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*tales of…*
automatic recess(ユーリ×エステル)
【automatic recess】


 長い漆黒の髪が風を受けて抵抗する様子もなくなびき、流れる。その、髪を風に流されるがままに流している青年が、何かの反応を示すことはない。青年は船体の内壁に背中を預け、目を閉じていた。ユーリ・ローウェルは眠っていた。その傍に佇む、甲板にいる人間でユーリ以外のただ一人の人物が無防備に寝こけている青年をじっと見つめていた。
「………」
 少女の目は驚きに見開かれていた。ユーリが、恐らく少女の知る中で熟睡というものと縁遠かった青年が、少女の気配に気付く様子もなく無防備に寝息をたてている。これほど近づいても目を覚まさないとは。よっぽど疲れているのだろうか。否、安心しているのだろう。街の宿でも広野の野宿でも、自分や仲間に迫る危険にいち早く察知してそれを知らせ、守ってくれるユーリ。ちゃんと眠れているのだろうか、そういった心配を顔に出すだけで、“大丈夫だよ”と笑みを浮かべて安心させてくれるユーリ。空は地上に比べて幾らか直接的な身の危険も少ない。本能的に彼は安心しているのかもしれない。そしてそれが青年を眠りの淵へと誘ったのかもしれない。
 それにしても、風が強い。夜半を過ぎていることもあって、思わず身震いしてしまうほどの冷たさを含んでいる。エステルは風にかき乱される己の髪を手で押さえた。
「こんなところで寝ていたら風邪をひきますよ、ユーリ」
 そう言って青年を起こしてしまうのは簡単だった。だが、それを良しとしない自分がいる。ユーリの体のことを考えれば、すぐにでも起こして部屋に連れていくのが妥当だろう。でも、せっかく熟睡に入っているユーリを起こしてよいものだろうか、もう少し寝かせておいてあげたい。そういった気持ちもあった。せめて自分が今、毛布の一枚でも持ってきていれば。そう悔やんだ彼女がすぐにそうしないことには理由があった。
 ――わたしは最低です。
 他者に対して常に献身的な姫君は、すでに気付いていたのだ。己の内の暗い部分に。
 どうすればよいものかと葛藤が始まってから三十分。いまだにエステルはその場に立ち尽くしていた。結局エステルは何もしなかった。それは、ユーリをそのまま寝かせておいてあげることを選択したように見えるかもしれない。でもそうじゃなかった。エステルが選んだのは、ユーリの為ではなく他ならぬエステル自身の欲望の為に何もしないことだった。
 ――わたしは最低です……。
 そう自身を罵りつつも、静かに寝息を立てる青年から目が離せない。風に吹かれる漆黒の髪。伏せられた端正な顔。閉じられた少し薄い目蓋。エステルの心臓の鼓動のリズムが早くなる。喉の辺りがぎゅっと収縮したように痛くなる。早く起こすなり毛布をかけてやるなり、何かしてやらないといけない。でも、見ていたい。ずっと見ていたい。
 とうとうエステルはその場に座り込んでしまう。近くで見ると、意外に睫が長いことに気付く。と、その時(バウルが針路を少し曲げたのだろう)船体が緩やかに右に傾いた。
「っ!!」
 それは、意識のある人間にとっては何の問題もない揺れだった。しかしそれが意識を放り出して寝こけている人間なら揺れに完全に翻弄されるがままで。案の定、慣性の法則に従ってユーリの体はず
るずると少しずつ傾き出した。
 咄嗟に腕を出して彼の体を支えようとするも、そこはやはり体格の差。上半身といえども男性一人の体をエステルの細腕で支えようとすること事態が無理な話であり、当然のごとくユーリの体の下敷きになってしまった。脱出しようとユーリの体を退かそうとすれば、目を覚ましてしまうかもしれないという不安が過ぎる。否、もうこのような状況になってはそんなことを言っている場合じゃないのかもしれない。そんなことを考えながらも、しかしエステルには身動き一つ取ることが出来ない。
 ――何をしているんでしょう、私は……。
 何だか自分がとてつもなく惨めで情けなくなってきて、溜め息が漏れた。やはり間違っていたのだ。他人の寝顔を盗み見るなどという愚かなことをするから、こういう目に遭うのだ。後悔は尽きず自分への嫌悪感は果てしない。かと言って、いつまでもこのような状態のままでいいはずがない。
「……あのぅ、ユーリ、起きてます……?」
 恐る恐る、尋ねてみる。
「……起きてねぇな」
 思いもかけない返事にエステルの目が丸く見開かれた。
「ユーリ!起きてたんです?!――きゃっ!!」
 青年の体重下で身動きの取れない体が、何故か窮屈に締め付けられる。二人して倒れ込んだままユーリが、エステルの体を抱きしめていた。
「ゆ、ゆ、ユーリ?!あの、あの……」
「寒みぃ……」
 そう言っては小動物のようにおろおろと狼狽えるエステルを無視してより一層きつく抱きしめてくる。心臓が痛いほど早い。破裂してしまいそうなほどに苦しい。首筋に彼の鼻が触れる。息がかかる。もういっそのこと気を失ってしまいたい、そう思い目をぎゅっと瞑った時。首の後ろで青年が寝苦しそうに唸っているのが聞こえた。途端に頭が冷え、冷静な思考がようやくその帰路に着いた。もしかすると――。
「ユーリ、寝ぼけてます?」
「……何のことだよ。だから……割烹着だけは着たくねえって言ってんだろ……」
「……はい?」
「だから嫌なんだよ。ギャルソンなら……まだマシ……」
「あのっ、ユーリ?」
「は……?」
 声のトーンでユーリが完全に覚醒したのが分かった。力の抜けた腕から抜け出して振り返る。夜の空のような紫紺の瞳が、怪訝そうに、だがしっかりとエステルを見ていた。
「……エステル、何してんだ……?」
 ぎくりとエステルの背中が強張る。何をどう言えばいいのか分からない。許されないことをしてしまったことに対して言い訳をすることもまた許されない。かと言って全てを白状してしまう勇気もない。しゅんとうなだれて口を噤んでしまったエステルを、ユーリはまだ眠たそうな目で見つめた。
「……もしかしてオレ、襲われてんのか?」
「違いますっ!!」
 思わず叫んでしまった。直後に自分の中の冷静な部分が罵倒する。顔が熱いのはユーリに言われた言葉のせいではない。清廉潔白を気取ることこそおこがましい。無防備に寝息を立てるユーリの傍に跪いた時、何を考えたか。伏せられた目蓋を覗き込んだ時、一体何をしようとしたか。
 ますます頬が熱くなり、俯いてしまう。それを別の意味で捉えたらしいユーリは、冗談だよ、と笑った。
 ――違ってなんかいない……。わたしは最低なことをしたのに……。
「……まぁいいや。もうちょっと寝るわ」
 そう言ってユーリが再びごろりと横になる。慌ててエステルは顔を上げた。
「だ、駄目ですよ、ユーリ。ちゃんと部屋で――」
「エステル。寒みぃからここにいてくれよ。風避けぐらいにはなんだろ」
「な……っ」
「おやすみ」
 頑としてここから動こうとしないだろう意志が見えた気がして、それきりエステルもユーリも言葉を紡ぐことはなくなった。エステルは言うべき言葉が見つからずに。ユーリはこれ以上言うべきことは無いという風に。
 エステルは思う。こうして自分が居るのに寝ようとしているのは、もしかして自分の存在を許してくれたのではないかと。人前で熟睡することのない青年が安眠の中にいられたのは、自分の存在が僅かでも昇華されたのではないかと。それは酷く自分本位な考え方だが、でもこうして寝ようとしているユーリの隣に自分が居られることがとても嬉しいのもまた確かなことで。
 可能性は可能性でしかなく、それは祈りや願いに似たものなのかもしれない。
「ユーリはまだ寝ぼけてます……?」
 眠っていたらと思って小さな声で囁くと、漆黒の後頭部が、かもな、と呟いた。
 ユーリが起きたら、後できちんと謝ろう。
 ――それまでは……。
 夜の風から意識を背けるような気持ちでエステルはぎゅっと膝を抱いた。





ここまで読んでくださってありがとうございます。

普段なかなか見られないものがあるとここぞとばかりに見たくなるというか、ユーリだって人間ですから、あまりにも寝てなかったら爆睡してしまうわけで。でもエステルはどんな場所でもユーリやカロルたちがいてくれれば爆睡して更にちょっとほっぺをつねったぐらいでは起きないんでしょうね。ユーリはそんなエステルで遊んでたらいいですね。

爆睡するユーリの隣にいるというのは、自分の車の運転で助手席に座った誰かを寝かせることより遥かに難しいんですよ、きっと。



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あきゅろす。
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