◆Short Novels
6
「……俺以上にバカな人って居るのかなー」
抱かれる事を対価に得た、元新聞部部長の斎藤の電話番号とアドレス。
それが書かれた紙を穴が開くくらい凝視した後、その紙を握り潰して、でもそれを皺にならないように伸ばして。
そしてまた握り潰す。
そんな不毛な事を何度も繰り返し飽きる程した後、ようやく篠田は呟いた。
「いないだろうなー、たぶん」
傾けた視界に映る、分厚い黒縁の眼鏡。
一人でいる時だけは外す、視力に全く貢献していない眼鏡。
その眼鏡から連想するのは、元部長の存在だ。
『何で外さねぇの?外したら、きっと綺麗な顔してるのに』
「だから、かけてるんだよ、部長」
自意識過剰のような誰かに狙われたくないという理由の他に、篠田にとってもう一つ重要な理由の為に、お飾りの眼鏡をかけている。
「……綺麗なんて、言われても嬉しくないよ、部長……」
それが例え、斎藤から言われた事だとしてもだ。
「っ」
不意に、ケータイが振動した。
バイブの長さからそれがメールが来た事を知らせているわけでは無いらしい。
それなら、電話か。
けれど、特に誰とも予定を入れてなかった篠田は、こんな深夜にかかってくる電話に心当たりが無かった。
その上、そのかかってきた番号が篠田の見覚えのない番号となれば、ますます分からなかった。
学校に関する事は生徒も含め、大抵の事は知っている篠田だ。
その篠田が見た事のない番号だと、不信感が強くなる。
「はいー?もしもしー?」
それでも、逃げはしない。
篠田は反射的に視力の変わらない、ただのダサいだけの眼鏡をかけてその電話に出た。
そして口調も、学校でみせるものに変える。
そのスイッチは無意識だった。
『変わんないなー、お前』
「………どちら様ですかー?」
『覚えてるでしょー?俺のこと』
「…………知りませんよー?」
嘘だ。
まさか、そんな事……。
だって、有り得ない。
『嘘下手だなー、相変わらず』
「………本当に、知りません。間違い電話なら切りますよー?」
鼓動がうるさい。
自分の声が上擦っているのが分かった。
『なぁ切るなよ、洋平』
「っ」
かつて、篠田に対して親以外にそう呼んだのは、2人だけ。
そして、この話し方。
もう、連想されるのは1人だった。
元新聞部部長の斉藤以外にもう1人――。
『兄貴のこと忘れるとか、酷くねぇかー?洋平』
篠田が中学生時代に高校に在籍していた元新聞部部長。
そして斉藤の先輩であり、尚且つ篠田にとって実の兄でもある人物。
「……誰があんたの事、兄貴と思うかよ」
『性格悪いなー。あんなに前は可愛かったのにさー』
「っ、うるさい」
『俺に懐いててさー?そりゃもう、可愛かったのになー』
「……黙れ」
『いつの時代も、どんな国でもさー。初めての奴ってのはー、大切にしなきゃいけねぇよー?』
――――そして、篠田の初めての相手。
「もう、止めろって………洋介」
『兄さん、だろー?あの時みたいに、そう呼べよ。洋ー平?』
篠田と同じ語尾を伸ばす、間延びした喋り方。
いや、違う。
篠田が似せた、洋介の喋り方だ。
「……俺に関わんないでよ……兄さん」
『近々、会いに行くからさー。待っててねー、洋平?』
篠田の普段から比べもつかない程弱い口調に対して、洋介の能天気な明るい口調。
その後にブツッと電話が切れた音がして、そのまま篠田はケータイを床に落とした。
意図的じゃない。
ケータイを持つ手に力が入らなかったから。
「…………最悪」
良くも悪くも篠田に対して影響した4つ年上の兄、原田洋介。
篠田の間延びした口調も兄の洋介の影響だ。
洋介は篠田の前でだけそんな喋り方をしていた。
それが嬉しくて、自分が特別のように思った。
だから、それをみんなに自慢したくて真似をしていたら、いつの間にかそれが洋介と同じ篠田の癖となっていた。
そんな洋介とは、親が離婚した為、桜ヶ丘で再会するまで会っていなかった。
しかし離婚するまでの篠田が生まれてからの10年余りは本当に仲良かったから、再会した時は本当に嬉しかった。
洋介が新聞部だという事を知り、高校に行ったら入るのだと決めた程に。
洋介とまた仲良く出来るのだと、胸を踊らせた。
しかし、再会してから洋介が卒業するまでの二年が、あんなに苦痛だとは考えてもいなかった。
『綺麗な顔だなー、洋平は。ちゃんと、覚えといてよー?初めて犯されたのは、俺なんだってこと。血の繋がった兄貴だってこと。その兄貴に犯されて、そんな風に乱れる綺麗で汚れた自分なんだってこと』
「っ……やっと、吹っ切れそうだったんだ……邪魔しないでくれよ…」
頭を抱えて、聞こえてくる声に抗う。
優しかった兄が変わった、あの日。
自分の何かが壊れたあの日。
その日の事が走馬灯のように頭に流れ込む。
こんな情報、一番最初に忘れてしまって良いのに。
記憶しなくて良い。
消去してくれて構わない。
そんな嫌な情報を今でも鮮明に覚えている自分が、腹立たしかった。
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