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短編集・読み切り



 あの男……!!


 毎晩くたびれるほど街を歩き回ってずっ

と探し続けたあの男。

 もう見つけ出せないのではと心が折れそ

うになった瞬間もあった。

 その度にあの夜を思い出し、何としてで

もあの男に罪を償わせてやると自分を奮い

立たせた。

 あの男が、今、目の前にいる。

 着替えの入った大きなカバンが肩から滑

り落ちる。

 隣にいた母親が“ちょっと…!”と焦っ

たような声を出すが、男をガン見している

高取の耳にはもう届いていない。


 とりあえず胸ぐら掴んで、ぶん殴る…!


 拳を握りしめながら行き交う人の間を縫

って大股で距離を詰める。

 走り出したい心境ではあったが人でごっ

た返す駅のホームでは早歩きの方が素早く

動ける。

 男まであと数メートルの距離まで迫る頃

にはアナウンスが英語に切り替わって列車

の号数を読み上げていた。

 あと少し、あと少しで手が届く。

 男が列車に乗り込む前に捕まえられなけ

れば、この混雑の中でまた取り逃がしてし

まうだろう。


 このまま逃げ切らせてやるものか!


 幸いなことに安全柵付近に立っている男

はまた立ったまま俯いて居眠りをしている

ようだ。

 こちらの気配に気づいて逃げ出される心

配はない。

 あと数歩で手が届く…そう思った直後、

新幹線の到着を伝える電子音がホームに鳴

り響いた。

 近くに立っていた小学生くらいの男の子

がはしゃいだ声をあげ、高取の足が一瞬止

まる。


 まずい。

 このまま乗り込まれたら…!


 焦る高取の視界をサッと人影が通り過ぎ

た。

 けたたましいベルが鳴り響くホームの喧

騒さえ聞こえていないのか居眠りを続けて

いる小太りの中年男にその人影は勢いよく

体当たりした。

 驚いて咄嗟に動けなかった高取の目の前

で男の体はよろけ、柵の間をすり抜けて、

ホームから身を躍らせる。

 そこに鼓膜を震わせる轟音と共に新幹線

が滑り込んできた。

 男が落ちたホームへ人々の視線が集中す

るのを気にも留めないように、男を突き飛

ばした人影は身を翻して人の波に紛れてす

ぐに分らなくなった。

 高取の目がギリギリでとらえたのは、足

早に立ち去るその人影が髪に飾っていた赤

い花のヘアピンだけ。

 新幹線がまだ停車しきる前に目撃した誰

かの悲鳴が連鎖し、周囲に少なからず動揺

が走る。

 呆然として動けない高取の足元に何かが

転がってきてスニーカーにぶつかった。

 文具コーナーでは見かけたことがない、

商品名も製造元の情報も表記のない透明な

容器のマジックペン。

 転がってきた方向を見ると、あのハゲオ

ヤジが抱えていた革製の鞄が誰かに蹴飛ば

されて倒れていた。

 新幹線が滑り込んできているホームを囲

むようにドーナッツ状にできた人だかりの

一人がその鞄から飛び出した書類らしきも

のを踏んでいる。

 恐らく此方を向いて倒れているその鞄か

ら転がってきたものであろうと想像するの

は容易かった。


【これだ。

 あの男はこのペンを使って犯行に及んだ

 に違いない】


 そう直感した…と思いかけて留まる。


 いや、待て。違う。

 それは俺の自身考えたことじゃない。


 頭の中に響いてはいても、それは俺自身

が思いついた突拍子もない発想ではないと

警鐘が鳴った。


 これは“誰か”の言葉だ。

 俺をいいように操ろうとする、誰かの。


 周囲を見回して俺を見ている人物を探す

が、ホームは人身事故のざわめきで溢れて

いてそんな人物は見当たらない。

 いや、そもそもやっていることが人間業

ではないというのも重々承知してはいたが。


 誰だ、お前。

 どうして俺を誘導しようとする。


 気味の悪い笑い声が頭に響いて、高取は

全身に緊張を走らせた。

 目には見えない誰か。

 それがどんな感情を抱いて自分の思考に

介入しているのか、不快感で全身が総気立

つ。

 本能的に受け付けない気配なのだと全身

が訴えていた。





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あきゅろす。
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