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VIGILANTLY

 
気持ち悪い。

覚束ない足取りで向かう教室への道程はとてつもなく長いものに感じられた。季節の変わり目に必ず風邪を引くのは、私が馬鹿だからとかそんな単純な理由ではなく、不可解ながらもそういう体質に出来ているというもっと単純な理由だ。

人もまばらになった放課後の校内には寂しい空気が流れていた。すこぶる悪い体調がそれに拍車をかけ、無性に泣き出したい気持ちになる。廊下で一人涙を流す姿を想像した。三流ドラマのワンシーンか、くだらない、辛気くさい。目頭が熱くなったためではなくウイルスのせいで潤った鼻を啜って失笑した。

やっとたどり着いた教室の扉を勢いよく開けると、そこは素晴らしいほど無人だった。私が保健室に向かう時はあんなに心配そうだった友人の姿もここにはない。何という薄情な奴だ。今日は水曜日で、彼女のバイトがある日だから仕方ないことだと知っていながらわざらしくと悪態をつく。

「あー体調悪い死にそう。」

自分の机に突っ伏し、窓の外へと顔だけを向けた。窓際の席の一番後ろ、いつもは教室のファーストクラス的なこの場所も、今は冷たい風が頬を打つ悪魔でしかない。傾いた太陽が赤く笑っていた。

カラスの鳴く声が幾重にも聞こえ、自身が悲鳴を上げていることを確認する。ひんやりとした机の冷たさが頬に気持ち良い。そのまま眠ってしまいそうなほどに無機質なこの木は優しかった。

「咳をしても一人、か。背中をさすってくれる人もいないなんて切ない。」

もう随分と耳が遠い。自分の出した声が他人のもののように聞こえた。

詰まった鼻がズズと音を立て、とことん惨めだと笑った。感傷的な雰囲気というものはどうしても性に合わない。

「何傷悴してんだてめーは!」

ばちん、と背中に鋭い衝撃が走った。私の神経は頬から叩かれた場所へと急速に集まり痛みの焦点を合わせる。曇っていた意識がクリアになった。じわじわ熱を帯びた患部は頭にこもった熱まで持っていったようだ。

「あとべ、か。いつの間に」

「もりやまが尾崎放哉の自由律を口にしたところから。」

ああ、今さっき来たってことね。普通に声掛けてくれれば良かったのに。

喉で支えた言葉はそのまま迂回して頭の中でぐるぐるとまわり、消えた。未だ背に跡部の手のひらを感じる。それが実物なのか残触なのかはわからなかった。私は、身体の周りに分厚い膜が張られたような錯覚に捕らわれていた。どれもこれも風邪のせいだ、と虚ろに考える。

人肌が上下しているような気がした。熱の籠もった思考力では明確に判断出来ないが、何となく胸のあたりが安堵に満ちていく。自然と瞼が下がっていった。

「らしくねー。」

「うん。」

「いや、俺が。」

「うん。」

私は、自身がすーっと消えてしまう感覚に逆らえなかった。それほどまでに意識が朦朧としている。駄目だ。今日は毎日欠かさず見ている再放送ドラマの最終回なのだ。こんなところでぐずぐずしている場合じゃない。既に天高くへと離れていたものをひっ掴み、上半身を起こした。思っていたよりも頭が軽い。これならしっかりと帰路につけそうだ。

「帰るわ。」

「平気か?」

「うん、何とかね。」

会話をそこそこに切り上げ、席を立つ。机の横に掛けた鞄を取ろうと前かがみになった時、潜んでいた魔物が牙をむいた。これは床と挨拶することになるな。他人ごとのようにそう思った。

「全然平気じゃねえし。」

腰に、いつの間にか後ろから力強い腕が回されていた。私は跡部のおかげで倒れずに済んだらしい。短い溜め息が聞こえる。有難いよりも、申し訳ないが先行した。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。譫言のように繰り返す。実際譫言なのだが、それに対し跡部は律儀に気にするなと言い続けた。

「お前には悪いが、これはチャンスなんだから遠慮なく付け入らせてもらう。」

その言葉を知るには、私は熱に冒されすぎていた。ごめんなさい。馬鹿のひとつ覚えの如くつぶやく。背後で跡部が苦笑するのが手に取るように分かった。

下校を促す音楽が聞こえる。最終回は、見れそうにもない。



END

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