携帯電話 大学二回生の夏だった。俺は凶悪な日差しが照りつける中を歩いて学食に向かっていた。 アスファルトが靴の裏に張り付くような感じがする。いくつかのグループが入口のあたりにたむろしているのを横目で見ながらふと立ち止まる。 蝉がうるさい。外はこんなに暑いのに、どうして彼らは中に入らないのだろうと不思議に思う。 学食のある二階に上り、セルフサービスで適当に安いものを選んでからキョロキョロとあたりを見回すと、知っている顔があった。 「暑いですね」 カレーを食べているその人の向かいに座る。大学院生であり、オカルト道の師匠でもあるその人はたいていこの窓際の席に座っている。指定席というわけでもないのに、多少混んでいても不思議とこの席は空いていることが多い。 まるで彼が席に着くのを待っているように。 「ここはクーラーが効いてる」 ぼそりと無愛想な返事が返ってきた。 それからまた黙々と食べる。 「携帯の番号教えてください」 「なぜか」 PHSを水に落してしまったからだった。アドレスが死んだので、手書きのメモ帳などに残っていた番号は問題なかったが、そうでないものは新たに番号を訊き直さなければならなかった。 師匠の場合、家の番号はメモしてあったが、携帯の方はPHSにしか入っていなかったのだった。 「ジェネレーションギャップだな」 師匠は携帯を操作して、自分の番号を表示させてからこちらに向ける。 「なんですか」 「携帯世代ならではの悲劇だってことだよ。僕みたいな旧世代人は絶対にメモをとってるし、よくかける番号なら暗記してる」 そう言って、いくつかの名前と番号を諳んじてみせた。 それはいいですから、ディスプレイを揺らさないでください。今打ち込んでるんで。 ワン切りしてくれればすぐ済むのに、とぶつぶつ言いながらも登録を終え、俺は昼飯の続きにとりかかる。 海藻サラダに手をつけ始めたあたりで、おととい体験した携帯電話にまつわる出来事をふと思い出し、師匠はどう思うのか訊いてみたくなった。 「怪談じみた話なんですが」 カレーを食べ終わり、麦茶を片手に窓の外を見ていた師匠がぴくりと反応する。 「聞こうか」 その日も暑い盛りだった。午前中の講義のあと、俺はキャンパスの北にある学部棟に向かった。研究室が左右に立ち並び昼でも薄暗い廊下を抜けて、普段はあまり寄りつかない自分の所属している研究室のドアを開けた。 中には三回生の先輩ばかり三人がテーブルを囲んでぐったりしている。 翌週に企画している研究室のコンパの打ち合わせで集まることになっていたのだが、中心人物の三回生の先輩が来られなくなったとかで、だらだらしていたのだそうだ。 「いいじゃん、もう適当で」「うん。芝でいいよ、芝で」 芝というのは「芝コン」と呼ばれるこの大学伝統のコンパの形式である。キャンパス内のいたるところに売るほどある芝生で、ただ飲み食いするだけのコンパだ。 決定っぽいので黒板に「芝コン」とチョークで書きつける。その横に「いつものとこで」と追加。 もう用事はなくなったが、俺も席につくとテーブルの上にあった団扇で顔を仰ぎながら、なんとなくぼーっとしていた。 「なあ、さっきから気になってたけど、吉田さぁ。顔色悪くないか」 先輩の一人がそう言ったので、俺も吉田さんの顔を見る。 そう言えばさっきから一言も発していない。 吉田さんは身を起し、溜息をついて強張った表情を浮かべた。 「俺さぁ」 そこで言葉が途切れた。自然にみんな注目する。 「この前、夜に家で一人でいる時、変な電話があったんだよ」 変、とは言ってもそれは良く知っている中学時代の友人からの電話だったそうだ。 「安本ってやつなんだけど、今でも地元に帰ったらよく遊んでるんだけどよ。そいつがいきなり電話してきて、用もないのにダラダラくだらない長話を始めてさぁ……」 最初は適当に付き合ってた吉田さんもだんだんとイライラしてきて「用事がないならもう切るぞ」と言ったのだそうだ。 すると相手は急に押し黙り、やがて震えるような声色でぼそぼそと語りだした。 それは中学時代に流行った他愛のない遊びのことだったそうだ。 『覚えてるよな?』 掠れたような声でそう訊いてきた相手に、気味が悪くなった吉田さんは「だったらなんだよ」と言って電話を切ったとのだいう。 そんなことがあった三日後、安本というその友人が死んだという連絡が共通の友人からあった。 「何日か前から行方不明だったらしいんだけど、バイク事故でさ、山の中でガードレールを乗り越えて谷に落ちてたのを発見されたっていうんだよ。俺、葬式に出てさ、家族から詳しく聞いたんだけど、安本が俺に電話してきた日って、事故のあった次の日らしいんだわ」 ゾクッとした。ここまでニヤニヤしながら聞いていた他の先輩二人も気味の悪そうな顔をしている。 「谷に落ちて身動きできない状態で携帯からあんな電話を掛けてきたのかと思って、気持ち悪くなったんだけど、よく聞いてみると、安本のやつ、即死だったんだって」 タバコを持つ手がぶるぶると震えている。 室温が下がったような嫌な感じに反応して、他の先輩たちがおどけた声を出す。 「またまたぁ」 「ベタなんだよ」 吉田さんはムッとして「ホントだって。ダチが死んだのをネタにするかよ」と声を荒げた。 「落ち着けって、噂してると本当に出るって言うよ」 冗談で済ませようとする二人の先輩と、吉田さんとの噛み合わない言葉の応酬があった末、なんだか白けたような空気が漂い始めた。 「トイレ」 と言って吉田さんが席を立った。俺もそれに続き、研究室を出る。 長い廊下を通り、修理中の立札が掛かりっぱなしのトイレの前を過ぎて、階段を二つ降りたフロアのトイレに入る。 並んで用を足していると、吉田さんがポツリと言った。 「紫の鏡って話あるだろ」 いきなりで驚いたが、確か二十歳になるまで覚えていたら死ぬとかなんとかいう呪いの言葉だったはずだ。もちろん、それで死んだという人を聞いたことがない。 「安本が、『覚えてるよな』って訊いてきたのは、その紫の鏡みたいなヤツなんだよ。中学時代にメチャメチャ流行ってな、二十一歳の誕生日まで覚えてたら死ぬっていう、まあ紫の鏡の別バージョンみたいな噂だな」 「え、先輩はまだですよね。二十一」 「嫌なやつだろ。わざわざ思い出させやがって。そりゃ信じてるわけじゃないけど、気分悪いし」 照明のついていないトイレの薄暗い壁に声が反響する。 学部等の中でも研究室の並ぶ階はいつも閑散としていて、昼間でも薄気味悪い雰囲気だ。 「その、安本さんの誕生日はいつなんです」 恐る恐る訊いた。 吉田さんは手を洗ったあと、蛇口をキュッと締めて小さな声で言った。 「二ヶ月以上前」 俺はその言葉を口の中で繰り返し、それが持つ意味を考える。 「なんでだろうなぁ」と呟きながらトイレを出る先輩に続いて、俺も歩き出す。 考えても分からなかった。 研究室に戻ると先輩二人がテーブルにもたれてだらしない格好をしている。 「結局、芝コン、時間どうする?」 片方の先輩が俯いたまま言う。 「七時とかでいいんじゃない」ともう一人が返した時だった。 室内にくぐもったような電子音が響いた。 「あ、携帯。誰」 思わず自分のポケットを探っていると、吉田さんが「俺のっぽい」と言って壁際に置いてあったリュックサックを開けた。 音が大きくなる。 すぐ電話に出る様子だったのに、携帯のディスプレイを見つめたまま吉田さんは固まった。 「え?」 絶句したあと、「ヤスモトだ……」と抑揚のない声で呟いてから携帯を耳にあてる。「もしもし」と普通に応答したあと、少し置いて、 「誰だ、お前」 吉田さんは強い口調で言った。そして反応を待ったが、向こうからは何も言ってこないようだった。 「黙ってないで何か言えよ。誰かイタズラしてんのかよ。おい」 吉田さんは泣きそうな声になってそんな言葉を繰り返した。 その声だけが研究室の壁に、天井に反響する。 俺は傍らで固唾を飲んで見守ることしかできない。 「どこから掛けてるんだ?」 そう言ったあと、吉田さんは「シッ」と人差し指を口にあて、こちらをチラリと見た。自然、物音を立てないようにみんな動きを止めた。 耳に携帯を押し当て、目が伏せられたままゆっくりと動く。 「……木の下に、いるのか?」 震える声でそう言ったあと、吉田さんは携帯に向って「もしもし、もしもし」と繰り返した。 切れたらしい。 急に静かになる。 呆然と立ち尽くす吉田さんに、別の先輩が腫れ物に触るように話しかける。 「誰だったんだ?」 「……分かんねぇ。なにも喋らなかった」 そう言ったあと、血の気の引いたような顔をして吉田さんはリュックサックを担ぐと「帰る」と呟いて研究室を出て行った。 その背中を見送ったあと、先輩の一人がぼそりと「あいつ、大丈夫かな」と言った。 俺の話をじっと聞いていた師匠が「それで?」と目で訴えた。 俺もトレーの上の皿をすべて空にして、じっくりと生ぬるいお茶を飲んでいる。 「それで、終わりですよ。あれから吉田さんには会ってません」 師匠は二、三度首を左右に振ったあと、変な笑顔を浮かべた。 「それで、どう思った?」 「どうって、……わかりません」 吉田さんに電話を掛けてきたのは本当に安本という死んだはずの友人だったのか。事故死を知る前の電話と、研究室に掛ってきた電話、そのどちらもが、あるいは、そのどちらかが。 どちらにせよ怪談じみていて、夜に聞けばもっと雰囲気が出たかも知れない。 二十一歳までに忘れないと死ぬというその呪いの言葉は結局吉田さんからは聞かされていない。そのこと自体が、吉田さんの抱いている畏れを如実に表しているような気がする。 俺はまだそのころ、二十歳だったから。 「僕なら、中学時代の友人みんなに電話するね。『安本からの電話には出るな』って」 師匠は笑いながらそう言う。 そして一転、真面目な顔になり、声をひそめる。 「知りたいか。なにがあったのか」 身を乗り出して、返す。 「分かるんですか」 「研究室のは、ね」 こういうことだ、と言って師匠は話し始めた。 「ヒントはトイレに行って帰ってきた直後に電話が掛ってきたって所だよ」 「それがどうしたんです」 「その当事者の吉田先輩と、語り手である君が揃って研究室から離れている。そして向かったトイレはその階のものが以前から故障中で使えないから、二つ下の階まで行かなくてはならなかった。 ということは、研究室のリュックサックに残された携帯電話になにかイタズラするのに十分な時間が見込まれるってことだ」 イタズラ? どういうことだろう。 「思うに、その吉田先輩は普段からよくリュックサックに携帯電話を入れているんだろう。それを知っていた他の二人の先輩が、君たち二人が研究室を出たあと、すぐにその携帯を取り出す。安本という死んだはずの友人から電話を掛けさせる細工をするためだ」 「どうやって?」 「こうだ」 師匠は俺のPHSを奪い取り、勝手にいじり始めた。そして机の上に置くと今度は自分の携帯を手に取る。 俺のPHSに着信。 ディスプレイには「安本何某」の文字。 唖然とした。 「まあ、卵を立てた後ではくだらない話だ」 師匠は申し訳なさそうに携帯を仕舞う。 「まず吉田先輩の携帯のアドレスから安本氏のフルネームを確認する。それからそのアドレス中の誰かの名前を安本氏のものに変える。あとはリュックサックに戻すだけ。できればその誰かは吉田先輩にいつ電話してきてもおかしくない友人が望ましい。 『時限爆弾式死者からの電話』だね。ただ、タイミングよくトイレの直後に掛かってきたことと、無言電話だったことを併せて考えると『安本何某』にされたその友人に電話をしてイタズラに加担させたと考えるのが妥当だろう。 ということは、その相手は同じ研究室の共通の友人である可能性が高い」 師匠はつまらなそうに続ける。 「結局、ディスプレイに表示された名前だけで相手を確認してるからそんなイタズラに引っ掛かるんだよ。普通は番号も一緒に表示されると思うけど、いつもの番号と違うことに気付かないなんてのは旧世代人の僕には理解できないな」 まだ言っている。 しかし、どうにもそれがすべてのようだった。 俺もすっかり醒めてしまい、あんなに薄気味の悪かった出来事が酷く滑稽なものとしてしか脳裏に再生されなくなった。 吉田さんがその時すでに死んでいたはずの安本さんと電話で話をしたという一件も、なんだか日付の勘違いかなにかで片が付きそうな気がしてきた。 空調の効いた学食でもう少し涼んでいこうと思って、レシートに表示されているの総カロリー量をぼんやり眺めていると、窓の外に目をやっていた師匠が乱暴にお茶のコップをテーブルに置いた音がした。 見る見る顔が険しくなっていく。 「そんな……」 ぼそりと言って、眼球が何かを思案するようにゆるゆると動く。 俺はなにがあったのかさっぱり分からず、じっとその様子を見ていた。 「おかしいぞ」 「なにがですか」 「さっきの話だ」 ドキッとした。まだなにかあるのか。もう終わった話のはずなのに。 「勘違いをしていたかも知れない」 師匠はタン、タン、と人差し指の爪でテーブルを叩きながら眉間に皺を寄せた。 「その吉田先輩は、研究室にいるときに掛かってきた『安本氏』からの無言電話に、どこから掛けてきているのか問いただしたあと、なんて言った?」 「え? ……だから、『木の下にいるのか』って」 「それはどういう意味だ」 「さあ。そのあと本人、すぐ帰っちゃいましたから」 師匠は目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。 「その、吉田先輩は、相手はなにも喋らなかったと言ったな? ということは、言葉以外のなんらかの情報でそう思ったわけだ」 目を開けて、少し顔を俯ける。 「安本氏の死因はバイク事故。ガードレールを乗り越えて谷に転落して死んだって話だな。そこから例えば霊魂が木の下にいるというような連想が湧くだろうか。いや、どうもしっくりこないな。 ということはやはり、あの電話の最中になにか情報を得たということだ。言葉でなければ音だ」 音? 師匠がどうしてそんな所に拘るのか分からず、首を捻る。 「そうだ。音だ。背後の音。例えばダンプカーのバックする警告音、パチンコ屋の騒々しさ、クリアなステレオの音…… どこから電話しているのかある程度分かってしまうことがあるだろう」 「それはまあ、ありますよね」 「じゃあ、木の下の音って、なんだと思う」 言われて、想像してみる。木の下の音? なんだろう。木の葉が風に揺れる音? それだけ聞かされても、分かるものだろうか。 師匠は笑うと、口元に指を立て、目を閉じた。静かにして、耳を澄ませ、と暗に言っているらしい。 目を開けたまま、周囲の音に神経を集中する。ざわざわした学食の中の雑音が大きくなる。 それでもじっと聞き耳を立てているとそれらがだんだんと遠くへ離れていき、逆に俺の耳は遠くの控えめな音を拾い始めた。 ……じわじわじわじわじわじわじわじわ…… テーブルの向かいにいる師匠の姿が遠く、小さくなっていく錯覚に襲われる。 「蝉ですね」 師匠は目を開けて、頷いた。 「この声だけはすぐにそれと分かる。こうして窓を閉めた建物の二階でも聞こえるけど、実際木の下に行けば、凄い音量だ。木の下に限らず、木のそばでもいいけど、そこはただ単に言葉の選択の問題だな。 ともかく、吉田先輩はその蝉の声から相手が今どこにいるのかを連想したわけだ。ところが、だ」 師匠は急に立ち上がった。 「ちょっとここで待ってろ」 「え?」 手の平を下に向けて、座ってろのジェスチャーをしてから師匠は踵を返すと学食の出口に向かって歩いていった。 取り残された俺はその背中を見ながら動けないでいた。 どうしたんだろう。 ただ待っていろという指示だが、話が見えないので気持ちが悪い。お茶を汲みに行っても駄目だろうか。 そう思って何度も出入口のあたりを振り返っていると、いきなり自分のPHSに着信があった。 心臓に悪い。 師匠からだった。軽く上半身が跳ねてしまった照れ隠しに、舌打ちをしながら鷹揚な態度で通話ボタンを押す。 「はい」 「……」 相手は無言だった。 え? 師匠だよな? 番号は確認してないけど。 背筋を嫌な感じの冷たさが走る。 「もしもし?」 「……ああ。聞こえるか」 「なんだ。おどかさないでくださいよ」 「僕の声が聞こえるんだな」 やけに小声で喋っている。 「はい。聞こえますよ」 「今、どこにいるか分かるか?」 「さあ? 学食の近くでしょう」 席を立った時間からいってもそう離れてはいまい。 「じゃあ、僕の席に移動して、窓の外を見てみて」 言われた通り立ち上がって席を移る。そしてPHSを耳にあてたままガラス越しに窓の下を見た。 すぐに分かった。師匠が建物から少し離れた場所にある並木の下に立って、手を振っている。 思わず手を振り返す。 「もう一度聞く。僕は、今、どこにいる」 なんだ? やけに意味ありげだが。 「だから、そこの木の下でしょう」 答えながら、何故か分からないが、嫌な予感らしきものが首をもたげてきた。 振られていた師匠の手が下がり、なにかを問いかけるポーズに変わる。 「その目で見るまで、どうして分からなかったんだ?」 PHSが耳元に、冷たい声を流し込んでくる。 ガラス窓の向こうに、師匠が寄り添っている大きな木。この学食でも遠くに聞こえている蝉の声は、きっとそこからも発されているだろう。 近くにいれば、耳をなぶるような暴力的な音量で。 ようやく、俺は気付いた。PHSから、その蝉の声が聞こえてこないことに。 「前になにかの本で読んだことがあったんだけど、どうやら携帯電話は蝉の声を拾わないってのは本当らしいね」 確かに聞こえない。ただ、なんとも言えないざわざわした感じが師匠の声の背後にしているだけだ。 「吉田先輩が、聞こえるはずのない蝉の声を聞いたのだとすると、その安本氏の名前で着信のあった電話はおかしいな」 昼ひなかにゾクゾクと身体の中から寒気が湧いてくるような気がした。 「他の二人の先輩に、僕がさっき推理したようなイタズラをしたのか確認してみる必要がある。もし、イタズラではなく、本当に安本氏の番号からの着信だったなら、吉田先輩から、その覚えていたら死ぬって言葉は、絶対に聞くな」 俺は、はい、と言った。 ガラス窓の向こうで師匠は頷くと、こちらを指差しながら「片付けといて」と言って携帯を切った。そしてどこかへ去って行く。 学食の中、二つ並んだトレーの前に引き戻された俺は、腕に立った鳥肌の跡を半ば無意識にさすっていた。 結局、後日会った二人の先輩はそんなイタズラはしてないと言った。嘘をついている様子はなかった。 吉田さんにも確認したが、本当に安本という死んだはずの友人の番号からだったらしい。けれどそれから一度もその番号からの着信はなかったそうだ。あるはずはないのだ。その携帯電話はバイク事故の時に、本人の頭と一緒に粉々になっていたのだから。 芝コンには来なかったけれど、吉田さんも日が経つにつれていつもの調子を取り戻し、やがて無事に二十一歳の誕生日を迎えたようだった。 その中学時代に流行ったという呪いの言葉が、やはりただの噂話の一つに過ぎないということだったのか、それとも二十一回目の誕生日を迎えた日にたまたまそれを忘れていたのか、確認はしていない。 蝉の声について、師匠の言葉に興味を持ったので自分なりに調べてみたが、種類などによって周波数にバラつきがあり、携帯電話で拾うこともあるらしい。 自分で試した時には聞こえなかったけれど。 ただある日の夜、研究室で一緒になる機会があり、「あの時、本当に蝉の声を聞いたんですか」と訊ねると、吉田さんは「どうして知ってるんだ」と驚いた顔をしてから続けた。「でも聞こえるはずはないんだよ」と。 割と有名な話なのかと思い、俺は蝉の声が携帯から聞こえることもあるということを説明した。 しかし吉田さんはそもそも周波数の高すぎる音が携帯電話を通らないという話自体初耳なようで、俺の話にやたら感心していた。 「それは知らなかった」 「じゃあどうして聞こえるはずがないなんて思ったんですか」 「だって」と吉田さんは言葉を切ってから、何かを思い出そうとするように指をくるくると回した。 そして耳に手の平を当てる真似をして、「これこれ」と言った。 つられて俺も耳を澄ました。 研究室の窓から、夜の濃密な空気が流れてきている。 その中に、初秋の物悲しい蝉の声が漂う。泣いているような、笑っているような。 「あんな昼間に、聞こえるはずないだろう?」 吉田さんは目に見えない何かを畏れるように、そっと呟いた。 ヒグラシって、いうんだっけ…… [*←][→#] |