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短編
愛(かな)し

愛している。
そう言った虎徹さんの声がまるで泣いているように聞こえる。
記憶を弄られた僕はその言葉の意味を理解出来ず、虎徹さんと共に居た時間を、愛した日々を忘れて、彼を両親の敵だと言って肉体的にも精神的にも沢山傷つけ追いつめた。
怒りに任せて罵った言葉は鋭利な刃物のように、彼の心を傷まみれにして。憎しみに任せて振るった拳は、彼の身体を痣まみれにしただろう。
それでも僕は思い出せなかった。脳裏に映る彼と居た記憶の全てが朧気に霞んで、僕は思い出せなかったんだ。

彼は世界で一人の真実だった。
だから誰からも信じてもらえなかった。
家族であった一人娘、信頼をしていたヒーローたち。拒絶され受け入れてもらえなかった彼の心はきっと今にも張り裂けそうだっただろう。
それでも彼は僕を皆を、救おうと、助けようとした。苦しみから、解放しようと必死だったんだ。
けれども拒絶は、思った以上に彼の心を苛んで。彼の精神は徐々に崩れていった。
当たり前だ。
信頼していた人たち全てに冷たい眼差しと罵倒を受け、捕まらないよう誰にも見つからないようにとそっと息を潜めて。
それでも自分だけが僕たちを救えると、その気持ちだけを支えにして。
そんな彼に僕は、追い打ちをかけた。
彼の悲しげに囁く言葉を気持ち悪いと一蹴して、憎悪の眼差しを向けたまま彼を捕まえるため脚を振るった。
彼は僕の癖を見抜いてとっさに攻撃を避けたけれど、一度も僕に攻撃を加えることはしなかった。
結局、彼は金色の瞳に涙を溜めたまま僕を真っ直ぐ見据えていたけれど。
愚かなことに、僕は彼のその真っ直ぐな瞳を見詰めても気付くことはなかったのだ。

彼はその日を最後に僕の前から姿を消した。
そして、その代わりというように僕はあの日から毎回同じ、穏やかな夢を見るようになったのだ。
それはとても幸福せに満ち溢れた夢だ。
敵である彼が僕の隣に居て、それを包むようにヒーローの面々がいる。他愛のない会話をして、仕事をして、生活を送って。僕は彼が相棒だということにいつだって感謝していて。でも言葉では照れ臭くて言えなくて。
でも、僕だってあなたを好きだった。
とてもとても、愛していたんだ。
嘘なんかじゃない。本当はいつだって叫び出したいほどにあなたが好きで、ずっとずっとあなたの傍に居ようって決めてたんだ。それなのに。
それなのに。

僕は、あの日の彼と同じように瞳一杯に涙を溜めて、目を覚ました。
伏せれば零れ落ちるだろう滴を僕は流してはいけないと思い、天井を凝視することによって堪えた。
しかしそんなことしても無意味だ。頭では理解している。けれども何かしなければならないと思考し、今の僕には涙を堪える術しかないのだと思い至った。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
どうしてもっと早くに思い出さなかったのだろう。
悲しげに愛していると言われたときに、何で気付けなかったのだろう。
どうして、どうして。
僕も愛している、と言えなかったのだろう。
僕は目尻を溢れ始めた涙を手の甲で乱暴に拭って、ベットから抜け出すと身なりを気にすることなく部屋を後に、まだ暗い外の世界へと走り出した。
あの日、彼と最後に出会った場所へと向かって足を運ぶ。
その場所は、僕が暴れたときに出来た大きな亀裂や崩れた跡がまだ色濃く残っていて、僕は壁に出来た一筋の跡をそっと手でなぞった。

「虎徹さん…」

小さく彼の名前を呼んで、彼が居るのではないかとそんな期待を胸に周囲を見回す。
しかし彼は追われている身だから、こんな場所に居るはずはない。

ふと、背後で気配を感じて、僕はとっさに振り返った。
まさか、という期待に僕はもう一度彼の名前を呼ぶ。
徐々に近付く足音に僕は瞳を細めて、見慣れた姿を捉えようと目を凝らした。しかし、その姿は僕のよく知ったものではない、寒々しい冬のような銀色をしていた。
「…バーナビー君」
淡々とした男の声が僕の名前を呼んで、僕は一体何者だと思考を巡らせた。
確か、裁判官の男だ。名前は、

「ユーリ・ペトロフさん…?」

彼は薄い唇に笑みを浮かべ、しかし瞳の奥には暗い暗い闇色を湛えて僕を見詰めていた。
僕はその眼差しに居心地の悪さを感じて、ペトロフさんから視線を外し壁の亀裂をぼんやりと見詰めた。
あの日の情景が鮮明に頭の中を巡る。

「こんな場所に何か用事でも?」
「…いえ、特に用事はないんですが…」

男の質問に、虎徹さんを捜して。なんて口に出来ない僕は言葉を濁した。
しかし僕の考えていることなどまるでお見通しのような男は、僕を嘲るように鼻で笑うと僕の隣へと並び、僕同様に壁へと手を伸ばした。

「彼はもうここには来ませんよ」
「……え?」

男の言葉に僕は目を見開いて、ペトロフさんを見据えた。
彼は僕の驚きを余所に亀裂の走った壁を愛おしそうに撫でている。

「記憶を元に戻したみたいですが。君は彼に何を言うつもりだったんですか?謝罪、それとも言い訳?」
「…あ、あなたには関係ないでしょう…」
「ふふ。君がそう思うのは勝手だが、彼はそう思っていない」
「……?」
「大切にしていた家族や仲間、そして君。彼を構成するもの全てに拒絶され、居場所のない彼はどうやって精神を保つことが出来たんだと思う?どうやって必死に生きていけたと思う?それは私が彼を支え、君が異変に気付くのを今か今かと信じて待っていたからだ。それを支えに彼はこの地獄で必死にあらがっていた」

身体から血の気の下がる音が聞こえる。
まるで頭から冷水をかけられたような寒さが僕の身体を襲い、ガタガタと手が震える。

「しかし、あの日。彼は諦めてしまった。君の、残酷なまでの仕打ちに」

鮮明に浮かぶ、情景。
それはとても残酷なものだ。
彼は僕の心ない言葉に傷つき、痛々しげに涙を浮かべていた。心から血を流していた。
そう。彼を絶望へと追いやったのは紛れもない自分自身。
それが例え別の記憶を植え付けられていたとしても、事実は変わらない。変えることは出来ないのだ。

「バーナビー君。彼の心は君の言葉のせいで耐えられなくなってしまったよ」

それでも君は心のどこかで期待していたんだろう。彼が笑って仕方ないなとそう許すとのを。
それなら私は君のに真実を教えなければならない。
人の心はとても脆く、意図も簡単に壊れてしまうことを。
そしてそれを、君が一番わかっていることを。

ぐらりと視界が揺れて、僕は片膝を付いた。
頭痛がする。吐き気がする。
やめてくれと身体が拒否反応を起こしている。
とうとう我慢していた涙が僕の瞳から零れ落ちて、地面に広がった。
泣くつもりはなかったのに、彼の方が苦しくて辛い思いをしていることをわかっていたのに。

「君が行った仕打ちは決して許されるものではない。例え彼が許しても、私は君を、この愚かな世界を許しはしない。この、偽りの正義が溢れた世界を私は」

男の手は僕の首へと伸びて、蒼き炎を灯らせた。
その炎は氷のように冷たく、僕の身体を蝕んでいく。
僕は瞳を閉じた。
死刑を執行される囚人のように、甘んじてその炎を受け入れた。
彼の、金色の瞳を思い出して、
愛していると呟いて。








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