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悪魔も喘ぐ夜
*


「麗、大丈夫だから。な?

 麗が心配するようなことは何もないよ」


 麗の頭を撫でながら出来るだけ落ち着い

た声で話しかける。

 けれど麗は俺にしがみついたまま頭を擦

りつけながら首を振り、しがみついている

腕の力を緩めようとはしなかった。


「俺は何処にも行かないから。

 ちょっと見送ってくるだけだから。な?」


 それでも意固地になったように腕を解か

ない麗に苦笑して、宥めるように麗の腕を

撫でてからゆっくりとしゃがんだら少しだ

け麗の腕の力が緩んだ。

 しゃがんで麗を見上げると、不安げな泣

き出しそうな目とぶつかった。


「今行かなかったら俺はきっと後悔するか

 ら。

 この前みたいに兄貴やクロードが傷つけ

 合うのが分かってて何もしなかったら、

 俺はずっと自分を許せなくなる。

 だから行かせてくれ。

 俺は麗の傍からいなくなったりしない。

 約束するから」


 な?と笑いかける俺の目の前で、迷いを

内に秘めた麗の目が今にも泣き出しそうに

歪む。

 不安で不安でたまらないのに、痛みをこ

らえて笑わなきゃいけない…そしてそれに

失敗してしまったような、なんとも言えな

い表情だ。


「………っ」


 大粒の涙がこぼれ出しそうになったのを

耐えられなくなったように麗の腕が首に巻

き付いてくる。

 俺の肩に顔を埋める麗は小さく震えてい

た。


「麗…?」


 その髪に指を通して梳こうとした直後、

ドサッと何か重いものが落ちる音が響く。

 嫌な予感が胸を撫でて体が反射的に立ち

上がろうとしたが、それは俺に抱き着く麗

の腕に阻まれた。


「麗っ…?」


 ホテルでの件を思い出して穏やかでな心

境ではいられないが、麗が制服のシャツを

掴む力は皺がつくほど強かった。

 しかしそんな俺の耳に間をおかず何かが

床に落ちる音が響く。


「っ、ごめん!!」


 不安で居ても立っても居られなくなり、

麗の手を乱暴に引き剥がして玄関に駆け込

んだ。



「父さんっ?!」


 寝込んでいたのが祟ったのかうまく走れ

ないのをもどかしく思いながら玄関に向か

うと、取っ組み合っている二人の脇で父さ

んが玄関の壁際でうずくまっていた。

 何事かあったのかと躓きそうになりなが

ら駆け寄ると、父さんは壁によりかかりな

がら眠っていた。

 とりあえず息があることに安堵したが、

この状況下でそれは明らかに不自然すぎる。

 ダイニングに居た俺達にも聞こえるほど

大きな物音を立てて兄貴とクロードが喧嘩

をしているのに、どうして出勤前の父さん

が玄関先で眠ってしまったのか。


「心配せんでええで。

 説明が面倒やさかい、ちーと眠ってもろ

 ただけや」


 俺の疑問に応えるように兄貴から一瞬も

目を離さないクロードが俺に声をかけてく

る。

 それで少なからずホッとしたのは事実だ

が、もはや兄貴とクロードの間に流れる空

気は一触即発を軽く飛び越えている。


「よそ見とは余裕ですねっ」


 兄貴が笑う気配に胸騒ぎがして顔を上げ

ると、兄貴は靴箱の上に置かれていた大き

めの花瓶をクロードの目の前に振り上げて

いた。


「兄貴、待っ…!!」


 ガシャン!!


 俺の制止の声をかき消すような音をたて

て水入りの花瓶がクロードの頭上に振り下

ろされた。

 そんな花瓶の動きを一瞬で見切ったよう

に腕で受け止めたクロードは、割れた花瓶

から溢れた水で頭からずぶ濡れになってし

まう。


「っ!!!

 何度も同じ手ぇが俺に通用するわけない

 やろっ!」

「ッ!!」


 頭から水を被りながらクロードが叫ぶと

力強く開かれた瞼の奥でギラリと双眸が赤

く光った。

 それに息を呑む兄貴は反射的にその視線

から目を反らそうと掴まれている方の腕を

振り払おうとするが、鍛えられているクロ

ードの腕はその程度の力では振り払えなか

ったようだった。

 ビクンと大きく肩を震わせて目を見開く

と、その場に崩れ落ちてしまう。


「兄貴っ!?」


 慌てて駆け寄ると兄貴は目を見開いたま

ま胸を押さえていて、息苦しそうに荒い呼

吸を繰り返している。

 まるでいくら空気を吸っても体に酸素を

取り込めないみたいで懸命に肩を上下させ

ている。

 その肌にはじっとりと嫌な汗をかき始め

ていた。


「クロード、やりすぎだっ!!」


 兄貴の背中に腕を回して庇いながら顔を

上げると、冷ややかな目で兄貴を見下ろし

ていたクロードは口の端だけ持ち上げて笑

った。


「そないに心配せんでも殺したりせーへん

 よ。

 ただ俺が駆と会うのを邪魔しようとした

 から、ちょっと黙らせただけや」


 どこが“ちょっと”なのか。

 確かに兄貴のやったことも褒められたこ

とではないけれど、目に見えない何かの力

に抑え込まれている兄貴への反撃の方が底

知れぬ恐怖を感じる。

 クロードの言葉は俺を何一つ安心させて

はくれなかった。


「とにかく早く解いてくれ!

 こんなに苦しそうだなんて、普通じゃな

 いっ」


 兄貴の呼吸は荒いままなのに、顔からど

んどん血の気が引いていく。

 いつも涼しい顔を崩さない兄貴がこんな

表情になるなんて、よほどのことが起こっ

ている証拠だ。

 このまま放っておいたらいつか呼吸が止

まってしまうような気がして生きた心地が

しない。


「解いたらまた口煩く邪魔してくるやろ?

 それに駆がこんな何日も大好きな学校を

 休まないとならんようにしたんは、そい

 つやないん?」

「っ!!」
 

 見抜かれている。

 反論できずに押し黙る俺に、クロードは

ため息をついて肩を竦めた。


「駆に…血ぃ分けた弟にそないに酷いこと

 ができるなんてなぁ。

 他でもない駆が“どうしても”って言う

 から帰したのに、俺の所に来るよりよっ

 ぽど酷いことになったやないか。

 ほんま血も涙もないな」


 そう言って兄貴を見下ろすクロードの目

には一片の温もりもなかった。

 冷徹な刃で斬って捨てるような鋭さと非

情さを目の奥に秘めていて、クロードのそ

んな顔を俺は今まで見たことがない。


「今かけてるんを解いてもしまた何かあっ

 たら“うっかり”殺してしまうかもしれ

 んし、そいつはそのままにしとこ」


 “な?”と笑いかけてくる顔は学校で見

慣れたものと同じで、俺の背筋にもっと冷

たいものが流れる。

 クロードは、俺が知っているクロードは

こんな人間じゃなかったはずなのに。

 兄貴が俺に言っていたとおり、今までク

ロードの言動は全て打算だったのか。

 全てはクロードの望む結果を得るための

計算だったのかという疑問すら湧いてくる。

 加賀や高瀬と笑いあっていたあの時間さ

え俺を油断させるための偽りだったのか…?

 クロードを信じたい。

 悪質な嘘で騙したり、打算だけで動いて

きたわけではないと。

 そして一緒に過ごす間にクロードを信じ

たいと思った俺自身の直感を。





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あきゅろす。
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