くことではなかった。

 あの声に耳を傾けてはいけない。

 いっそ無視でもしてしまおうか、と思っ

た高取に声でない声はそっと囁いてくる。


【一晩の内に複数人の男にレイプされたあ

 の女子生徒はさぞや苦しんでいるだろう。

 そのペンがあれば、その記憶すら消して

 やることができる。

 終わらない苦しみからあの女子生徒を救

 ってやることもできる】


 毒でも流し込むような言葉。

 お前にとっての本当の贖罪はそちらだろ

うとほくそ笑む。

 全ての元凶であるレイプ犯は、おそらく

死んだ。

 もし仮に生きていても五体満足な体では

ないだろう。

 もう犯人を警察に突き出すという方法が

消え失せた今、高取に出来ることは何もな

い。

 悪魔の力でも宿っているような魔法のペ

ンでもなければ。


【お前がやがてこの事件を忘れて安穏と生

 きていく間にも、あの女子生徒はずっと

 死ぬまでレイプの記憶に苛まれ続ける。

 もしかしたら、その記憶を苦に自殺する

 かもしれない】


 夜のビルの屋上から身を投げる少女の背

中が簡単に想像できる。

 頬を撫でる夜風の冷たさが妙にリアルで、

ただの想像だと切り捨てられないほどの痛

みと共に胸の奥に刻み込まれた。


【お前は贖罪だからと言いながらあの男を

 追い続けていたくせに、あの女子生徒を

 救ってやることができる状況をみすみす

 蹴るのか。

 そうして長く続いていく日常生活を言い

 訳にしてあの夜の事もあの女子生徒の事

 も忘れるのか、“加害者の癖に”】


 ハンマーで頭をガツンと殴られた衝撃が

あった。

 心に流し込まれる毒の中から鋭い針が飛

び出して心臓の中心に深々と突き刺さる。

 鼓膜の奥に毒のある言葉がべっとりと纏

わりついた。

 忘れるだろうか、自分は。

 犯人の男が人身事故を起こして消えたこ

とに安堵して。

 言われてみれば、被害者である女子生徒

のことを高取は何一つ知らない。

 知っているのは同じ学校の3年生であろ

うということだけだ。

 あの夜の後の話を元店員から聞き出しは

した。

 が、高校でその生徒を探すことはしなか

った。

 あの男を捕まえてからだと後回しにした。

 それは本当に正しかったのか。

 “加害者として”

 毒で痺れる心が血を流しながら痛みを訴

える。

 その痛みを堪えて握りしめる拳に力を込

める。


【人間は辛い記憶を忘れられるから生きて

 いける。

 忘れることすらできない辛い記憶がある

 とすれば、それは延々と続く暴力のよう

 なもの。

 心からの贖罪を望むなら、迷うことはな

 い】


 このペンを拾えばいいのか。

 それであの少女にあの夜の事を忘れさせ

てやれば、本当の贖罪になるのか。

 …罪を犯すほど追いつめられたあの少女

の中の悪夢を本当の意味で終わらせてやれ

るのか。


 騒然とした人だかり、事故があったこと

を告げる構内アナウンス、駅員が現場に駆

けつけてくる気配をひどく遠くに感じなが

ら高取はひどくゆっくりとした動作でその

場にしゃがんだ。

 黒インクのペンを掴んで立ち上がる。

 隙間なく容器の内側を満たしていたイン

クが容器をすり抜け霧となって目の前に実

体化する。

 それを見ても、高取はもう驚かなかった。

 あの声ならざる声の主は、実体があるな

らきっとそういう類の存在であろうと疲れ

た頭のどこかで考えていたからだ。





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