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*tales of…*
cicada(ジュード&エル)

【cicada】


 珍しく聞き慣れない音で目が覚めた。意識が現実へじわじわと浮上し、靄がかっていた思考がクリアになるまでしばらく、テーブルの上の腕を枕にした姿勢のままジュードは半開きの眼で虚空を見つめる。視界に映るのは薄暗くて狭い研究室の壁ではなく、生活感のあまり感じられないマンションの壁。のろのろと上体を起こすと己の体の下から皺になった紙がはらりと落ちて、ジュードは顔をしかめてそれを拾う。座ったままの姿勢で寝ていたものだから、背中がぱきりと鳴った。紙の皺を手で伸ばしながら、しかし意識が落ちる直前まで書き込んでいた精霊暗号の解読の為の数式は、どこまで解いたかもはや自分でも分からず、最初からやり直しだということだけはっきりと認識し、ひとつ溜め息を吐く。食卓用のテーブルに散乱した紙、積み上げられた参考書物、それらに幅を取られて隅っこの方へ押しやられた置き時計を手に取り今現在の時間と眠っていた時間を確認して再び作業に戻ろうとした時、
「……!」
 また、その音が聞こえた。
 作業中に寝てしまった時に起こされるのは決まって、狭くなった机から自分の腕に押しやられて落ちる参考書物の、どさりという音。しかし今日は違った。違う音で起こされた。
 それが何なのか分かっていた。
 ジュードの胸の辺りがぎゅっと収縮する。足早に、しかし足音は立てずに音のする方へ向かう。
 音は声だった。
「う、ひぐ……っ」
 密かに、すすり泣くエルの、
声だった。
 エルは眠っていた。以前に彼女の相棒が使用していただろう、そのベッドで。小さな体を出来る限り丸めて、恐ろしい何かから身を守るように小さくなって寝ていた。寝ながらも彼女のふっくらとした頬は涙で濡れていた。その見ていてあまりに悲しい表情にジュードの胸がまたしても傷んだ。
 白衣の袖で、そっと涙を拭ってやる。起こそうかどうか逡巡して少女の足下に丸まった毛布をかけてやり、やはり退室しようとしたところで少女の寝言が聞こえた。
「いかないで……」
 はっとなって振り返る。
 泣き声がジュードの耳を貫いた。
「行っちゃやだあ……、ルドガー……」
「エル」
「うっ、うぅ……」
「エル?」
 ベッドに腰掛け、エルの肩を揺する。何度か揺さぶると、エルの目がうっすらと開き、焦点が定まってはっきりとジュードを映す。頭を巡らせカーテンの向こうの窓が朝日を捉えていないことが判ると、エルは自分が何故起こされたのかを瞬時に理解して、服の袖でさっと濡れた目と頬を拭った。
「どうしたの、ジュード。まだ朝じゃないよ?」
 本当に、エルは聡い。
 賢さ故に辛いときに甘えることを自分に許せない子供。
「お腹空いちゃったからスープでも作ろうと思って。エルも飲む?」
 エルは一瞬きょとんとなって、大きな瞳でジュードを見て、
「仕方ないから付き合ってあげる!」
 そう言ったので、ジュードは微笑んだ。

 九人でカナンの地へ乗り込んで十人で戻るはずが、エルを救出したのに戻ってきた人数は依然九人。マクスバードへの帰路に着く。それから、七日が経った。
 借主を永遠に喪ったマンションフレール三階の一室。それをすぐに大家に返すことをエルは嫌がった。カラハ・シャールのシャール邸でエルを一旦引き取ってもらうというパーティーの満場一致の意見も、実際引き取るといってくれたドロッセル・K・シャールの申し出にも、エルは難色を示す。
「行くから、エリーゼの言うところに、エル、ちゃんと行くから。……でも、もうちょっとだけルドガーのマンションに居させて! ……お願い、します………」
 泣かないと決めた少女の、目蓋の上で今にもこぼれ落ちそうなくらいにふるふると揺れる涙を前にして、無理矢理引き摺っていけるはずもなく、エルはこうしてルドガーの居ないマンションで寝起きをしている。まさか八歳の少女を一人きりで暮らさせることも出来ず、パーティーの仲間達は交代でここへ訪れている。それも、エリーゼは通学の為、ローエンは公務で両国を行ったり来たり、アルヴィンに至っては元より根無しの傾向にあり、よって、フットワークや自身の寝食に多少の融通の利くレイアや、ジュードの訪問が定着してしまう。
「いやー、締め切り前だと逆にこっちが助かるよー」
 気を使うエルに、レイアは明るくそう言ってはいるが、実際のところ、この生活をいつまでも続ける訳にいかないのは事実。そのことはエルも充分に分かってはいる様子。
 それでもジュードは、付き合える限りはエルに付き合うつもりだった。
 カナンの地から戻り、マクスバードに降り立ったときのエルの表情が脳裏に焼き付いている。
 ルドガーの前で、彼に心配をかけまいと涙を流しながらも泣かないと言った彼女。自身の決意をルドガーに力強く宣言した彼女。ルドガーと同じ色の瞳に宿る彼女の未来。
 しかし、ルドガー抜きでカナンの地から戻るにつれ、少女の瞳に哀しみや淋しさが拡がっていく。大切な人と離れて平気でいられる訳がない。その気持ちは、痛いくらいジュードには理解できるから。

「はい、どうぞ」
 コトリ、と、湯気の立つスープをエルの前に置いてやる。書物や書類の退けられ、スープとスプーンしかないテーブルについたエルは、湯気をじっと見つめている。ジュードも自分の分を皿によそうと、エルの向かい側の椅子に腰を降ろした。
「ルドガーやミラさんみたいに美味しいかどうか分からないけど」
 そう言って一口、含む。そしてやはりと確信。何かが違う。しかしそれが何なのかは永遠に知ることは出来ない。
「……いただきます」
 呟いてスプーンで少し掬う。ふうふうと息をかけて冷ましてからすすった。気にはなりつつも、ジュードもそ知らぬ顔で飲み進める。
「ジュードのスープもそこそこおいしいよ」
 そう言って笑ってみせたエルの物言いが、あまりにも彼女らしくて、ジュードは苦笑しながら、ありがとうと返した。
 それから二人して黙々と飲んだ。自分の皿が空になってから、エルのスープがそれほど進んでいないことに気付く。遅かった夕飯からおよそ五時間ほど経ってはいるが、味云々よりも、それほど彼女が空腹ではなかったのなら、完食出来ないのも無理はない。夕飯の量としては、八歳の女の子はこれだけしか食べないのかと怪訝に思うほどだったが、そういうものなのだろうと思うより他にあるとしたら、可能性はやはりひとつしかない。
 かちゃり、と半分ほど中身の残っている皿にスプーンを置き、両手を膝に乗せたまま、エルは黙してしまった。数秒の静寂の後、ぽつりと言った。
「ジュードは、さみしくないの?」
 エルの瞳は皿に残るスープを映したままだ。ジュードはエルの言葉の続きを待った。
「ルドガー、いないんだよ? もうずっと会えないんだよ?」
 ジュードはエルを見つめる。
 エルの視線はスープ皿に固定されている。
「ルドガー、死んじゃったんだよ?」
 言葉に涙が混じる。
「エルのーー」
「違うよ」
「違わない! ほんとならエルがいなくなるはずだったのに、ルドガーがーー」
「エル」
「!」
 ぽたっ。
 肩をびくつかせた震動で、溜まっていた涙がスープに落ちた。やっと顔を上げたエルが、ジュードを見た。ジュードもエルを真っ直ぐに見る。気休めや慰めは返って心を傷付ける。しかし、エルの心を繋ぎ止める必要がある。彼女は今、行ってはならないところへ行こうとしている。
 八歳の女の子に宛てたものではなく、一人の人間、エル・メル・マータへ。伝えたい思いの全てを、ジュードは静かに、ゆっくりと、言葉にしてゆく。
「淋しいよ。僕らの大切な仲間だったルドガーに会えないのは、僕だってーー……ううん。皆だって淋しいんだ」
 ルドガーは自分達の心の中で生きてる、なんて安い言葉も必要ない。会えない。見れない。喋れない。触れられない。居ないものは、居ない。
「エルのせいなんかじゃない。ルドガーが、君を選んだんだ。どの世界の誰でもない、今、この世界にいる、エル・メル・マータを。君の命はルドガーの願いなんだ。だからーー」
 エルの前にはエルの新しい世界がある。
「前を向いて。ルドガーに胸を張れるように、これからエルの未来を生きるんだ」
 まるで悪いことをした子どもが大人に諭される時のような表情のエルには、きっと自分がどうすればいいのかすでに分かっていたのだろう。エルは聡い。だからといって、自分の感情のすべてを抑え込むには彼女は幼すぎた。しかし、ジュードはそれでいいと思う。無理に悲しまなくてもいい。会いたいのに会えないのは、本当に辛いことなのだから。
 感情が溢れる。溢れて宝石のように光る涙の粒が、一粒、また一粒とスープの中へ落ちていく。自分の想いを吐き出すかのように泣きじゃくるエルを、ジュードは静かに見守っていた。

 泣き疲れて眠ってしまったエルを、ベッドへ静かに横たえる。それでも起きる気配がなかったので、胸を撫で下ろした。ジュードはエルの傍らに膝をついて、少女の寝顔を見つめた。思えばなんという境遇でいたのか。父を喪い、分史世界のミラを喪い、そして、相棒であるルドガーを喪った。まだ八歳にして、彼女の境遇はあまりにも不憫過ぎた。
 それでも、彼女は生きなければならない。彼女を愛した皆が、彼女の未来を願っている。
「大丈夫。僕たちはいなくなったりしないよ」
 エルの前髪を撫でる。小さな額から、穏やかな寝息から、確かにここにある、守られた命を感じた。
 会いたいのに会えないのは、本当に辛い。大切な人と離れて平気でいられる訳がない。本当は会いたくて、会いたくてたまらない。
「……エルが頑張ってるのに、僕がこんなこと思ってちゃ、いけないよね」
 成すべきことがある。目指すべき世界がある。
 でも……、頑張るだけは辛いから。
「たまには、焦がれてもいいよね? ……君に……」
 胸が押し潰されそうなほどの寂寥に、目をぎゅっと瞑って耐える。目を開ければ、エルの寝顔。その小さな姿に奮い起こされながら、ジュードは今度こそ寝室を後にした。




ここまで読んでくださってありがとうございます。

結局の自己補完です。

エルに言ったことは半分くらい自分に言い聞かせてるようなもの。

なんかだんだん、ジュードはミラとの出合いによって本当の自分がやりたいことに出会えた、ミラ→恋慕ではなく、ミラ→感謝、敬愛とかに思えてきた。元からそうだったんですかね。ジュミラ脳には辛い。じゃあ、誰にでもしないよ? はどういう意味。

だから、誰もいないところでこっそ淋しがってたらいい。



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