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短編
少年と人魚

少年と人魚




幼き日の頃を僕は鮮明に覚えている。
その日、父の船でパーティがあって、沢山の客人を乗せて海を渡っていた。
父はこの豪華客船の船長で、母は客人のために歌を歌う国一番の歌姫だ。
僕は母の傍らでその美しい音色を聞いて、自然と同じ旋律を紡ぐ。
僕は、歌が好きだった。
キラキラと輝く客船の世界で歌はまるで宝石のように、僕の瞳には映った。
しかし、そんな世界にだって終りがあることを僕は知っていて、そしてその終わり方はとても無残なものだった。
たった一つの叫び声が、客船の中を不安で一杯にする。
荒々しい客船の揺れと、下品な男たちの声。
海賊だと、誰かが声を張り上げて。僕は母の手を握り締めた。
父の姿を捜して、僕は母と逃げ惑う客人の中、視界を巡らせる。
けれども父を見付けるよりも先に、海賊が母の姿を捉えこちらへと向かってきた。
海賊は金と、酒と、女を奪う。
父から海賊の残虐さを教わっていた僕は、真っ先に母の手を引いて走り出した。
走って、走って。
甲板へと踏み出した足は、恐ろしい現状にピタリと止まって動くことをやめた。

そこは血の海だった。
人が折り重なって崩れ伏す世界はまるで地獄のようだ。
僕は急に襲った気持ち悪さに口元を押さえて、ただただ母の手を握り締めた。
不意に、母は僕の背を押して走り出した。
血と海水でぬかるむ床に足を取られながらも船端へと向かうと、母は僕の前でしゃがみ込んで僕を強く強く抱きしめた。
母の甘い匂いが鼻孔を掠める。けれどもそれ以上に母の背後から迫ってくる絶望に僕は気を取られていた。
迫りくる海賊の男。
鉛色の剣が線を描いて、振り下ろされる。
母さん。
僕は、母の名前を呼んで。
母は、血に塗れながら。
笑顔のままで、僕の肩を押した。
手を伸ばしたまま離れていく視界の中で、母が崩れる姿を映す。その同時に燃え上がった炎が僕の目に焼き付いて。
僕はそのまま海の中へと沈んだ。



髪を撫でる優しい手付きに、僕は意識を浮上させた。
天国か、とぼんやりした頭で思考してみたが、照りつける太陽と、肌を焼くチリチリとした痛みと、海水の匂いと、水の心地良さに僕は生きているのだと実感した。
優しい手は、僕の目覚めにピタリと動きを止めて、じっとこちらの様子を窺っている。

僕は想い瞼を開いて何度か瞬きさせる。
ぼやけてよくわからない曖昧な視界の中で、僕を助けてくれたであろう優しい手の持ち主は金の瞳に安堵の色を浮かべて、そして身を海の中へと沈めた。
僕は咄嗟にその手を掴んで、そっと引き寄せる。
戸惑いを隠せない手はピクリと震えて、それでも暴れて逃げ出すことはなかった。

「…あ、りが…と……」

発した言葉は掠れていて悲惨なものだった。
けれども朧気に映る僕の視界で、彼はもう一度僕の髪を撫でて消えていった。

そうして暫く完全に意識の戻った僕は悲しみと絶望の中、僕を救った人物が一体何者だったのかと思考を巡らせながら、流れ着いた無人島で生活を送ることとなった。
水と食料と。いつか通るであろう船のために火を焚いて。
僕は孤独の中、生きることに必死だった。
母が目の前で殺された苦しみも悲しみも十分にあったが、それ以上に生かしてくれた母の為、救ってくれたあの腕の主の為にと僕は生とへ縋りついた。
しかし夜になるとあの日の蛮行が夢の中で暴れて、僕は飛び起きた。
そしてその度に海面から顔を出す岩場に腰を掛けて、母と歌ったあの旋律を口ずさむのだった。
今日も、何度目かわからない悪夢に襲われて、僕は岩場へと降りていた。
柔らかな満月に照らされた海と、口ずさむメロディー。
その日、全ての偶然が重なって、僕は岩場に隠れる姿を初めて捉えたのだ。
自然と止まるメロディーに、岩場に隠れる影は不審に思ったのかこちらを覗き見た。そして金の瞳と緑の瞳がぶつかって、彼は驚き水中へと逃げようと鰭をバタつかせた。

「待って……ッ!?」

僕は咄嗟に立ち上がり、ぐらりと足元が揺れるのにしまったと声を漏らした。
不安定でバランスを取れなくなってしまった僕の身体はたちまち海の中へと吸い込まれて落ちた。
空気中の泡が身体から水面へと逃げていき、僕は呼吸の出来ない苦しさに身体をバタつかせた。
しかしそれも一瞬の出来事で、僕の身体を抱き寄せて掬いあげたのは先程逃げようと身を返した人魚の姿だった。

「…ゲホッ…かはッ…」
「あんなとこで急に立ち上がって、死にたいのか!?」

美しい低音が怒りを露わにして僕の耳へと届く。
僕は涙を溜めたまま、彼の姿を瞳に映した。
金の瞳と褐色の髪と肌は水に濡れて滴り、月明かりの中でキラキラと輝いた。
まるで、この世のものとは思えないその存在に、僕はごくりと息を呑んだ。
母の身に付けていた宝石とは比べ物にならない金の瞳が怪訝そうにこちらを見詰めて。
それでも彼は僕を心配して、浅瀬まで連れて泳いでくれた。

「前にも、助けて…くれた?」
「…ああ」

男は小さく頷き、返事を返した。
僕はありがとう、とお礼を言うと、彼はお礼なんて要らないと困ったように笑った。

「…どうして?」
「もともと、食料にするつもりで近付いたんだ」

男は言い辛そうにそう答えて、頬を掻いた。
浅瀬に辿りついた僕は、海の中に足を付いて彼を見遣った。
彼は浅瀬では泳ぎにくいようで、鰭が海面を叩き水飛沫を上げさせていた。

「どうして、そうしなかったの?」

人魚は僕の質問に顔を顰めて、そういう質問は面と向かってするなよなぁとぼやく。
けれど僕はその言葉がとても気になって、じっと彼の美しい容貌を見詰め続けた。

「…歌が、」

「…歌が聞こえたんだ。今日じゃない…いつだったか忘れたけど。船の上で…お前が歌う声が、姿が見えて。…もっと聞いてみたいと思ったんだ。ただ、それだけさ」

そう言って、彼は僕が歌ったメロディーをワンフレーズほど口ずさみ、瞳を閉じた。

「勇ましい海の歌だ。前に聞いたときはそう感じた。でも、今は違う。とても切なくて、胸が苦しくなる」
「…この歌は、父さんと母さんから教わった曲なんだ。でも二人は…もう」

声に出した途端、ポロリと涙が零れ落ちて僕は慌てて目元を乱暴に拭った。
彼は僕の手をそっと掴んで、擦るなと優しく囁く。

「…どうして、僕だけが…」

生き残ってしまったんだろう。どうして。
苦しくて悲しくて、本当はとても生きているのが辛いのに。

「ねぇ、あなたは人魚なんでしょう。人を食べるんでしょう。だったら僕を殺して食べてよ」

美しき人魚の血肉となるならばそれでも構わないと思う程、僕は本当に疲れきってしまっていた。
僕にはもう、この歌しか遺されていない。
父と母が唯一残してくれた、この歌しか。

「…駄目だ」

彼はそう言って首を左右に振った。張り付いた髪から水滴がポタポタと零れ落ちる。

「俺は、お前の歌声が好きだ。だから食ってくれなんて言うなよ、な?…頼む。どうか、生きてくれ。生きて」

もう一度、勇ましいあの歌を歌ってくれよ。
彼はそう言って、僕の頬に触れて優しく涙を拭った。

「俺が、お前の傍に居るから」

ずっとずっと、傍に居てやるから。
そういって笑う人魚に、僕は涙で滲んだ瞳を細めた。

「…約束、ですよ。人魚さん」
「…人魚さんはやめてくれ。俺は、虎徹だ」
「僕は、バーナビーです、虎徹さん」
「…ああ。バーナビー」

彼は僕の名前を呼んで、そっと僕の額に唇を落とした。

煌々と輝く満月の夜。
僕は彼とずっと共に、とお互いを縛る約束を交わした。



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