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短編集・読み切り



「えっと…見え、てる…?」

「は…?」


 戸惑う様な途切れた言葉の意味を理解す

るのに幾ばくかの間、そしてそれでもその

意図を図りかねて間の抜けた疑問で返す。

 何を言っているのか、この男は。


「みっ、見えてるよね!?

 俺の声、聞こえてるよな!?」


 目を限界までまん丸く開いて、今の今ま

で背を丸めて縮こまっていた茶髪の男は襲

い掛からんばかりの勢いでこっちに腕を伸

ばしてきた。

 鉛のように硬くなっていた体は何か考え

る間もなく伸びてきた男の腕を飛びのいて

避ける。

 けれど生来運動神経の鈍かった僕の体が

そんな動きに無理なくついていけるはずも

なく、後ろに退いた反動で背中を外階段の

手すりに打ち付けた上で階段を踏み外して

一瞬ふわっと体が浮いた。


「…っぶない!」


 スローモーションに流れる風景の中で、

腕を伸ばしていた男が焦った顔をしてさ

らに上半身を前のめりにして僕の腕を掴

もうとするようにさらに長く伸びてきた。

 一方、空中を泳ぐ間に腕を大きくバタ

つかせた僕の腕はかろうじて錆びた手す

りにひっかかって階段を踏み外した足は

2段下の怪談にしっかりとついて踏みと

どまった。

 そこに一瞬遅れて男の腕が届いた。

 …ただその腕は僕の体には触れられる

ことなく突き抜けていたのだけれども。


「へ……?」

「あ…っ」



 身の危険を感じて緊張した体は僅かな間

の後で冷や汗を噴き出させる。

 が、男の腕が突き刺さったように突き抜

けた左の脇腹のあたりだけは真冬の冷気が

肌をすり抜けて体の奥まで吹き込んできた

ように体温が下がる。

 冷や汗をかいていた体はその冷気を察し

た途端に全身に鳥肌をたたせていた。


「うわぁっ!?」


 混乱した頭では何も考えられず、とにか

くその腕から逃れたくて腕を振りながら後

ずさろうとした。

 しかし体を支えていた腕が手すりから離

れ、また後ずさろうとして踏み出した足は

次に足をつく場所を意識できたわけでもな

い。

 持ち直した体勢がもう一度崩れ、今度こ

そ足の踏み場を見失ったままガタガタと騒

々しい音をたてて外階段を転がり落ちた。



「いたたたた…」

「あ、ごめん…。大丈夫?」


 頭上から勢いを失った声が降ってきて、

すまなさそうに差し出された手を見てギョ

ッとする。

 そんな僕を見て、男は苦笑いを浮かべな

がら差し出した手を引込めた。

 強か打ち付けた腰に手をやるが、バラン

スを崩した時に擦ったのかすりむいた感じ

の痛みを腕に感じる。

 脚に痛みを感じないのは不幸中の幸いだ

ろうか。

 いやいや、それよりこの目の前の男は何

者だ?

 というより、そもそも人間…なのか?

 だって腕が生身の体を突き抜けるなんて

物理法則を無視している。

 それこそ立体映像や人ならざる者でしか

ありえないのではないのか。

 やっぱり億劫がらずに早朝に出直せばよ

かった。

 手すりに掴まってなんとか体勢を立て直

しながら心中で溜息をつく。

 とにかく部屋に戻ろう。

 幸いにも大学は長い夏休みの最中だ。

 数日位は出歩かなくてもいいだけの非常

食の備蓄はある。

 部屋に引き籠って動画サイトを観て回れ

ば時間はを潰せる。

 その間にこの説明のつかない現象は、き

っと僕の目の前から消えてなくなる…だろ

う。


「あの、さ…」


 何も聞こえない、何も聞こえない。

 僕には関係ない。

 こんな不可解なことはきっと僕が疲れて

いるから起きたのであって、だからきっと

これは夢だ。

 部屋に帰ってクーラーをつけて眠れば、

いつものように昼に目が覚めるだろう。

 この程度の不思議な夢はすぐに忘れてし

まえる。


「あのさ、もしもーし?」


 よろめきながらも立ち上がり軽く体の汚

れを払う。

 そして目の前の何者かと極力視線を合わ

せないようにしながら、ゆっくりと階段を

上る。

 打ち付けたり擦りむいた体が痛いけれど、

今はただひたすらにこの夢から覚めること

が最優先だ。

 頬を抓ると夢から覚めるというけど、痛

みで目が覚めるのなら今この瞬間にも目が

覚めるはずだ。

 しかし夢を夢と自覚しているのならその

限りではないのだ、きっと。





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