落乱
仙文:捧げ物:ゆう蔵様へ
「夏日」のゆう蔵様に贈った仙文です。
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私は文次郎の背中が嫌いだ。
鍛錬をしているとき、机に向かっているとき、私の前を歩いているとき、用事でも無いかぎりこちらを見ることもなく、ただ真っ直ぐとしているあの背中が、無性に気に食わない。
今日も文次郎は私に背を向けている。
壁際に向けた机にかじり付くようにして算盤を打ちながら、ああでもないこうでもないとぶつぶつぼやいている。
常よりも少し丸い背を蹴ってやろうか、と思わないでも無いが、算盤を邪魔すると烈火の如く怒り出すので後が面倒なのでやめておく。
なにを考えた所で行動に移す事も出来ず、とどのつまりに私がやる事は、いつもただそこにある背中をじっと睨みつけるくらいだった。
――文次郎。
声に出さず、頭の中だけで名を呼ぶ。
――おい、文次郎。
伝わる筈がない。奴は私の方を見ることは無い。
――文次郎、私は……私は此処にいるんだぞ。
――お前の近くに、傍らに、いるんだ。
不意に、文次郎の首がぐるりと動き、隈の取れない目と視線がかち合った。驚きと動揺で動けない私を訝しげに見ている。
「呼ばれたかと思ったんだが……なんだ、変な顔して。腹でも減ったのか?」
呼ばれた、だと?
「……ふん、お前を呼んでなどおらんし、空腹で機嫌を損ねるような事が私にあるわけが無いだろう」
「あー、そうかよ……」
「だが、お前がどうしても腹が減って外にうどんでも食べに行きたいと言うのなら、……付き合ってやらんこともない」
思わず目をそらし、勢いでまくし立ててしまった。
いくら根がお人好しの文次郎でも、いい加減嫌にもなるだろう。
断るならば、早くするがいい。
「……そういえば、団蔵がこの間美味いうどん屋を見つけたと言ってた。少し歩くが良いか?」
「は、ああ……」
言うが早いか、文次郎は机を片付け外出の準備を始めていた。
テキパキと支度をする文次郎を呆然と見つめる。
お前、あれで良いのか。
「なにしてんだ、忍装束のまま出掛ける気か?」
「……そんな訳がなかろう。お前があまり無防備に着替えをするのでな。どうしてくれようかと思っていたのだ」
「な、妙な事を言うな! 先に小松田さんの所に行ってるからな」
赤面してそそくさと出て行く文次郎の背中をみる。
やはり真っ直ぐに伸びていて、私を振り返る事は無いだろう。
しかし、いつもただ待つよりも、考えていたように声をかけ、私の存在を知らしめてやるのも良いかも知れない。
そう思うと、先程までの苛立ちは全く出てこなかった。
これからは、容赦などしてやるものかと口角を吊り上げながら、私はようやく外出の支度を始めた。
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