月が傾いた頃。それでもまだ夜明けには随分と遠い。 一つの湖に足を踏み入れる。まだ冷たい時期の湖の水は冷たいがそれも一瞬のこと。まるでそこにある水など幻影であるかのようにその水底へと歩き下っていく。 湖は深く、夜にそこへと行けば月の明りさえも通さずに暗い。魚が宙を泳ぎ気泡を吐き出していく。とうとう自分の姿さえ見えない深さまで達すると自然と左右に灯りがともり紅(こう)の姿をてらした。 灯りによって照らされた道は奥へと続き、一つの鳥居が目に入る。その奥には大きな社があり数日ぶりのそれに安心とは呼べない息がもれる。 「・・・。(爺に怒られるかな)」 爺の計らいによって片割れであるつかさがこの世界に来た。だが爺は何を考えたのか神人には関係ない罪と罰を与え人のもとへと落としたのだ。理由は教えてはくれない。それでもつかさが無事ならそれで良い。紅はそう思っていた。 社内にはいる。人は誰もいないが奥へと行けば爺が待っている。その距離は長く、足に力を入れればそんな掛からないというのに紅は普通に歩いた。考えに没頭していたのだ。 あの時みたつかさの姿は幼く、双子である己とはどうしても年齢が違っていた。 幼い頃に紅とつかさは引き離され、つかさはあの不幸しかない世界へ、紅はこの生を受けた世界でそれぞれ生きることとなった。離れたくは無かったが、本来ひとりしか存在しない愛を司る神人が同じ世界に存在しては崩壊を早めると爺に言われたため仕方なく、その爺に従ったのだ。 時間軸が違うというわけではない。ただあちらの世界がこの世界の未来と酷似世界なだけであって時間の流れは一緒であるはずだというのに。五つほど離れているように見えた。 爺のいう事を疑うわけではないが、この先このまま爺の言う事を信じていって良いものなのかを考えてしまう。 じんわりと胸が熱くなり締め付けられる。 この痛みは片割れのものだ。 不幸の世界で生きた彼は、この世界の―――否、本来当たり前でもある人との繋がりが"特別"にしか見えない。だから記憶を取り戻し、彼等とひたしい日々を過ごしていたことがつかさにとっては傲慢にしかみえない。 両親であった存在を命を消しておいてこの日々をのうのうと受け取っている。そしてあろうことか良くしてくれた人たちでさえ傷つけて。 彼はそれが許せないのだ。 「――爺、戻りました」 たどり着いた最奥の襖を左右に開けば背丈が齢百を超えた樹木の如くに皺のよった老人が静かに鎮座していた。その白髪は背よりも長く背中にたれ、床へと扇に這い広がっている。 爺と呼ばれた老人はピクリとも動かずにじっと置物の如くに口を閉ざしていたが紅が一歩踏み込むとゆっくりと顔をあげた。目元は髪で隠れて見えはしないが確かに視線を感じる。 『かえったか坊』 「はい。奥州とは良いところですね。ずんだ餅、おいしかったですよ」 『さよか。して片割れはどうだの?元気にしておったかの』 片割れ―――つかさ。 今はまだ辛い思いをしているものの死にゆくことほどではあるまい。紅は一言、はい。と頷いて見せた。 『ほっほっほ、ならよい。・・・怒らぬゆえに安心せい』 「―――っ!」 『ほっほっほっほ』 なんでもお見通しの爺は笑い続け恥ずかしそうに笑う紅を、正確にはその胸元の赤く仄かに光る勾玉を指差した。 『さてさて次じゃ。その勾玉を持ち、片割れのおる奥州にて仕えよ』 「理由を伺ってもよろしいですか?」 『片割れの力がそこに封されていての、本来ならばすぐにでも戻すつもりであったが―――』 強すぎるでの。 そうしゃがれた声で呟いた爺の表情はわからない。 それでも爺の言っていることが理解できた紅は考える仕草を見せて頷いた。 『坊。ヌシの判断でその勾玉のちからを片割れに戻すがよい』 「承知」 力を封されてなお強いつかさの力。 それはもしかしたら今現在、この世界の愛という心を司る紅よりも強い力かもしれないものだった。そのような力を許容できない状態で勾玉の力を戻せばどうなることか。 愛は時に滅を呼ぶ。 愛する想いが強すぎたものは愚かな判断を下し身を滅ぼすように。叶わぬ想いが憎悪と変わるように。一個人のみの想いならまだいい。だが、つかさは紅と同じ"愛を司る存在"であり、その力は、思いは紅さえをも越している。 その想いはこの世界、そして不幸しかない世界両方を危険におかす力になるかもしれない。最悪の場合、"消滅"ということがおきるやもしれない。爺はそう考えたのだ。 紅は深くお辞儀をして外界へと戻っていく。 その背姿を見えなくなるまで見ていた爺は、一人きりになると深い深い溜息を吐いた。 『"分散"を誤った故の過ち、かの。終焉で坊達が何を想い、決断するのか・・・。情けないの。我の過ちが、坊らの過ちとなり罪となる。・・・・・・』 あの時、ああしていればこうしていれば。それは過ぎ去ったことで後悔をしても意味のないこと。わかっていてもなお、あの時ああしていれば――と考え罪の意識を膨張させていく。 爺はこの先の先、彼等を巻き込んだ終焉の行方を憂い、もう一度溜息を吐いた―――――ー [*前へ][次へ#] |