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限りなく、灰色






先程から、雨の音は鳴り止まない。
その静かな音は、僕の耳の鼓膜から五体を通り抜けて、そして再び脳髄へと戻ってくる。
僕は、雨は好きだ。
彼女は、雨は嫌いだった。



「どうして今日は雨なのかしら。雨なんて、嫌」

彼女は、顔を背けて硝子窓に滑ってゆく透明な粒を見つめ続けている。
僕は二人で寝そべる赤いソファの上で彼女が燻らせる煙草の白い糸を見つめていた。
僕は煙草は吸わない。理由は特にないが、僕の親も祖父母もそれには縁がなかった。体質的に似合わないらしい。

ゆらゆらゆら。
僕らだけのクリーム色の壁紙の空間。
灰色にも見える天井への空をどこまでも上ってゆく白煙。それは自分の存在が消えることも告げずいつの間にか、とけてしまって。
まるで、僕らみたいだと思った。
あれは、存在が消えたのではなく空気と融合したのだ。空気はやがて大気になり、大きな守るべき地球を包み込むのだとしたら。
こんな僕らだって、役に立っているじゃないか。

日常の喧騒の中でしか存在しない思考から引き離され、僕らは今、静かにふたり、雨という思考の湖のほとりにたっている。
湖には、波紋もひとつもない。
静謐。


「どうして、ほっといてはくれなかったの」

二人の部屋には暖房も、体を温めるものは何もつけてはいなかった。ただ、手を伸ばした先にあった彼女の肌の冷たさが心地よく思った。

彼女がばら撒いた、硝子のテーブルと床の上に散らばる、赤。白。そして、透明の海を連想させる水の粒が数滴。
これらが何を意味しているのか、彼女の他は僕にしかわからないだろう。
白煙はいつのかにか消えていた。
明るい彼女は、こうして雨の灰色の空間の中で、ときどき泣く。
発狂したように、泣く。
小さな少女に還ったようにして、泣く。
そのたび、僕は、僕は何度思ったかしれない。彼女のことを、愛していると。


いつだって、白と黒の薄氷を踏むような世界で生きている。
生まれてきた意味。存在証明を知りたくて、求めて、少しだけその薄い氷を踏む力を入れてしまえば音は鳴る、ぱりん。
小さな音と共に向こうにある底を見つめてしまうなら、ラベリングされた僕らはもうもとの世界には戻れない。
正常者と異常者。
枠組みを作った者たちの、随分と理不尽な話だ。


僕らは、もっと壮大な世界、胎からうまれたのだ。
うつくしい羊水に浮かんで悠久の時をめぐりうまれたのだ。
少しくらい、自然へと戻ろうと手を伸ばして何が悪いというのだろう。




「灰色の、海を、みたい」

少しだけ、彼女の赤い唇がうごいた気配がした。

「いいよ」
「何も聞かないのね。雨なんだから濡れるわよ」
「別にかまわないさ」
「どうして、優しくするの」

その言葉に、無言で笑った。
普段は全然、臆病じゃない彼女が言う言葉に。
なんでもこなすキャリアウーマン。必死で生きてきた、ひと。
きっと明日になれば、いつも通りメイクをして戦闘服というスーツを纏い、戦場へと向かうのだろう。

笑んだ視界の片隅で、彼女の肩が少し震えているのが見えた。
その後姿が、ただそれだけが、僕の心の奥を揺らす。
発した言葉以外は、このマンションの小さな部屋の世界では、全てが陳腐でしかなかった。


「愛しているから」


彼女はうさぎのような赤い瞳で振り返ると手を伸ばし、ソファに寝転がっている僕の前髪をさらりと、優しく掻きあげた。
僕は、目を瞑る。

ありがとう。
お礼は、それだけで充分だよ。

090110
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あきゅろす。
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