透き通るブルーの奥に揺らめいている深く優しいダークブルー。青が全て。全てが青。 見ているだけで吸い込まれてしまいそうな、そんな、芸術。 「また泣いているのか?」 「…まぁ、不本意ながら」 眼前に臨む一つの芸術が語りかける音色に揺すぶられた涙腺が知らず知らずと決壊してしまう経験は何もこれが初めての事ではなく、隣に立つペンギンと呼ばれる男ももはや見慣れたこの光景に苦笑を零している。 「いやね、どうしても泣きたくなる位優しくて切なくて愛おしいから…俺の意思の与り知らぬ所から溢れてきちゃうんだからもうどうしようもないっす」 「…そうだな」 実は自身も経験してきたというソレを思い出すかのように深く首肯するペンギンを横目に、キャスケットは涙の原因となっている作品に掲げられたタイトルを見つめて、「嗚呼、またか」と、涙に濡れた頬を困ったように緩ませた。 幾多もの名声を欲しいままにしている若き天才画家「トラファルガー・ロー」の名を誇らしげに掲げておきながら、その悲しい程に愛おしいブルーの作品は【NO TITLE】と示された自己のタイトルボードを悲しげに見つめている。 「…いつになったらキャプテンは作品達を愛してやれるんっすかね」 「?」 「出展される子達も毎度【NO TITLE】じゃあ流石に救われないっすよ」 実を明かせば、出展されるも何も、個展を開くことも美術展でスペースを与えられる事をも嫌った変わり種のあの人は、どんなに世間や専門家が絶賛するような仕上がりの芸術品をも満足のいかない瞳で見つめて、無造作でいて粗雑な愛の無い扱いで、学校の中の小さなアトリエとなる教室の床に作品達を積み上げる。 今回のこの個展にしたって、そんな作品群(隣に立つこの人は芸術の墓場と呼ぶ其処)の中から教授やペンギンが四苦八苦して掘り出してきた作品達が並べられているのであって、この作品達の生みの親の意思なんてのは何処にも見当たらないなんていうのが真実だ。 そんな真実に触れる事も無く、不意にあちらこちらに掲げられた名も無い作品達をぐうるりと見渡したペンギンが、とある一点を指して首を傾げた。 「お前、あっちはまだ見てないのか?」 「あ?え、あ、はい」 先刻の自身からの問い掛けに対して噛み合っていないような気のする台詞を口にするペンギンに思わず戸惑いを明らかにしたところで、「あー、だからか。…勿体ない」などと零して一人納得したように頷いたペンギンに、ぐいと腕を引かれて歩き出す。 「え、あ、ちょっと!!」 「いいから」 まだ目にしていない芸術の数々を横目に通り過ぎて行く事に不満を零しながらも、温かな腕には逆らえなかった。 ★ 【Love*Tempo】 唯一名乗る事を許された完成された一つの芸術品をしげしげと見つめた。 青を基調とした作品を仕上げる事が圧倒的に多い奴には珍しく、暖色を基調として纏め上げられた一つの世界は、見る者の心に不思議と温かな音色を響かせるような澄んだ優しさを滲ませている。 あの容貌でこんな作品を仕上げた男が不意打ちに好きだと零した優しくて温かなあの曲目を描く。あくまで芸術鑑賞に訪れた自身の手が専売特許とするタクトは此処には無いけれど、それでも組んだ指先が刻むテンポに合わせて脳内では奴の愛したスコアが世界を創る。 「こちらの作品、気に入って頂けましたか?」 「さぁな」 突如として鼓膜を叩いた声に振り返ることも無く応えを返す。 聞き馴染んだ声が紡ぐ胸糞悪い丁寧な調子はそんな反応をクスクスと笑って、わざわざ作品と俺の間に立ってみせる性悪。 「邪魔。見えねぇし」 「御冗談をほざけユースタス屋。俺より頭一つ高いタッパは何の為だ」 「少なくともテメェの為に活用してやるもんではねぇな」 「生意気だな。反抗期か?」 「成人男性捕まえて今更何が反抗期だ阿呆」 相変わらず寝不足を体現させる目元に被せるように(カモフラージュか何か知らないが)掛けられた太い黒渕フレームの伊達眼鏡越しにとろりとした気怠げなダークブルーの瞳が悪戯な光を燈してこちらを見上げている。 「今更、か。そうだな、今更な話だな。ユースタス屋は生まれてこのかた終わらない反抗期を抱えて生きてきたんだもんな」 「どちら様の捏造を語ってやがる」 「手前様に決まってんだろ」 「可哀相に、寝不足のあまりテメェで何喋ってんのか理解できてねぇんだな」 一般で言う辛辣な言葉の応酬は、俺達にしてみればいつも通りのコミュニケーションの一環で。特に気分を害するでも無く伸ばした指先をフレームに引っ掛けて攫った装飾品を手元に遊びつつ、もう一方の自由な指先を伸ばして、鈍感な主人に代わって黒く疲労を訴えている隈を撫でた。 「ん、」 「随分と濃くしやがって。暫くは落ち着けるんだろ?」 「んー。そう、だな。暫くはのらりくらりと自主制作、かな?」 擽ったそうに細められた瞳はそれでも何処か心地良い事を訴えるようにぼんやりと潤んだ優しい光を放っている。 無意識下にか擦り寄る猫の様に距離を微かに詰めてきたトラファルガーの美しく静かな深海のブルーを溶かし込んだような短い猫毛をくしゃりと掻き回す。 「頑張ったな。お疲れ」 「ふふ、今日はやけに甘やかすな」 「嫌か?」 「そうとは言ってねぇ」 「素直じゃねぇの」 「嫌いになったか?」 「いや全く」 くすりくすりと笑みを零しながらちらりと辺りへと巡らせた視線で邪魔なギャラリー達の不在を確認すると、眼前で甘えるような、しかし何処か艶を含んだ瞳でこちらを見上げているトラファルガーを抱き寄せて口唇を合わせた。 ★ 「……」 「……」 「…ペンさん」 「……」 「……見せてくれようとしてた作品、」 「……」 「あったかくて、良い作品っすよね…、その、遠目にしか見えないっすけど」 「……」 傍から見ても甘い桃色の空気を醸し出している二人組の後ろ姿をこそこそと曲がり角の壁越しに見送ったキャスケットのぐったりと疲れたような気遣い混じりの感想には、ただただ首を振るしかなかった。 奏造シンフォニィ 2 (流石にそういうのは公共の場では控えてくれっ!!!!) Contribution*0807 |