黒い手−1− その噂をはじめに聞いたのは、ネット上だったと思う。地元系のフォーラムに出入りしていると、虚々実々の噂話をたくさん頭に叩きこまれる。どれもこれもくだらない。その中に埋もれて、「黒い手」の噂はあった。 黒い手に出会えたら願いがかなうそのためには黒い手を1週間持っていないといけないたとえどんなことがあっても 「バッカじゃないの」 上記の噂を話したところの、ある人の評である。オカルト道の師匠にそんなあっさり言われると、がっかりする。 「まあ不幸の手紙の亜種だな。どんなことがあっても、って念押ししてるってことは、1週間のあいだになにか起こりますよってことだろ」 チェーンメールが流行りはじめた頃だったが、「××しないと不幸になる」というテンプレートなものとは少し毛色が違う気がして僕の印象に残っていたのだが、師匠はこういうのはあまり好きではないようだった。しかし、しばらくのあいだ僕の頭の片隅に「黒い手」という単語がこびりついていた。ありがちなチェーンメールと一線を画すのは、そのスタート契機だ。 「このメールを読んだら」ではなく、「黒い手に出会えたら」つまり、話を聞いた時点で強制的にルールの遵守を求められるのではなく、契機が別に設定されているのだ。怖がろうにも、その契機に会えない。 「黒い手に出会えたら」僕は出会いたかった。 黒い手を手に入れた。という一文をあるスレッドで見たとき、僕の心は逸った。 普段はいかない部屋に出入りしていたのは、「地元の噂」を語る場所だったから。「黒い手」の噂を聞けるかも知れないという可能性のためだ。マニアックなオカルト系フォーラムにどっぷり浸っていた僕には、少し程度が低すぎる気がして敬遠していたのだが・・・・・・ 「見せて見せて」 というレスがつき、しばらくして 「いーよ」 という返事があった。 その音響というハンドルネームの人物は、何度かオフ会を仕切ってるような行動派らしく、 「じゃ、明日の土曜日にいつものトコで」 という書き込みで「黒い手オフ」が決定した。 新参者の僕は慌てて過去ログを読み返し、いつものトコが市内のファミレスであることを確認すると 「初めてですけど行ってもいいですか」 と書き込んだ。 当日は、まだこういうオフ会というものにあまり慣れていないせいもあって緊張した。遅れてしまってダッシュで店内に入ると、目印だという黒系の帽子で統一された一団が奥のスペースに陣取っていた。 「ちーす」 という挨拶に 「すみません」 と返して席につくと、テーブルの周囲に居並ぶ面々に対して妙な気まずさを感じた。ネット上の書き込みを見ていた時から想像はついていたが、やはり若い。たぶん全員中学生から高校生くらいだろう。僕もついこのあいだまで高校生だったとはいえ、1コ下2コ下となると別の生き物のような気がする。 先輩風を吹かしたりというのは苦手なので、ここでは年上だとバレないようにしようと心に決めた。 「で、これなんだけど」 そう言って全身黒でキメた16,7と思しき女の子が、足元から箱のようなものを出してきてテーブルに乗せた。 おおー。という声があがる。音響というHNのその子は、もったいぶりもせずテーブルの真ん中まで箱を押し出した。 「ガッコの先輩にもらったんだけど、なんか、持ってるだけで願いがかなうってさ。誰かいらない?」 え? くれるのかよ。他の連中も顔を見回している。 「黒い手って、ほんとに黒いの? ミイラとか?」 軽い調子で中の一人が箱の蓋を取ろうとした。その瞬間、僕の右隣に座っていた面長の三つ編み女がその手を凄い勢いで掴んだ。 「やめて。これヤバイよ」 真剣な目で首を振っている。 「ッたいわね、なにマジになってんの」 掴まれた手を振りほどいて睨みつけると、乗り出した体を引っ込める。それからなんとなく、沈黙が訪れた。 霊が通った。 誰かが呟いて、 「えー、天使が通ったって言わない?」 という反応があり、しばらく箱から目をそむけるように「霊VS天使」論争が続いたあと、音響が言った。 「で、誰かいらない?」 またシーンとする。こんなのが大好きな連中が集まっているはずなのに、なんだこの体たらくは。 黒い手に出会えたら願いがかなうそのためには黒い手を1週間持っていないといけないたとえどんなことがあっても この噂の意味がわからないほどバカではないということか。ただそれも、この噂が本物でかつこの箱の中身が本物だったらという前提条件つきだ。根性なしどもめ。僕は違う。なぜ山に登るのかといえば、当然そこに山があるからだった。 「僕がもらっていいですか」 全員がこっちを見て、それから音響を見る。 「いいよ。かっくいー。ちなみに箱ごとね。開けたら駄目らしいから」 音響は僕の方に箱を押し出し、ニッと笑った。 「1週間持ってないといけないんだって。でも結婚指輪でも買ってやればそんなにかかんないかもよ」 その後は普通のオフ会らしく、くだらなくて怠惰で無意味な時間をファミレスで過ごした。誰も箱のことには触れなかった。それが目的で来た連中のはずなのに。解散になったとき、箱を抱えて店を出ようとした僕に、さっきの三つ編み女がすり寄ってきた。 「ねえ、やめたほうがいいよ。それほんとやばいよ」 なんだこの女。霊感少女きどりなのか。引き気味の僕の耳元に強引に耳を寄せてささやく。 「わたし、人に指差されたらわかるんだよね。たとえ見えてない後ろからでも。そんな感覚たまにない? わたしの場合嫌な人に指差されたらそれだけ嫌な感じがする。そんでさっき箱が出てきたとき半端なくゾワゾワ来た。こんな感じ、今までもなかった」 そういえば、縦長の箱が置かれたときその片方の端がこの女の方を向いていた。箱の中で、黒い手が指を差しているというのだろうか。そう思っていると、女の妙に冷たい息が耳に流れ込んできた。 「それがね、指差されてるのは箱からじゃないのよ。背中から、誰かに」 そこまで言うと三つ編み女は息を詰まらせて、逃げるように去っていた。店の中で一人残された僕は、箱を抱えたまま棒立ちになっていた。コトという乾いた音がして、箱の中身の位置がずれた。 僕は生唾を飲み込んだ。なにこの空気。もしかして、あとで後悔したりする?ふと視線を感じると、店の外からガラス越しに黒のワンピース姿の音響がこっちを見ていた。 アパートの部屋に帰りつき、箱をあらためて見ていると気味の悪い感覚に襲われる。黒い手の噂はつい最近始まったはずなのに、この箱は古い。古すぎる。煤けたような木の箱で、裏に銘が彫ってあってもおかしくないた佇まいである。この中に本当に黒い手が入っているのだろうか。だいたい噂には、箱に入ってるなんて話はなかった。 音響と名乗るあの少女に担がれたような気もする。でも可愛かったなぁ。と、思わず顔がにやける。たぶん今日はオカルト好きが集まったのではなくて、少なくとも男どもは音響めあてで参加したのではないかという勘繰りをしてしまう。そうでなければ、開けろコールくらい起きるだろう。黒い手が見たくて集まったはずならば。 僕は箱の蓋に手をかけた。その瞬間に、さまざまな思いやら感情やらが交錯する。まあ、今でなくてもいいんじゃない。1週間あるんだし。僕は、つまり、逃げたのだった。そして箱を本棚の上に置くと、読みかけの漫画を開いた。 それから2日間はなにごともなく過ぎた。3日目、師匠と心霊スポットに行って、またゲンナリするような怖い目にあって帰って来た時、部屋の扉を開けるとテーブルの上に箱が乗っていた。 これは反則だ。部屋は安全地帯。このルールを守ってもらわないと、心霊スポット巡りなんてできない。ドキドキしながら、昨日本棚からテーブルの上に箱を移したかどうか思い出そうとする。 無意識にやったならともかく、そんな記憶はない。平静を装いながら僕は箱を本棚の上に戻した。深く考えない方がいいような気がした。 4日目の夜。ちょっと熱っぽくて、早々に布団に入って寝ていると不思議な感覚に襲われた。極大のイメージと極小のイメージが交互にやってくるような、凄く遠くて凄く近いような、それでいて主体と客体がなんなのかわからないような。子供の頃、熱が出るたび感じていたあの奇妙な感覚だった。そんなトリップ中に、顔の一部がひんやりする感じがして、現実に引き戻された。 目を開けて天井を見ながら右の頬を撫でてみる。そこだけアイスクリームを当てられたように、温度が低い気がした。冷え性だが、頬が冷えるというのはあまり経験がない。痒いような気がして、しきりにそこを撫でていると、その温度の低い部分がある特徴的な形をしていることに気づいた。いびつな5角形に、棒状のものが5本。 僕は布団を跳ね飛ばして、起き上がった。キョロキョロと周囲を見回し、箱の位置を確認する。箱の位置を確認するのに、どうして見回さなければならないのか、その時はおかしいと思わなかった。 本棚の上にあった。置いた時のままの状態で。けれど、僕の頬に触ったのは手だった。それもひどく冷たい手の平だった。思わず箱の蓋に手をかける。そしてそのままの姿勢で固まった。 昔から「開けてはいけない」と言われたものを開けてしまう子供ではなかった。触らぬ神に祟りなしとは、至言だと思う。でも、そんな殻を破りたくて、師匠の後ろをついていってるのじゃないか。そうだ。それに箱を開けたらダメだとか、そんなことは噂にはなかった。音響が言っているだけじゃないか。 そんなことを考えていると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。僕はそれを思い出したとたんに、躊躇なく箱の蓋を取り払った。中にはガサガサした紙があり、それにつつまれるように黒い手が1本横たわっている。マネキンの手だった。 ハハハハと思わず笑いがこみ上げてくる。こんなものを有難がっていたなんて。 手にとって、かざしてみる。なんの変哲もない黒いマネキンの手だ。左手で、それも指の爪が長めに作られているところを見ると、女性用だ。案の定だった。 あの時、音響は確かに言った。 「結婚指輪でも買ってやれば・・・・・・」 つまり、左手で、女性なのだった。 「開けるな」と言っておきながら、音響自身は箱を開けて中を見ている。そう確信したから僕も開けられた。なんだこのインチキは。 僕はマネキンの手を放り出して、パソコンを立ち上げた。今頃あのスレッドでは担がれた僕を笑っているだろうか。ムカムカしながらスレッド名をクリックすると、予想外にも黒い手の話は全然出てきてなかった。 すでに彼らの興味は次の噂に移っていた。音響はなんと言っているだろうと思って探しても、書き込みはない。過去ログを見ても、あれから一度も書き込んでないようだ。 逃げたのか、とも思ったがなにも彼女に逃げる理由はない。俺に追及されても「バーカバーカ」とでも書けばいいだけのことだ。それにもともと音響は、常連の中でも出現頻度が高くない。週に1回か多くても2回程度の書き込みペースなのだ。あれから4日しかたっていないので、現れてなくても当然といえば当然なのだった。 ふいに、マウスを持つ手が固まった。週に1回か2回の書き込み。 心臓がドキドキしてきた。去っていった恐怖がもう一度戻ってくるような、そんな悪寒がする。気のせいか、耳鳴りがするような錯覚さえある。過去ログをめくる。 [*←][→#] |