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短編集・読み切り
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 大学1年の夏休み、俺 桐生駆は課題の

レポートを書く為に近くの図書館を訪れて

いた。

 夏休みの図書館はやはり人が多かったが、

来館者が少ない時間帯を狙って来たことも

ありそこまで席取りに苦労することはなか

った。

 夏休みということで宿題を持ち込む学生

が多いのか出ていく分だけ入ってくるとい

う感じで、館内がある程度静けさを取り戻

したのは閉館間際になってからだった。


「……」


 レポートに必要な資料の下に重ねたまま

の1冊をチラリと横目で見る。

 背表紙にアルファベットが並ぶその本は

書きかけのレポートとは全く関係がない。

 それはイギリスで古くから伝わる童話を

集めて作られた童話集だ。

 背表紙と同じように中身も全て英語の原

文で書かれているが、子供向けの童話だけ

あってそこまで難しそうな内容でもない。

 兄貴にたっぷり受験勉強を見てもらった

俺は、無事に英文学科のある国公立大学に

合格することができた。

 英文学科を選んだのは母さんがイギリス

人で英語が比較的身近な言語だったこと、

そして卒業後の進路にも幅が出来そうだと

考えたから。

 生まれてから日本を出たことのない俺は

まだ母さんの実家があるイギリスの地を踏

んだことがない。

 いつかは日常生活に困らない程度の英語

を習得して母方の実家に訪れたいと思って

いる。

 まぁそんなことをクロード…母方の遠縁の

親戚が知ったら目の色を変えるだろうから今

は黙っているけれど。

 クロードは俺の兄の秀や弟の麗とすこぶる

仲が悪くて、トラブルの火種が簡単に生まれ

てしまうことは結構頭が痛い問題でもある。

 ともあれ最終的には英文学科を選択した俺

だけど、実は幼児教育にも興味を引かれてい

た。

 それでもそちらを選ばなかったのは、単純

に保育士を目指す人の比率が圧倒的に女子が

多いという現実や専門性に特化した学部を選

ぶと卒業後の進路の幅が狭まるといった理由

だけではない。

 俺には同じように大学の学部選びを迷った

他のクラスメイト達とは違う特殊な事情があ

るからだ。


「駆、終わりましたか?」


 レポート用紙から顔を上げるとテーブルの

脇に兄貴が立っていた。

 すらりとした長身、伸ばした銀髪を一つに

束ねシャープなフレームの眼鏡の奥で涼しげ

な青い目が俺を見下ろしている。

 イギリス人の母親の血を濃く引いた兄貴は

モデルでも出来そうな美形で、父親からの遺

伝を強く引き継いでどこからどう見ても日本

人にしか見えない俺とはあまり似ていない。

 子供の頃から容姿や成績など生徒会長の経

験もある優秀な兄貴と比べられることが多く

てコンプレックスにもなった。

 けれど、兄貴は兄貴で子供の頃から辛い思

いをしたりその為の努力を続けているんだと

知った今は、街中で兄貴の隣を歩くことがそ

こまで辛くはなくなった。


「終わってはないけど、続きは部屋でやる」


 いつの間にか館内を静かに流れるBGMが閉

館30分前から流れるものに変わっていて、

手早くテーブルの上に拡げていたものを大き

めの鞄に片づける。

 まだ借りていない本を抱えてカウンターへ

向かい、図書館の職員に本の貸し出し手続き

をしてもらう。

 それを隣で見ていた兄貴が小声で呟く声が

耳に届いた。


「“Alice's Adventures in Wonderland”…

 不思議の国のアリスですか」

「その…一度原文で読んでみたいなーって思

 って。

 有名な話だし」


 慌てて説明した声はやけに不自然に響いて

何も言わなければよかったかなとちょっと後

悔した。

 別にやましい気持ちは少しもないのだけど、

イギリス絡みの話は兄貴の中でクロードと関

連づかないかと冷や冷やしてしまう。

 けれど俺の心配をよそに兄貴は顔色一つ変

えない。

 妙に鋭くて察しがいい兄貴はいざとなれば

容赦なく詰問してくるし、隠し事なんて殆ど

できた試しはない。

 けれどそれでもあえて追及してこないのは

俺の言い訳に納得したのか、それとも本当の

理由…子供と関わりのある童話の翻訳に興味

を持っていることにもう気づいているのだろ

うか。

 聞いてみたかったけれど正面から聞いてみ

るわけにもいかず、俺は手続きの終わった本

を受け取って鞄にしまった。




 カウンターから図書館の出入り口に向かっ

て自動ドアをくぐると、激しい夕立が地面を

叩いていた。

 天気予報ではそこまで激しくなるとは言っ

ていなかったけれど、アスファルトを流れる

雨粒は浅い川ができたように流れてゲリラと

呼ぶに相応しい降り方だった。


「うわぁ…。

 本、濡らさないようにしないと」

「僕の部屋が近くて良かったですよ」


 正直、傘をさしても頭以外はずぶ濡れに

なりそうな降り方だけど借りた本を濡らし

てしまうわけにはいかないと心を引き締め

ながら傘立てにさした自分の傘を引き抜い

た。


「あのね、葉っぱの結び方を覚えたらこの

 子にいっぱい贈り物をしてあげるの。

 それから虫がいっぱい集まる木の場所も、

 蛍がいっぱい出る川も案内してあげるの」

「そう。とてもいいお姉ちゃんになるわね」

「うんっ」


 玄関の脇に設置されたベンチでお腹の大

きな母親と思わしき女性と、その大きなお

腹を撫でながら幼い少女が笑顔で語らって

いる。

 その微笑ましい光景に、俺は降りしきる

雨がもたらす湿気を一瞬忘れた。


「雨、止まないねぇ…」

「そうね。

 でも夜には上がるでしょうから、もう少

 し待ちましょう」


 小学校に上がる少し前くらいに見える少

女がベンチから乗り出すようにして図書館

の玄関先から雨雲を見上げる。

 その少女を宥める様に声をかける母親の

言葉に、俺はこの二人が迎えを待ってそこ

にいるのではないと悟った。

 傘を忘れて動けず、夕立が上がるのを待

っているようだ。

 けれど夏と言えど雨が降れば夜は涼しい。

 身重な体を冷やすのは絶対に良くないだろ

うし、あんなに幼い少女が雨が上がるまでこ

こで待っているなんて気の毒だ。

 それに昨日見た天気予報の通りなら、この

雨は明日の朝まで降り止まない。


「駆、行きますよ」

「あ、うん…」


 既に傘を開いた兄貴が俺を促す。

 俺は肩にかけた鞄の紐をギュッと握り、

ベンチの二人に歩み寄った。


「あの、良かったら使ってください。

 雨、夜まで続くみたいなんで」

「いいの?わーいっ!」

「まぁ。でも、ご迷惑では…」


 そっと傘を差し出すと、ベンチをぴょ

んと飛び降りた少女が笑顔で飛びつく。

 その隣で母親が降り続ける雨を見なが

ら申し訳なさそうな言葉を続けた。


「俺は兄の傘に入れてもらうので大丈夫

 です。

 こんな雨じゃあまり意味はないかもし

 れないけど、早く帰って温まって下さ

 い」

「そうだよ。

 この子だって早くお家に帰りたいって

 言ってるよ。

 わたし、分かるもん」


 傘を大事そうに抱えた少女が母親のお腹

を撫でながら自信たっぷりに言い切る。

 その様子に小さく笑みを漏らした母親は

大きなお腹を抱えて“よいしょ”と立ち上

がり丁寧にお礼を言ってくれる。


「お兄ちゃん、ありがとう!

 バイバーイ!」


 少女も満面の笑みでお礼を言ってくれて、

ブンブンと手を振る。

 その肩からかけているバックの端でキー

ホルダーの小さな鈴がチリンチリンと嬉し

そうに揺れている。

 そして母親と手を取り、雨の中をゆっく

りと遠ざかっていった。

 笑顔で手を振り返しその背中を少しの間

見送ってから、俺を振り返った姿勢のまま

待っていた兄貴に駆け寄る。


「ごめん、お待たせ」

「お人好しですね、まったく。

 こんな土砂降りの日に返してくれるかも

 分からない相手に傘を貸してしまうなん

 て」

「だって放っておけなかったから。

 それで、あの…兄貴の傘に入れてもらっ

 てもいい?」


 “きっとあの傘は返ってきませんよ”と

兄貴の目が無言で俺に告げている。

 そうかもしれないけれど、でもこの豪雨

の中にあの二人を残していくほうが嫌だっ

たから。

 遠慮がちに見上げると、兄貴は呆れたよ

うにため息をついてみせた。


 うっ。

 やっぱり兄貴に確認もしないで貸しちゃ

 ったのは自分勝手だったかな…。


「僕の傘に入るならもっと寄りなさい。

 僕が濡れるでしょう」


 心の中でひっそりと反省していると肩を

抱き寄せられて心臓が跳ねた。

 よく考えれば一つの傘に二人で入ろうっ

ていうのだから当たり前なんだけど、思い

がけず部屋の外でそこまで体を密着させて

歩くことになってしまって鼓動がスピード

を速めていく。





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