痛み分け
11
いつだって守りたいと願ったものはこの手から滑り落ちて消えてしまう。
あのときだって、このときだって、そのときだって。
結局は役立たずの自分があぶれて残ってしまう。
何度手を伸ばしても、何度頼むと叫んでもその時間は戻ることなく残酷にも進んで。
そうしていつしか自分の中身は空っぽになってしまって。
ただ、他人から得た痛みで、自分の生を確認する。それしか。
それだけしか、方法がなくて。
それでも。
そんな自分でも何か役割があると信じて、この世界で生きてきた。
だから。
「…てつ、こてつさん、虎徹さん…」
肩を揺す振られる感覚に意識が浮上して、虎徹は白いシーツの海を泳いだ。
すっぽりと頭まで包んだ毛布から顔を出して何度か瞬くと、頬に銀色の髪が落ちてきて虎徹はくすぐったさに緩やかに顔を背けた。
そして猫のようにしなやかな身体で伸びをして、痛む頭と腹部に身を丸めて呻いた。
そんな虎徹の動作をユーリは呆れた表情で見遣って、そしてベットへと腰を下ろした。
「…かえり…」
掠れた声をユーリに掛けると、彼は小さく頷いた。
「傷、開いてるんで。包帯変えますね」
ユーリは虎徹の返事を聞くことなく、彼のシャツのボタンを外して器用に服を脱がせた。
そうしてシャツの下から現れた細身の体の腹部に巻かれた包帯を、ユーリは素早く取り去った。
「大人しくしていてください」
ユーリはそう言うと、救急箱を取りに虎徹から離れた。
虎徹は緩慢な動きでベットの上へと起き上がると、ぽっかりと開いた穴からしとどと溢れる鮮血を手元にあった毛布で拭った。
「何やってるんですか」
「血が止まんねぇんだよ」
「あなたが動くからでしょう。全く…」
お目当てのものを持ってきたユーリは毛布をゴミ箱へと投げ入れて、消毒液とガーゼで虎徹の腹部の血を綺麗に拭った。
暫くガーゼで拭うを繰り返すうちに出血は徐々に治まり、ユーリは新しい包帯を取り出して虎徹の腹部へと丁寧に巻き直し始めた。
几帳面に包帯を巻くユーリの姿をぼんやりと眺めて、虎徹は不意に彼に声を掛けた。
「なぁ…」
「なんです?」
「さっきの、バーナビーのことなんだけどさ…」
「……」
「あいつ、ウロボロスを、親の仇を探してるみたいなんだ」
「そうですか…」
「でさ、頼みたいことがあるんだけどさ、良いか?」
虎徹の言葉に、ユーリはピタリと手を止めた。
あからさまに不機嫌な表情を作り虎徹に冷たい眼差しを送る。
「嫌です」
「ええっ!?何でだよ!別にあいつの復讐を手伝ってくれ、なんて言うつもりはないぞ?」
虎徹は痛みに身体を丸めたが、声の大きさはそのままにユーリへと告げる。
見当違いな虎徹の台詞にユーリ違いますと述べて、先程止まってしまった手を再び動かし始めた。
「あなたにとって彼は大事な恩人の息子なんでしょうが、私にとって最優先はあなたなんです」
きっちりと巻かれた包帯の、その薄いガーゼの中へと隠れた傷口を思い出して、ユーリは悲痛に口元を歪めた。
「この傷だって、あの頭痛だって。本当は移すことなかった。私に任せてくれれば、あなたは傷付かずに済んだ。それなのにあなたは、」
自らの身体を顧みず、まるで命を削っているようにしか見えません。
ユーリはそう憤ると、虎徹の傷口をそっと指でなぞった。
「だから、例えあなたの意志でも。あなたが危険にさらされるならば、私はあなたの大事なものを殺す。その心算でいます」
ユーリの真剣な眼差しに、虎徹は肩を竦めた。
そうだ。何をしているんだ、自分は。
「…悪かった。お前がそこまで心配してくれてるなんてさ」
「ええ。あなたは私の命の恩人ですから。当たり前でしょう」
じゃあ恩人に対してのその仏頂面をどうにかしたらどうだと虎徹は思ったが、その言葉は口論の引き金になるため口には出さず呑み込んだ。
そうしてもう一度、ユーリに誠意を見せるために虎徹は謝罪の言葉を口にした。
「もう、俺は絶対にあんなことしない。だから、俺に手を貸して欲しいんだ」
虎徹は、ユーリに向かって頭を下げた。
そんな虎徹の動作を見詰めて、ユーリは何度目ですかと力なく笑った。
「…わかりました。わかりましたよ、私の負けです。だから顔を上げて、私を見てください」
ユーリは虎徹の頬を掬いあげ、自分と彼の目線が合うよう手を動かした。
そう。結局は彼がいなくては自分も生きていけないとユーリは思う。
それくらい彼に恩があるし、大事だ。
ユーリは虎徹の金の瞳を見詰めて、目を細めた。
真っ直ぐこちらを射抜くその瞳は、いつもどこか影を帯びていたというのに今はそれがなくて。
単純に、バーナビーという青年に嫉妬してしる自分がいることに気付いて自嘲する。
バーナビーが彼の前に現れただけだというのに。
そして。虎徹も。
彼が現れただけだというのに、この変わりようなのだ。
「…全く、恩人の息子が生きていただけで単純な人だ」
ユーリは自嘲を悟られぬよう、そう呟いて。
救急箱に包帯やガーゼを一式終い込むと、立ち上がった。
「……ユーリ?」
「元々、あなたに救われた命ですし。あなたに使われるなら幾らでも構いませんよ。…でも、これだけは約束して下さい。何があっても自らの命を差し出すような、そんな真似はしないで下さい」
ユーリの真剣な言葉に、虎徹は無言で頷いた。
「なら、私はあなたのそんな我儘に付き合いましょうか」
ユーリは肩を竦めて部屋から立ち去って行った。
虎徹はそんな彼の骨張った背中を見詰めて、ありがとな。と小さな声で呟いた。
「…後は…仕事を待つだけ、か…」
虎徹はゆっくりと立ち上がり、カーテンを開いた。
煌々と輝く夜のシュテルンビルトが虎徹の視界へと映り、今度は。と声を漏らした。
(今度、こそは…)
外の世界をぼんやりと眺めて、虎徹は懐かしくも残酷な過去へと思いを馳せていた。
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