*tales of…*
a pure vergin(セネル×クロエ)
きっと、新しい思い出を刻んでいける。
【a pure virgin】
物音が聞こえた。僅かな期待と共に、セネル・クーリッジは後ろを振り返る。しかしそれは彼が捜していたものではなく、こちらに尻を向け慌てて逃げ出す小動物の姿だった。
一目散に逃げてゆくその後ろ姿は、セネルの胸中をどうしようもなく不安にさせた。ここがいつ魔物が出るとも限らない環境なのだという事を改めて思い出す。“彼女”がその辺の魔物などに簡単にやられる程“ひ弱”では無い事は、今まで背を預け合い共に闘ってきて、その実力を十分過ぎる程セネルは知っている。なのにこんなにも不安になるのは、少し前から降り出したこの雨の所為だろうか。
目にかかる雫をぐいと手の甲で拭うと、いっそ鬱陶しい程の曇天の下、再度きょろきょろと辺りを見渡す。
先程小動物が逃げていった方向に一瞬何かが見えた様な気がして目を窄めた。雨と雨と緑の隙間に“彼女”を特徴づける青が見えて、一つ大きく安堵の溜息を吐いた。
ぱさりと頭上の帽子を落としてしまい、クロエ・ヴァレンスは腰を屈めた。素直に重力に従って落下したトレードマークとも言える大きな青い帽子を拾うと、少し上を向き過ぎたか、と自身を揶揄する。こびり付いた草葉を取り除き、手ではたいて泥を払う。一通り綺麗になった事を確認すると、両手に抱えた。元から濡れていたと言っても、更に濡れそぼってぐしょぐしょになってしまった物を頭に被る気にはなれなかった。
解放された頭皮を打つ雨の感触が何だかくすぐったくなって、クロエはまた空を仰いだ。
雨は嫌いだった。というより、水が基本的にクロエは苦手だった。剣の稽古の為におろそかになってしまった(と言えば言い訳になるのかもしれないが)幼少の頃からの“弱点”や、雨が降る度に嫌な出来事を思い出させられるといった事が、彼女が水を嫌がる理由に当たる。
自分が雨が嫌いなのだという事を知る者が今の自分を見れば、きっと不審に思うだろうなと、ぼんやりと考える。何故なら、雨が降ってきたから雨宿りをしようと適当な洞窟に皆で避難したのに、彼女は今、一人そこを抜け出しこんなにも雨に濡れている。
目を瞑り雨が顔を濡らすままにまかせていると、ぱしゃっと水溜りを靴で割る音がクロエの鼓膜を叩いた。
「風邪、引くぞ」
「何だ、心配してくれるのか?」
怒る訳でも呆れる訳でも無く普段となんら変わりない気遣いの言葉に、クロエは少し皮肉っぽくそう言った。
「心配くらい、誰だってするだろ」
その言葉に何故だか安堵を覚え、少し笑ってそうか、と返す。ああ、迎えに来てくれたのが彼で良かったと、心から感じた。
「…雨。苦手なんじゃなかったのか?」
「前はな」
「そう…か」
そう。前は嫌で嫌で嫌で仕方無かった。雨が降る度に一歩も部屋から出ず、蹲り、見たくないから目を瞑り、聞きたくないから耳を塞いだ。
なのに、今こうして雨に打たれる事が出来るのは“あの日”があったから。雨は綺麗なのだと、雨は気持ち良いのだと貴方が教えてくれたからこうしていられる事が出来る。
貴方が私の考えを変えてくれたから、こうしていられる。いや、貴方でないと雨は嫌いなままだったかもしれない。きっとそうなのだろう。
「私は…、いや、私達は、あまりにも色々な事を知らずにここまで来てしまったのかもしれないな」
そう言った彼女の表情がとても淋しそうで、でも綺麗だと、セネルは思った。
およそ十代の少女が送る子供時代にしては、クロエのそれは過酷過ぎた。
騎士という物をセネルはよく知らない。だが、あの下卑た騎士団長とやらに何を言われても決して意見せず、頭さえも上げようとしなかった彼女を見て、その世界がどれ程厳しい物なのかは容易に想像出来た。
だから、騎士など辞めてしまえばいいのにと、セネルは思う。彼女の、花の様に可愛い笑顔をセネルは知っている。クロエには笑って居て欲しいと思うのだ。
──いや、これからたくさん笑えばいい。きっと新しい思い出も楽しい思い出も、たくさん刻んでいける。彼女が雨を、心地良いと感じる事が出来た様に──。
「これから知っていけばいいさ」
そう言うとクロエはうんとだけ返した。
肌を打つ雨が痛みを伴い、雨脚が強くなって来たのだと判る。
「そろそろ戻ろう。ほんとに俺たち、風邪引いちまう」
「ああ」
ずぶ濡れの身体は気持ち悪いけど、肌を刺す雨は心地良い。雨が自分を叩く度に、自分はここに居るんだと、感じる事が出来るから。
ゆっくりと、それから小走りに。二人は仲間達の待つ場所へと向かった。
【END】
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