[通常モード] [URL送信]
夏蜜柑






――なつみかん。
そう、呟く。
底冷えする京の僻処。ここに夏蜜柑などはない。けれどこの歳になると、つい独り言のように口に出してしまうのが癖だった。この辺りいったいの豪農でもある古い大きな邸の二階から眺める景色を、私はこの上なく気に入っている。庭に、木枯らしに吹かれる木の葉が揺れた。

「一度、食べてみませんか」
どれくらいの月日が経ったのだろうか。
見つめる葉とともに、朽ち葉色の思い出が瞼の裏でゆらゆらと揺れ、やがて私のなかで美しい幻影に染まってゆく。




初めて会った日は、雨が降っていたと思う。二人で入った蛇の目傘の上を弾む、ぱらぱらとした音を、今でも耳底で私は覚えている。
私は芸妓として、東山で催されていた翠紅館のお武家の宴に呼ばれた帰り道だった。若い壮士風の方々の話合いのあと、宴でも顔をあわせたこともないそのひと――彼が、どういう奇縁か私を島原の置屋まで送ってくれることになった。
背の高い、総髪をしたひとだった。
会合ではどうやら中心人物のようなひとだったが、外に出、私と二人になっても彼は私に語りかけることはなかった。
その日にあった宴は、どんな方々がどんな話をしていたのか私はしらない。尋ねるなど、怖くて芸妓などにできるわけはなかった。この物騒な時代、平穏だった都は一変してあちこちで血を血で洗うような惨事が続いていた。
大きなそのひとは、私に傘を差し向けながら、無言で歩いていた。清水さんを降りて四条河原へと橋を渡って。
その続く道をただもくもくと二人、雨の中を歩いた。


二度目に会った日は、随分と天気の良い日の夕暮れだった。彼は私のいる置屋に尋ね、私を指名し、
「お変わりありませんか」
そう、彼は顔を合わせた途端尋ねた。
「へえ」
「貴女が、風邪を召されたと聞いて」
そのまま、何か探るようにして懐に片手を入れる。
「これはよく効く薬です。では、私はこれで」
男が里で遊ぶのには金がかかる。たったこれを渡すために大金を叩いて島原に来たのだろうか。そう考えているうちに彼はさっさと立ち上がると、呆然としている私を置いて部屋から姿を消してしまった。
私は、誰もいない部屋で薬の瓶に手を伸ばしてはやめた。暫くひとり、じっとそれを見つめていた。
今まで普通に客はとっても、こんな奇妙なことはなかった。
なぜか怖くて、触ることができなかった。



彼は、それから何度か私のいる廓に訪れた。床を共にするわけでも、私に触れるわけでもなく。ただ薬がきれたころまた、新しいものを置いてゆく。私の風邪などは、当の昔に治っていたというのに。
そんなことが数度続いたある日、私はたまりかねて去ろうと立ち上がった彼の袴の裾を握った。
「そら、お客はん。よくあらしまへん」
「何がですか」
「ただの芸妓やし。ちゃんと花代ぶんお相手せんと、うちが怒られてしまいます。せめてお約束の香の消える時間ぐらいお付き合いしてくれまへんやろか」
彼は無言でじっと私を見下ろしていたが、ひとつ頷くと改めて私の目の前に座る。
「――では、一曲でも。」



人もねに臥し丑三つ寒き
川風も厭はじ、
逢瀬の向ひの岸に見えたる人影はそれか
心嬉しや、頼もしや。
互ひにそれぞと見みえし中の
互ひにそれぞと見みえし中の

東路の佐野の船橋とりはなし
親し離くれば妹に逢わぬかも



「悲恋の『船橋』、ですか」
「はい」
「あなたは唄がうまい」
彼が瞑っていた目を開いて言った。
「おおきに」
「三味線も。あいつに聞かせてやりたいぐらいだ」
あいつが誰のことを言っているのかはさっぱりわからなかったが、彼の笑顔を初めて見た私はなんだかそれだけで嬉しくなった。
なぜだかは――、わからなくとも。

「もうお分かりでしょうが。あなたに会いたくて通っていました」
少しばつが悪そうにそう彼は言った。やっぱりそうかと少しだけ、私は俯いた。
小さな子供の私がここに身を置くようになって、そして歳をとって、何度もあったようなことだった。そしてすぐ自分は阿呆やと思った。仕事として客が自分を求めるのは当たり前だというのに何を期待していたのだろうかと。
心のどこかで彼は普通の客と違うと思っていたのかもしれない。だから私はあのとき、彼がくれた薬にすぐに手をつけられなかったのだと。
「ここは、遊里どす。花代もろたら、うちはなんでもしますさかい」
「・・・いや」
隣の寝具のある襖を開けようとする私を制し、ちがうんです、と彼は言った。
「あなたと、話がしてみたくて」

その夜、お互いほろ酔いになりながら私は始めて彼と長い時間を過ごした。
二人の話題は随分と柔らかな内容ばかりだった。彼は芸妓の私の生い立ちなどは聞きもしなかったし、私も彼がどこの藩士で何者でこの京で何をしているのかなど尋ねなかった。私たちは気が合ったのかもしれない。
彼は京のあの食べ物は美味いとか、私はあの土地に行ってみたいとか、どうでもいいようなことを話して二人、笑いあった。話に微笑む色白の彼はとても優しい顔だった。

「生まれの干支が一緒とは驚いた」
「ほんまに。それよりお客はんのふるさとでは、瓦で蕎麦を焼いて食べるて、それ嘘や」
本当ですよ、と彼は疑心暗鬼の私が可笑しかったのだろう。笑いながら言った。

「私のふるさとは、あとは夏蜜柑かな」
「なつみかん?」
「ええ。城下のあちこちで、熟れた黄色い実が零れるように枝にたわわになる――」
初夏。城下のあちこちで夏蜜柑の香りが鼻腔を擽る季節がやってくる。命の踊るような大好きな夏がやってくる。空の青と白と、葉の緑と眩しい黄と。私はあの美しいふるさとを愛しています。
目を瞑ったまま穏やかに微笑み、そう彼は呟いた。



――遠くで若い声が聞こえる。
うちの農園のどこかで、私の孫が遊んでいるのだろう。ひとは木のように古い葉を散らし、新しい葉を次々と生んでゆくのだなとつくづくこの頃、思う。
明治の世も随分と過ぎ。京の天子様が江戸へと御所を移されたときには一体世の中はどうなるのかと思ったけれど、うねりに沿って私たち市民はそれなりに生きている。

「貴方が弥二と呼んでいた品川様も今は子爵さまとなり。官軍の、宮さん宮さん、あの唄を作られたんですって。外国と信じられないような大きな戦もありましたねえ。貴方と同志の伊藤様も亡くなられて。時は確実に過ぎて行くのですね。私のうえにも」

彼とそんな会話をする。もう老年の私は足を痛めているので外には出られない。こうして彼と話すことは私にとって、とても楽しいことでもあった。揺れる夏蜜柑の葉を見つめていた視線を、ぽとんと私は落とす。
皺の増えた私の手は、彼に握ってもらった時の掌とはもう別物になってしまっていた。
それでもどこかあの体温が残っているような、などと思って少し笑む。摩ってみる指先。



「随分と練習をされたんですね」
――ある日――。
もう二人で言葉を交わすのも慣れたころ、いつものように訪れた置屋で彼がふと言った。彼が私に触れたのは、私の指先、それが初めてだった。
彼はじっと掬い上げた私の指を見つめている。唐突だったので初めはなんのことを言っているのかと思ったが、どうやら三味線のことだったらしい。
「うちの仕事ですさかい。それにここの皆、当たり前どす」
当たり前と言っておいて、不覚にも私は無意識に涙を落としてしまっていた。
「今夜は帰らんといて」
至極自然に若い私の唇から言葉は出た。それが初めての夜だった。
それから私は、毎日のように不思議な感情に苛まれた。彼といるときも一人のときも。こんな気持ちは初めてだった。胸が悶える様に苦しい。
 
何度会ってもどんな話をしても、彼の素性だけは問わなかった。ただ一度だけ、羽織に血がついていたことに驚いた。
彼はというとどこかいつも忙しそうで、料亭などで会合がある時には私は彼についてゆくことが多くなり、その折に私を島原の門の外へよく連れ出してくれた。錦市場、祇園のお祭。水に泳ぐ赤い金魚の色が目に焼きつく。からんころん。彼の高下駄の音が鳴る。先をゆくそのあとを若い私はついてゆく。ときどき彼は振り返り、私へと手を伸ばす。



「最近は、京も随分と物騒になりましたえ」
「・・そうですね」
何気なく寝物語に呟いた私の言葉に、彼は少し間をおいて言った。
「これから戦でもあるんやろか」
「さあ、どうでしょうか」
初めてあった日から、数ヶ月の時を経ていた。何故かだんだんと、彼が私のもとにくる間隔が伸びてきて、それが心配になってしまっただけの問いだった。
「もうすぐお武家はんのふるさと、夏蜜柑、なるころやろか」
私はひとり、想像をして気分を楽しくした。自分で言い出した話題から、遠ざかりたくなったからだ。
私は本当に彼がどんなひとでもよかった。会えることだけが全てだった。今、ふたりがここにいるということだけで満足だったったし、私が私でいられた。
だから、彼の素性などけして知りたくなどなかった。

「一度、食べてみませんか」
「え?」
「いつか。私のふるさとの夏蜜柑を」
 
どんなひとでもよかった。




「長州の久坂と知っての狼藉か」
袴を翻した丁度、声が橋の上で響いた。その大喝に恐怖を覚えたのか、男はびくりと背を震わせ闇に消えてゆく。
「すみません。大丈夫でしたか」
 
ある夜の料亭からの帰り道。突然のことだった。
京の地が荒涼としてきた今日であっても、目の前で大きな刀を見るのは初めてだったから、私はただただ震えるように黙っていた。恐らく、体が固まっていたのだと思う。
「今日は十六夜、ですね」
空を見上げて、まるで今あったことが嘘のように、彼は明るく呟いた。
私は彼がわざと話題を逸らそうとしているのだとわかった。またその理由がふたつあるということも。
一つは私の恐怖をとるため。もう一つは。
 
固まっている私の安否が気になったのか、それとももう一つの何かが気になったのか。
手に持っていた行灯で私の顔を照らしじっと見つめてから、彼はいつものように微笑んで囁いた。
「さっきの名は、わすれてください」





あの赤ん坊は、どれほど大きくなったのだろうか、と思う。あのひとのふるさとできっと大切に育てられたのだろうから。この老年になるまで、頭の片隅からずっと離れないあの子の面影を、いつも私は探す。

私は一人で子を育てる力を持ってはいなかった。あのひとの名は世間では有名だった。その盟友である品川さんが責任をもって認知し、彼の故郷の萩へあの子を連れて行ってくれた。
可愛い我が子と私は二度と会うことはなかった。私はあの子が私の元にいるよりも彼の故郷に帰ったほうが幸せだと理解していたし、誰よりもその幸せを願っていたから。
けれど――けれどたったひとつだけ我侭をした。
名を、秀次郎と名づけた。

京の大半が焼けた戦が過ぎ、明治の夜が来て私は、京の豪農の農家に嫁いだ。ゆっくりと、穏やかなときが長く長すぎるくらい過ぎた。私の夫は、とても優しいひとだった。子宝にも恵まれ、私は自分が子供の頃に想像だにできないような幸せなときをこの歳になるまで過ごした。
それでも、何年経っても忘れられないものがある。いつもどこかで彼が私を見つめている気がしていた。





――あれは――蒸し暑い夜のことだと覚えている。
季節は晩夏で、外では鈴虫が鳴いていた。昼間から怪しかった雲行きがぽつりぽつりと小さな水滴を軒で鳴らし始めた時だった。
その頃京は、近々幕府と長州の戦が始まるのではないかという噂が市民に流れ皆が動揺していた。
その夜、彼は数ヶ月ずっと訪れなかった私の置屋に突然やってきた。頭に目立たない傘を被り、見たこともない軽い甲冑脚半を羽織の下に着込んでいた。
普段と様子の違う彼の姿に驚いて何も言えず、じっとしている私の前にしゃがみこむと、彼は一枚の紙を渡した。

「もし貴女が困ることがあったら、どうか、ここに」

それだけを言うと立ち上がりすぐに置屋の暖簾をはたいて出てゆこうとした姿に、私は幻から醒めるようにはっと意識をとり戻した。
女将の止める声も耳に入らず店を出、そのまま彼を追った。足の速い彼を追いかるうちに何度も私は転びそうになった。
皆が降ってきた雨に道を急いでいる。そのごったがえす島原の中の人垣を掻き分けて、私は必死で彼の背を探した。

手渡された手紙には、隠してきたが自分は長州人の久坂ということ。戦が数日たらずに起こるだろうこと。そして京が戦場となり焼けたとき、私が頼るべき人物の名前、そして―――私の夫となるひとの名が書かれていた。
いやや。涙が零れた。
どうしてこんな。私は貴方がいれば、安寧もなにもいらないのに。どうしてこんなものを渡すの。

「――久坂はん」

今まで二人の暗黙の了解のように一度も言ったことの無い名前を、私は声と勇気を振り絞って叫んだ。

「わたしを、すてないで」

彼は激しくなってきた雨に打たれながら門の遠くで振り向いた。そして、いつものように微笑った。

「ありがとう」

私は泣いた。何かたくさん叫んだように思う。けれど身を翻した彼が二度と振り向くことはなかった。






それからすぐに禁門の変が起こり京の大半は焼け、数ヶ月後、彼が御所内にて自害したと人づてに聞いた。
私はそれから彼とのたったひとりの子、秀次郎を生んだ。


今でも時々思う。
わかっていたのだろうか。わかっていたのだろうか、彼は私が捨て子で島原に来たということを。
彼もまた、自分のことを多くは私に語らなかった。十五歳で天涯孤独になったことぐらい。私は思う。
彼の、最後の「ありがとう」の意味を。





もう随分と記憶が色あせてきた。この歳を経るまで、いろんなことがありすぎたためだろうか。夫との思い出もこの農園で子供達と遊んだことも。でも、今でも印象深く覚えていることがある。



(元服前、親がつけてくれた私の名は、秀三郎といいます)

雨に打たれながら闇に消えていった、やさしい後ろ姿を、私は今でも覚えている。



2009.11.19 訂正2010.08.03

久坂玄瑞と井筒タツさんで。
捏造すみません。難しすぎて地方言葉だめだめ。マイナーもいいところ。
久坂さんのお相手は井筒さん説をとらせていただきました。久坂はかなり人生が波乱万丈だと思う、自分的には結構印象深いひとです。
アイツはもちろん松下の高杉で
戻る

prev

第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!