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手に取りたる矢、狙い定めしその先の的に当てんとす
 

 

何の気なしに聞いたその声は、溺やかで滑らかで抑揚もなく掴みどころがない。しかしなぜだかいつまでも耳に残った。


当てんとす、当てんとす。あ、アテントって介護用オムツだよね、はは。アテントだって。ねえねえ宍戸アテントだって。ポリデントも出てきちゃうんじゃないかな。ふは、やばいツボった。

「うるせーお前ちょっと黙ってろ。」

「その反応は想定外だったわ。この感動を共に分かち合おうという目論見が今まさに泡のごとく消え去った。」

午後の古典は否応なしに眠くて、私は隣の席の男の子にこそこそと小さくやりとりを仕掛けた。彼は半分閉じている眼で心底うんざりといった態度を示す。だって中世に介護用オムツの商名が出て来たんだもの。これは黙ってられないでしょう。こら寝るな宍戸。タフデントにまつわる都市伝説を今から話すから。

「こらーそこ、私語すんなー」

宍戸の肩を芯の出たシャープペンシルでつついていると、担当教諭から間延びした注意を受けた。すみません、と萎縮したふりをして教科書に顔を隠す。仙人に怒られちゃった。次はきっと見えない神力あたりで圧力かけてくるよ。どうしよう。なんとか山のうんたら庵からきん○雲が飛んで来てお仕置きだべーって雷で丸焦げにされてしまうかもしれない。先立つ不幸をお許し下さいお父さんお母さん。

「だ、ま、れ。」

「め、ん、ご。」

宍戸ノリわりーなー粘着力皆無かよ。もっとねばねばしろよ。ねばねばねばねばネバーギブアップだろ。納豆食えよ。

ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかくらいの悪態を吐いていた私に、細かく刻んだ消しゴムがヒットした。宍戸だ。間違いなく宍戸だ。彼は暇さえあれば消しゴムをカッターで三ミリ角にしている。お前は小学生か、と馬鹿にした時もこの攻撃を受けた。対抗したいが如何せん、こちらに適当な武器はない。私は思いっきり顎をしゃくれさせながら宍戸を睨んでやった。

「ぶはっ!」

しんとした教室内に吹き出す声が盛大に響いた。宍戸は慌てて口を押さえたが、時すでに遅し。どうかしましたかー、と仙人はまたもや間延びした声で問いかける。尊敬に値するほど沸点の低い人間だ。いや、人間かすら怪しい。悟りの境地を開いているという噂も頷ける。味の向こう側にたどり着いたという台詞も、あながち嘘ではなさそうだ。

「宍戸くんダサーい。ぶはっ、だって。漫画かっつーの。あんたの言葉を借りるならば激ダサだね。げき☆ださ、だね。ぶはっぶはっぶははっ。」

「てめー…絶対殺す。」

殺すとか軽々しく口にするなよ。猪木をなめた罰だシャイボーイ。

私は隣に視線を向けた。彼は少し赤味の差した頬を片手でさすり、恥ずかしさを宥めている。次は何をしてからかおうか考えている間に、ターゲットである隣人は一人やきもきしながら机に顔を伏してしまった。うわ、面白くない。

「では跡部君、さっき読んでくれたところの訳を黒板にお願いするよ。」

「はい。」

椅子を引く音が、静かな教室でかたんと鳴った。私は自然と教壇を見る。真っ白な背中が、凛と佇んでいた。すらすらと黒板の上を滑る腕は止まらない。指揮者のようだとぼんやり思った。私はチョークで文字を書くとどうしても汚くなってしまう。それに比べて、今黒板に綴られている字は文句なし。跡部は何から何まで完璧だ。跡部との接点は全くない。同じクラスだけど言葉を交わしたことがなかった。たまに宍戸から聞く跡部の話も特に興味はなく、私の中の跡部景吾はまわりから入ってくる情報によって作られていた。金持ち、文武両道、眉目秀麗、どれにつけても優れている人物。言ってしまえば、ただそれだけの存在だった。

跡部についての印象を聞かれ以上を述べた時、宍戸は眉を下げた。わかってねーよ、そう言われた記憶がある。

「ああ、ありがとう。そこまででよろしい。」

板上を流れる手が仙人の声にぴたりと止まる。チョークを置き、自分の席へ戻る跡部を私は観察する。本当にやることなすことがいちいち際立っている。何気ない動作も、彼が起こせば様になる。女子たちが騒ぐのも無理はない。うん、目の保養にはもってこいだ。ありがたやありがたや。私は両手を併せて拝む。手のひらを摺り合わせていると、跡部と私の視線がかっちり重なった。彼がこちらを見たことに些かびっくりする。自身を映す青い目が弧を描いた。

ばーか。

跡部は確かにそう言った。声には出さず、口元のみで綺麗に馬鹿と象った。そして、何事もなかったように着席してしまった。跡部と比べれば確かに私は馬鹿だが、それが大した接点もない奴に向かって言う言葉なのか。唖然とした気持ちでその背中を見つめる。当然ながらこちらを振り返る気配はない。うましか、私の脳内はこの字で埋め尽くされた。

「口開けすぎ。鯉か。」

いつの間にか顔を上げた宍戸が小さい反撃を寄越した。たん、と何かが刺さる。急激に心臓が苦しくなり、私は胸を押さえずにいられなくなった。隣で狼狽え出す宍戸が段々と遠退いていく気がした。

請い乞い来い濃い。宍戸が言ったこいはカープの鯉だ。あれじゃない。

深く深く突き刺さった矢はそう簡単に抜けそうもなかった。私は彼らの言うとおり、何もわかってない、ただの馬鹿であったことをようやく自覚した。



END

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あきゅろす。
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