*15*
iris bliss(ユリエス)
【iris bliss】
すぐ間近にある整った顔。閉じ伏せられた瞼。ゆっくりと開く。紫紺色の瞳。そこに映る自分の顔。それが、この上ないほどに戸惑っている。
戸惑い。そう。自分は戸惑っている。
「……っ!」
お互いの熱い吐息も、彼の唇の感触も、これがどのくらいの時間を経て、どのような仕草で終わるのかも、今まで幾数回と重ねてきた経験によって、エステルにはもうすっかり分かっているというのに、未だに慣れはしない。物事を把握するということは、イコール、物事に慣れるということではない。
特に、彼とのキスは。
心臓の鼓動が痛いくらいに速い。
彼のこと以外――いや、下手をすれば彼のことさえも。アルコールが回ったみたいに思考に靄がかかったように何も考えられない。
かかる吐息は温かく、食むように触れる唇は心地よく。今のエステルにはただただ、それだけ。
――ユーリ……!
嬉しさと恥ずかしさがせめぎあって胸の内で暴れている。うっすらと目を開けると、ユーリの瞳と目があった。不意に、というよりはずっとエステルを見ていたような彼の雰囲気。目だけでニヤリと笑った。エステルの顔が更に熱を増した。
唇と唇が離れる。空気を感じた。宿屋の一室だというのに、外気混じりの冷気が熱を冷やしていくように思えた。突如として戻ってきた現実。顔全体がはっきりと見えるようになったことで沸き上がる、先ほどとはまた違った羞恥心。
この、“直後の沈黙”も未だに慣れたものではなかった。
視線を感じる。
顔を上げる。
ユーリが口許にニヤニヤと笑みを浮かべてエステルを眺めている。まるでエステルが困っているのを見て楽しんでいるように思える。そんないじめっ子よろしく余裕めいた態度に、彼との幸せな時間のはずが、何だか勝負事に負けたような気持ちになってきて、エステルは頬を膨らませる。
――ずるいです。ユーリばかり……。
とはいってもエステルが勝手に恥ずかしがっているだけであって、誰が悪いという訳ではないのだが、それにしても、悔しいものは悔しい。
精一杯の抗議の気持ちを眼差しに込めて男を見上げると、そんなものはどこ吹く風といった様子で男は左手をエステルへと伸ばしてくる。桃色の髪の中へと差し込む。下からかき上げて、いく束かを指へくるくると巻き付ける。その度に彼の指の節であったり、骨ばったごつごつした部分がエステルの首や頬に触れてくすぐったいったらない。そうしてエステルが身をよじったりするものだから、ユーリもどこか面白がって何度もエステルの髪をいじるのだ。
「……っ!ユーリ……!」
瞳に力を込めてついにそう呼ぶと、“何だ?”と、なんともとぼけた返事。それにもめげずにエステルはきちんとユーリに向き直った。
「駄目です、ユーリ!ちゃんと傷を治療させてください!」
そもそもの目的はそれだったはずだ。街の結界に入る前の最後の戦闘。そこでユーリは負傷した。戦闘後に治癒術をかけようとしたのを、もう街に着くからとさっさと歩き出してしまい、とりあってはくれなかった。それが、こうして改めて治療の為にエステルがユーリを訪れたのが、何故だかこんなことになっている。
「傷ならもう治ったって。もともとそんな大したもんじゃなかったしさ」
「うそ、うそです!血がたくさん出てたの見えました!」
「血なんか勝手に止まんだよ。もう止まってる」
そう言っては血の固まった痛々しい右手の甲をエステルの顔の前でひらひらと振ってみせた。
「でも……!」
なおも食い下がろうとするエステルに、ユーリはため息。一言“わかった”と呟くと、何が分かったのかエステルへとその端正な顔を近付けてくる。思わず身を退こうとするが後ろは既に壁。逃げ道は無い。
ぎゅっと目を瞑る。唇と唇が再び重なった。
離れる。
「んじゃ、エステル。癒してくれ」
「〜〜〜!!」
そしてまた振り出しに戻ってしまった。
終始このペース。ユーリの良いように振り回されている自分。嫌じゃない。嫌ではないが、どことなく――。
――悔しい、です……。
ユーリの口許に笑みが浮かぶ。
そこへ、今度はエステルの方から唇を奪ってやった。
「……!?」
恥ずかしい。恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだが、驚いたように目を丸くするユーリの表情が、超至近距離から見えた。
「ユーリはやっぱり分かってないです。わたしは、こんなにあなたのことを心配しているのに……」
言ってて悲しくなってくる。顔を俯かせる。ユーリの表情こそ見えないが、頭をがしがしと掻く音、それからため息が一つ聴こえた。
「ちっとからかい過ぎたか。悪い。エステル」
「……はい」
気配。感触。髪に触れる。温もり。間接的な温かさ。
「ちゃんと分かってっから。おまえがいつも、どれだけ心配してくれてるのかなんてさ」
「…………」
「けど、本当にかすり傷だから大丈夫だ。それに、もう充分癒してもらったしな。だからほら、笑えって」
そんな風に言われると、もうエステルには何も言えなくなってしまう。
ずるい。この男はいつだってずるい。だけど、それがエステルには愛しくて、嬉しい。この優しいずるさは、きっとユーリの専売特許なのだろう。
だからこそエステルは、こんなにも――、
「大好きです、ユーリ……」
満面に笑みを湛えて、エステルは笑う。
好き。大好き。その気持ちをこの上ないくらいに、込めて。
「………」
笑えと言われたから笑った。なのに、ユーリからのリアクションはない。
不審に思って、男の顔を覗き込む。
「!?」
手で口を塞ぎ、何かを堪えているようの表情。彼の比較的白めの肌は、今は耳まで赤い。
「ユーリ?」
その様子はまるで――、いや、彼に限って。だけどもしかして。
「照れてます……?」
言うやいなや、ふいとそっぽを向く赤い顔。
エステルの口許に笑みが浮かぶ。ちょっとした悪戯心。彼の首元に、えいっとばかりに抱きついた。
「うふふっ!ユーリ、可愛いですっ!」
「な、お……おい!」
――さっきのお返し、です……!
珍しいほどの、彼のうろたえっぷりに、エステルの胸に優越感が沸いてくる。それから、溢れんばかりの愛しさが。
悪戯っぽくて。
ずるくて。
そして、優しくて。
そんな彼を愛しく思えること、それを余すことなくこうしてぶつけられる自分は、きっと幸せなのだろう。
ずっと、こうしていたいと思う。
ずっと、彼の隣に自分は在りたいと願う。
叶うなら、何があっても、彼と。
「ユーリ、知ってます?」
「何を?」
「わたしが、ユーリのことを――」
続きを言うことは叶わなかったが、その言葉を直接受け取ったユーリが、エステルから唇を離して、少女の耳元で、
「知ってるよ」
そう、静かに囁いて、笑ったのだった。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
は、恥ずかしい…!私が恥ずかしいです。ひたすらイチャコラしてる感じに。ユーリってパティのそういう話をスルーしてる割に、いざ誰かとそういう関係になったときには思いっきり甘えてそうな、そんなイメージでした。末永くお幸せに!!
空さま、駄文ですが、捧げさせて下さい。リクエストありがとうございました^^
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