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短編集・読み切り
§


 俺の肩を抱いたまま傘をさして歩き出す

兄貴の体温と匂いがもっと俺の心臓をせっ

ついて、それを紛らわせるために口を開く。


「あの…怒ってる?」

「呆れてはいますけど。

 これで風邪でもこじらせたらどうするん

 ですか」


 激しく降る雨粒はあっという間に兄貴の

肩を濡らしていく。

 呆れているなんて言いながら兄貴は俺が

少しでも雨に濡れないようにと傘をこちら

に傾けてくれていて、それを申し訳ないと

思う反面その気遣いが嬉しくもあった。

 兄貴は本気で怒らせたら容赦っていう言

葉を忘れたようになってしまうけど、口先

でどれだけ冷たい言葉を言ってもやっぱり

優しい。

 大事にしてくれてる…そう思うだけで幸

せになってしまう俺は、その度に兄貴が好

きなんだって再確認してしまう。

 兄貴も俺と居られて幸せだって思ってい

てくれたらいいな、なんていうのは高望み

なのかもしれないけれど。


「俺はいいから…。

 ちゃんと傘ささないと兄貴だって風邪ひ

 くって」

「僕は駆と違ってちゃんと自己管理出来て

 ますから。

 それにこんなに降ったら傘なんてあまり

 雨避けにはなりませんよ」


 傘を貸してしまったのは俺だし濡れるく

らい平気だと言ってみたのだが、兄貴は聞

く耳をもってくれない。

 しかも言ってることが合理的なようでい

て実は全然そうでないのは、兄貴なりの優

しさなんだと思う。


「あの、ありがと」

「礼なら部屋に帰り着いてからにしてもら

 えますか。

 …さっきから香り過ぎですよ」


 鬱陶しげにそう言ったかと思ったら、急

に耳元で低く囁かれて肩が跳ねた。

 雨粒に遮断された狭い空間の中でぴった

りと触れる服越しに俺の心臓の音が聞こえ

てしまいそうで、思わず体を逃がそうとし

たけど肩に回された腕に阻まれた。


「何をしてるんですか。

 濡れますよ」

「うっ…」


 兄貴は一瞬だけ見せた含み笑いなどまる

で無かったみたいに引っ込めて涼しい顔で

体を逃がそうとする俺を止める。

 相合傘だなんて単純に浮かれていた俺が

バカだった。

 大雨とはいえ誰が見てるかも分からない

屋外で兄貴とこんなに長時間密着したまま

歩くっていうことがこんなにもドキドキす

るものだとは思わなかったのだ。

 俺達兄弟は日本人である父さんとイギリ

ス人である母さんとの間に生れたハーフだ。

 けれど厳密には母さんは“人”ではない。

 人の精を糧にして生きる淫魔と呼ばれる

もので、その母さんの血を色濃く受け継い

だ兄貴と麗は淫魔としての能力ももってい

る。

 もちろん半分は父さんの血が流れている

ので人間とほぼ変わらない生活はしている

が、唾液を始めとする体液には人間をエッ

チな気分にさせる成分が含まれているし兄

貴に至っては暗示の効果がある魅了(チャー

ム)という能力も使えるようになっているみ

たいだ。

 そして10万人だか100万人に一人という

割合でその淫魔を虜にする甘い匂いを発す

るというフェロメニア体質をもった人間が

生まれてくるらしい。

 淫魔である母さんの血を色濃く継いだ兄

弟とは真逆で、父さんの血を強く引いた俺

にその稀有なフェロメニアの体質が現れて

しまったのは本当に神様の悪戯としか言い

ようがない。

 本来、淫魔とフェロメニアは互いに人生

を狂わせ合い身を滅ぼすと言われているら

しいが、俺達兄弟は人と淫魔の血を半々に

継いだことが幸いしたのかそこまでには至

っていない。

 そしてそのフェロメニアの甘い体臭とい

うのは淫魔にしか分からないらしくて、俺

は自分の体臭である事も関係しているのか

甘い匂いを発している自覚はない。

 しかし兄貴と麗にはよく分かるらしく、

自分では分からないのだがそういうものら

しいという認識はしている。

 問題なのは、その甘い香りというのが俺

がドキドキしたりエッチな気分になった時

に強く香るらしくて…つまり、そういう俺

の内心を簡単に見抜かれてしまい困ってい

る。

 せめて香りだけでも無くせないものかと

1日に何度もシャワーを使ったこともあっ

たけど、兄貴に言わせると無駄らしいので

それ以後は諦めている。


「兄貴は試験勉強順調?」

「計画通り進めてますよ。

 試験そのものは大学院に進んでからです

 けどね」


 別の話題をふるとそれ以上何かを言うつ

もりもなかったのか、兄貴はすんなりと俺

の問いかけに答えてくれた。

 大学でも成績上位を維持しながら特待生

として奨学金をもらって大学に通っている

兄貴は、卒業後は大学院に進みながら資格

試験合格を目指すつもりらしい。

 国内でも超難関レベルの合格率を誇る試

験だけど、兄貴が一発ストレート合格を目

指すならそれも可能な気がしてくるから不

思議だ。


「あのさ、」


 俺が言いかけたその時、背後から車の音

が近づいてきた。

 叩きつけるような雨だというのにそこそ

このスピードを出しているのか、激しい雨

音の中唸るようなエンジン音が響く。


「駆」


 持っている傘ごと俺を歩道の端の方へと

兄貴が促した直後に、その車が脇の車道を

走り抜ける。

 車道の脇に溜まった水溜まりを躊躇なく

タイヤで轢いていったのか、車道側にいた

兄貴がもろにその水を被ってしまった。


 ズバシャアッ!


「っ…!」

「兄貴っ?大丈夫?!」


 雨量が多かったせいか水溜まりの水は跳

ね上げられて兄貴の腰の辺りまでずぶ濡れ

にしていた。

 もう“タイヤの突っ込んだ水溜りがズボ

ンにかかった”なんてものじゃなくて“バ

ケツの水をかけられたような”という表現

が正しい。

 大量の雨水を被った兄貴の下半身はもう

傘なんて不要だと思えるほどぐっしょりと

濡れてしまっている。


「はぁ…。

 早く帰りますよ」

「う、うん…」


 兄貴のため息にはありありと苛立ちが滲

んでいて、兄貴がこんな目に遭ったのは俺

のせいかもしれないと罪悪感が胸を刺す。

 もしも傘を一人で使えていたら兄貴は車

がくる前に歩道側にちゃんと避けられたか

もしれない。

 そうしたらこんなに濡れてしまうことも

なかったかもしれない。


「ごめん。

 俺が走って帰ればこんなことにならなか

 ったのに」


 傘を貸したのは俺だから。

 俺が一人で走って先に帰っていたら、濡

れるのは俺だけで済んだのに。


「寝言は寝てから言ってもらえますか。

 こんなに甘く香っている駆を一人にする

 わけないでしょう」

「っ!」


 苛立った低い声のまま囁かれ、それに言

い返す前に右耳の縁をやんわり噛まれてビ

クッと肩が震えた。

 咄嗟に体が逃げようとしたけど、それを

見越していたのか俺の肩を抱く兄貴の腕の

力はちっとも緩まなかった。

 いくら豪雨と言えどもまだ時刻は夕方で

誰に見られているかも分からない。

 それなのに誰が通るかも分からない場所

でなんてことをするんだと早鐘を打つ鼓動

を耳の奥で感じながらムッと兄貴を睨んだ。


「兄貴がそういうことするからだろっ。

 兄貴がこんなことしなきゃ、俺…」


 兄貴が触れている場所が熱い。

 傘の屋根を叩く雨音でも誤魔化しきれな

い心音が耳の奥で脈打って、傘の中に妙な

熱気が籠っているような錯覚すら起こす。

 それもこれも、全部兄貴のせいだ。

 俺がこんなふうに感じるのは兄貴だけだ

って知っていて、それでもこんな悪戯めい

たことをしてくる兄貴が悪い。

 おかげでさっきからずっとドキドキしっ

ぱなしで、心臓の休まる暇がない。

 いや、そもそも人目のあるところでこん

な悪戯をするなんて兄貴らしくないとは思

うんだけど…。





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あきゅろす。
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