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短編集・読み切り
§


「お、俺、傘買ってくるっ」


 細い道から広い道へ出るとすぐそこにコ

ンビニの看板が光っていて、俺は咄嗟に傘

の中から抜け出した。

 兄貴の体温と吐息から離れて短い距離な

がら冷たい雨に濡れると、ちょっと頭が冷

える。

 背中に兄貴の声がかかったけど聞こえな

い振りでコンビニの自動ドアをくぐる。

 肩越しに振り返ってみたが、兄貴は濡れ

た姿のまま入店するのは気が引けたのか入

ってくる気配はなかった。

 それを確認してほっとしながら俺は店内

を見回して傘を探した。

 傘は出入り口のすぐ傍に置かれていて、

もうそこには一本しか置かれていなかった。

 最後の一本だとしたら間に合って良かっ

たとほっとして、ビニール傘に手を伸ばす。

 カウンターに持っていこうとして、脇の

棚に並んでいる温かい飲み物がふと目に留

まった。


「あ、これ…」


 兄貴が好きなコーヒーに手を伸ばす。

 夏場だからアイスの方がいいかとも思っ

たけど、雨で濡れた後なら温かい方がいい

かもしれない。

 二人分の飲み物を片手に掴んで傘と一緒

にレジ置き、会計を済ませて自動ドアに向

かう。

 温かい飲み物の入った袋を鞄に入れなが

ら自動ドアに向かう俺の耳にすぐ脇にある

本棚の方から声が聞こえてきた。


「困ったなぁ。いやー、参った参った」


 その声は独り言と聞き流すには声の音量

が大きくて、しかも何故かこちらに向かっ

て言われたような気がした。


「…?」


 鞄から顔を上げてそちらに視線をやると、

紺色の着物を着た20〜30代くらいの男

性が着物の袖に腕を入れて腕組みをしなが

らコンビニのガラス越しに雨の降り続ける

空を渋い顔で眺めている。

 着物姿だなんて今夜この近所で夏祭りか

花火大会でもあるのかとも思ったけれど、

そもそもこんな天気では中止か延期だろう。

 それに…何故か行事の為に着た着物とい

うには、ちょっと着古されているような気

もした。

 それに色白な顔のラインはすっと細く、

細いつり目も相まって淡泊な印象を受ける。

 思わず立ち止まってしまった手前そのま

ま出て行くのも不自然な気もしたが、かと

言って初対面なので声をかけるのもおかし

い気がして迷っている間に第二声が届いた。


「雨が降り止まないことには帰れんなー。

 傘を貸してくれる御仁でもいたら助かる

 んだが…」


 糸のような細い目が開いて、こちらにチ

ラッと視線を向けてくる。

 確かにこの傘は最後の一本だったかもし

れないけど、さすがにこの傘を貸してしま

うとこのコンビニにわざわざ入ってきた意

味も無くなってしまう。

 そもそもどうしてこの人は傘がないのに

俺が入ってくる前に買っておかなかったん

だろうか。


「…」


 このまますっと横を通り抜けて店を出てし

まおうかと一歩踏み出した俺にその気配は一

息で一気に距離を詰めてきた。


「こんな時に傘を貸してくれる御仁がいた

 ら、ねぇ?」

「えっ…と」


 急に気配が近くなって驚くと同時に話し

かけられて言葉に詰まる。

 どうしたものかと考えあぐねて、チラリ

とカウンターを見る。


「店員さんに聞いてみたら、まだ傘の在庫

 あるかもしれませんよ?」

「それがね、生憎と持ち合わせがなくって」


 細い目は笑みを浮かべると狐目のようで、

細い顎のラインは余計に何かを連想させた。

 しかし持ち合わせというとお金がないっ

てことだろうか。

 傘を買うお金すらなくてコンビニにいる

のも不自然な気もしたが、着物が一切濡れ

ていないところをみると昼から降り始めた

雨に足止めをくらって何時間もこの店にと

どまっているのかもしれないとも思えた。


「でも、その…俺もこの傘がないと困るん

 で」

「なに、あっしの家もこの付近なんで。

 そこまでちょいと傘に入れてもらえたら、

 あっしも凄く助かるんですがね?

 この雨じゃ傘も無しに外を歩くにはちょ

 いと視界が悪すぎる。

 小雨ならあっしだって気にせずにぱっと

 駆けちまうんだが、この雨じゃそれも無

 理そうだ。

 そこで根の優しそうな旦那にちょいと相

 傘でも頼めないかと思いましてね」

「旦那って…」


 何となく言い回しが変わっているという

か古風だなと思っていたが、旦那と呼ばれ

る違和感に背中が痒くなる。

 そんな年をとっていないし、勿論誰かか

らそんな年上に見られたこともない。

 どちらかと言えば父さん似の童顔だなっ

て言われるくらいで。


「いや、細かいことはいいじゃありません

 か。

 それで、どうです?

 もしあっしの家まで相傘をして下さった

 らそれなりのお礼はさせて頂きますよ」

「それが、その…連れがいるので。

 早く帰って体を温めないと風邪をひいて

 しまうかもしれなくて」


 傘を貸すのではなく近所まで相傘するだ

けならいいかなと思わなくもない。

 傘はそのままさして帰れるし、この雨で

困っているなら手を貸すのもいいかとも思

う。

 初対面の人と相傘をするのに抵抗がな

いと言えば嘘になるけれども。

 だが問題なのは兄貴がさっきの件でず

ぶ濡れになっている事だ。

 早く帰って熱いシャワーを浴びてもら

わないと本当に風邪をひいてしまうかも

しれない。

 というか、初めて会った人と相傘するな

んて、多分兄貴がいい顔をしない…気がす

る。


「それなら丁度いい。

 あっしの家は本当にすぐそこなんでね。

 一杯やっている間に濡れた服も乾きます

 よ」

「一杯って、あの…っ」


 まだ未成年なんですと断ろうとする俺の

前を着物の男はスタスタと歩いて行ってし

まう。

 まだ了承したつもりはないんだけど、ま

さかそういう方向で誤解してしまったのだ

ろうか。

 男に続いて自動ドアを出ると兄貴がこち

らを振り返った。


「遅かったですね」

「兄貴、あの」

「連れってのは旦那の事ですか!

 いやぁ、それにしても濡れましたな。

 でもこの雨だから仕方ない!

 あっしの家ってのは本当にすぐにそこな

 んでね。

 ささっ、行きましょう!」


 俺が兄貴に言いかけた言葉に被せる様に

着物の男が一気に捲し立てる。

 ただの一言も横から口を挟む隙を与えな

いのは、もう呆れを通り越して関心すらし

てしまう。

 説明を求めるような視線を送ってきた兄

貴に何と答えればいいのか分からなくて苦

笑いを浮かべる。

 そんな俺を見て兄貴がため息を1つつい

た。


「生憎とこのあと予定が詰まっているので

 これで失礼します」

「まぁまぁ、そう言わずに!

 いやねぇ、ついうっかり傘を忘れてきて

 しまいましてね。

 あっしの家はすぐそこなんですけど、心

 優しい此方の旦那が家まで傘に入れて下

 さるってんで、これは助かったなぁと思

 ったんですよ!

 旦那もこの雨に降られてだいぶ濡れてら

 っしゃるようですし、傘に入れて頂いた

 お礼に服が乾くまでおもてなしさせても

 らいますよ」


 笑顔を絶やさないまま両手の掌を擦り合

わせて男は兄貴に語りかける。

 いつそんな事を了承したのかと責めるよ

うな目差しを向けてきた兄貴に、俺はそん

な返事はしてないと慌てて首を振る。


「そんな顔をしかめていたら、せっかくの

 男前が台無しですよ、旦那。

 まぁ旦那に用があるってんなら、無理に

 とは申しません。

 あっしは家まで傘に入れて頂ければ十分

 なんで。

 こちらの優しい旦那の傘に入れて頂きま

 す」


 “ね?”と振り返ってにこやかに笑うその

表情はもはやそれが決定事項のようで、俺

が何と言って断ろうかと考える隙も与えず

に傘の柄を持つ俺の手に手を重ねてそのま

ま握りこまれた。





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あきゅろす。
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