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*the others*
iron claw
【iron claw】


「リリカさんっ!リリカさんっ!!」
 自分の名を必死に叫ぶ部下の涙を見ながら、リリカもまた泣きたくなってきた。腹の傷はもう痛みすらも感じない。患部などリリカのぴくりとも動かせない首のせいで見ることも出来ないが、横に垂らした腕が触れるぬるりとした感触で、出血量は相当なのだと理解することが出来た。
 部下は相変わらず泣きじゃくり、リリカの名を呼ぶ。何か叫びながら自分の着ているスーツを破り、リリカの腹に巻きつけた。止血のつもりなのだろう。
 ――そんなことしても、もうあたしは駄目だって……。
「あたしのことはいいから、早く逃げなさい」
 霞む視界で必死に部下を睨みつけ、そう声を絞り出したつもりだった。なのに部下は依然としてリリカを抱きしめて泣きじゃくる。リリカの言葉はどうやら声になっていないようだった。
 泣きたくなってくる。
 この子はどうしてこうなのだろう。いつだって気が弱くて、リリカの後ろでおどおどとして。力はあるのに、決してそれを使おうとはしなくて。もう少しだけ、自信を持ってくれたら。もう少しだけ、勇気を持ってくれたら。きっとこの子は、もっとずっと大きくなれるのに。この子はいつだって力を持て余している。
「キョウ、スケ……」
 ――逃げて。
 そう伝えたいのに、言葉が伝わらない。
 自分はいい。この傷ではもうきっと助からない。刑事になった日から危険と隣合わせの生活は覚悟していたが、仕事で命を落とす日が本当に自分にも来るなんて思ってもいなかった。
 二十八歳。独身。まだ女としての喜びも楽しさも十分満喫出来ていない内にこの世を去るなんて何だか悔しいが、この状況ではもうどうにもなるまい。この二十八年間の人生がつまらなかった訳でもない。それなりに楽しい二十八年だった。後悔はしない。
 だが一つだけ悔いが残ると言えば、目の前で泣いている、この青年か。前途有望な若者を自分の巻き添えにして死なせてしまうのだけは絶対に避けたい。だけど、情けないことに自分にはどうすることも出来ない。
 ――逃げて、キョウスケ、逃げなさい!!
 思いが言葉にならない。
 どぱん、と鉄の扉がひしゃげて突破された音がした。そして、がしゃりと、金属製の物が地を踏む音。追い詰められた時に屋上に逃げてしまうのは、果たして人間の心理なのか。かと言っても目の前で泣き続ける部下は人間ではないのだが。
 しかし、建物の外に逃げずにいたことだけは賞賛に値する。民間人を巻き込むことだけはどうしても避けなければならないことだった。重傷を負ったリリカを抱えてここまで逃げてこられただけでも大したものか。
 がしゃり、がしゃりと、“女だったもの”が近づいてくる。その目にあたるものでリリカとキョウスケを見ている。思えばどこに逃げたとしても、この機械の女のサーチアイで簡単に見つけられていたかもしれない。
 もう駄目だと思った。武器はない。リリカの持っている拳銃は弾切れ。というかそもそも機械の女に鉛玉など元より効かない。キョウスケの腰の拳銃もまた然り。機械の女から奪ったジップ・ガンは、リリカが撃っても何の効果もなかった。命中の手応えはあったのに、女の装甲に傷一つ与えられない、対人間用銃器だった。それもリリカが機械の女に斬られ重傷を負ったあのフロアに置いて来たため、ここにはもうないのだが。
 機械の女がリリカとキョウスケの前に立った。その手をかざす。武器化はもう解く気がないのか、それは未だ凶悪な刃のままだった。赤黒いべっとりとした付着物は、リリカの血だ。
「死、ネ」
 裂けた口が笑みのようなものを形作る。
 刃を振り上げた。
 リリカは己の死を覚悟した。
 瞬間。リリカの視界が暗転した。いや、視界にはっきりと物を捉えることが出来なくなった。次いで、激しい浮遊感。そして部下の絶叫を聞いた後、ついに意識が途切れた。

 ふいに夢と現実との区別がつかない時がある。そんな時、ゆっくりと記憶を辿ってみる。そして改めて夢だったのだと理解し、安堵するのだ。夢でよかったと。もう怖い思いをしなくて良いのだと。だから、今回もそうする。記憶を辿ってみた。少しだけ、身じろぎをする。
「ぅぐ……っ!!」
 腹に激痛が走った瞬間、全ては現実だったのだと思い知らされた。
「あ、あたし……」
 助かっている。生きている。病院のベッドに寝ている。記憶が少しずつ戻ってきた。そうだ。確か重傷を負って死にかけていたはず。ベッド脇のカレンダーを見る。その日から五日が過ぎていた。
「キョウスケ、は?」
 何故助かったのかは分からないが、自分がこうして死んではいないということは、部下も無事だということか。とにかく情報が欲しい。リリカはベッドを降りた。腹を抉る激痛は、歯を食いしばって耐えた。腕を刺す点滴の軸ごとひっ掴み、部屋を飛び出した。
「わっ!」
「きゃあっ!」
 誰かとぶつかりそうになった。その相手に慌てて謝る。
「リリカさん!気が付かれたんですね!」
 同じ部署の後輩だった。誰かの見舞いにでも来たのだろう。花を入れた花瓶を持っている。くりくりとした特徴的な丸い目は、嬉しそうに見開かれていた。
「ねぇ、キョウスケ知らない?あたしがここにいるってことは、キョウスケもいるんでしょう?!」
「え、あ、う……」
「教えて!どこにいるのっ!」
「あ、あ」
「あ……、ごめんなさい」
 つい取り調べの時の剣幕で詰め寄ってしまった。後輩は壁際まで追いやられ、恐縮しきっていた。
「落ち着いて下さい。キョウスケさんなら、R棟六階に入院しておられます」
 やっぱり無事だったのだ。しかし、Rは危険度の高い特殊患者しか入れない筈。ざわつく胸を抑え、後輩に礼を言うと、リリカは歩き出した。

 どうして自分が助かったのか。部下があの状況をどうやって切り抜けたのか。分からない点は山ほどあるが、今はどうだっていい。とにかく部下の顔が見たかった。引きずる足を懸命に前に出し、やっとのことで辿り着く。ここまで来れたことだけでも奇跡だと思った。
 名前を確認する。間違いない。中から電子機器の嫌な音がする。服の胸元をぎゅっと握りしめ、入った。
「キョウスケ?」
「えっ!リリカさんっ?!」
 聞き慣れた声でそう名を読んだ部下は、首だけを僅かに動かしてリリカを見た。もとい、首だけしか動かせずにいた。首から下の体は、ベッドに固定され、幾本ものケーブルで電子機器に繋がれていたのだ。
 リリカはほっとした。ああ、いる。生きてる。いつもみたいにあたしの前で情けない顔してる。少し泣きそうになるのを堪えながら、意外と元気そうな部下の様子に軽口を叩こうとした。が、そうすることが出来なかった。ベッドに横たわる部下が、目からぼろぼろと涙を流し始めたのだ。
「ううう、よかった、リリカさん、気が付いたんですね、もう、死んじゃったら本当にどうしようかと思って、俺、ううう……」
「ちょ、ちょっと!泣かないでよ、男の子でしょ?あたしならほら!全然大丈夫だから!ね?」
 からかうどころか慰める羽目になってしまう。大丈夫だと言いながら患部は相当痛いのだが、それも我慢しなければならなくなってしまった。
「それよりあんた、そんなに冷却水垂れ流したらオーバーヒートするわよ?」
「そうなんです。俺、オーバーヒートしちゃって、今精密検査中なんです。検査入院ッス」
 ということは、オーバーヒートしたのは明らかに五日前だろう。
「というか、あたし達、何で無事なの?あの日どうなったの?」
 キョウスケが考え込むような顔つきになる。記憶を探っているようだ。
「うーん、何か知らないんですけど、俺、あいつやっつけたみたいなんです。全然覚えてないんですけど、記録が残ってたみたいなんッス。記録は残ってるのに覚えてないなんて、ガタですかね?」
 ガタだけでは片付けられない何かが、キョウスケに起きているような気がする。今まで力が強いことだけで重い荷物を持つ時ぐらいしか己の力を使おうとしなかった青年が、リリカに重傷を負わせた“機械の女”をやっつけたというのだ。
 ぶるりと悪寒がして、思わずリリカは両肩を抱きしめる。
 ――あたしは、この子の変化を恐れてる……?
「リリカさん?寒いですか?」
 キョウスケがリリカを見ていた。そのきょとんとした目に、自然と肩の力が抜けるのを感じた。
 ひとまず考えるのは後にしよう。生きていれば嫌でも仕事は出来るのだから。
「お礼、まだ言ってなかったわよね。ありがとう、キョウスケ。助けてくれて」
「何言ってるんですか。俺がリリカさんを守るのは、当たり前ですよ!……の割に、痛い思いさせちゃったんですけど……」
 照れくさそうな表情を浮かべ、首をリリカと反対の方向へと向けた。その頬へそっと手を添える。キョウスケの顔がぴくりと動いた。何だか皮膚が徐々に熱をもってきてるような気がする。
「でもちゃんと助けてくれたじゃない。あんたはあたしの命の恩人よ?」
「やめてくださいよ。褒められすぎて何だか気持ち悪いです」
「生意気」
 添えた手で頬をつねってやった。わざとらしい痛そうな顔をした。
 事件の事後処理は手付かず。考えることも山積み。それも生きていればこそだと思うと嬉しい悲鳴だとでも言うべきか。それでも先決すべきはまず怪我を治して体力を回復させること。
 しかしリリカは気づいていた。それが、やがて来るであろう受け入れたくない未来への逃避でしかないことを。
 ――仕方ないじゃない。あたしだってそんなに強くないのよ……。
 ベッド上で無邪気に笑う部下の顔を見つめながら、胸中でこっそりと溜め息を吐いた。



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