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*15*
retrospection(ユリエス)
【retrospection】


 “一命を取り留める。”という言葉が正に適切だと言えるほどの怪我をした。――らしい。頭にぐるぐる巻きにされた白。包帯。触る。恐怖を感じた。ベッドの上。怪我をした自分。静かな室内。それが現状。痛みはない。だが、何かを考えようとすると包帯の下の傷口に疼くような重い痛みが走る。ぼうっとする頭で、傍らにすがり付いている茶色の髪の少女に、正直に打ち明けた。
「……ここは、どこです?」
「ダングレストの宿よ。あんた、頭に大怪我したの。吐き気とかない?」
 ない、と答えると、少女は心からほっとした表情を浮かべ、良かった、良かったと何度も繰り返した。
「無理しなくていいから。すぐには出発しないし――」
「出発、って、どこへ行くんです? わたしも行くんですか?」
 少女がきょとんとこちらを見た。
「え……? 行くに決まってるじゃない、一体どうしたってのよ、エステル」
「“エス、テル”……。それは、わたしの名前ですか?」
 何も思い出せなかった。
 どうして怪我をしたのかも、ここがどこなのかも、自分が何をしようとしていたのかも、目の前の少女が誰なのかも、自分自身の名前すらも。
「あんた……記憶が……」
 茶色の髪の少女はそれきり言葉に詰まって、その場にくずおれた。

 茶髪の少女はリタと名乗った。リタによると、自分の名前は“エステリーゼ・シデス・ヒュラッセイン”で、“エステル”と呼ばせているらしい。今は旅をしているが、この世界、“テルカ・リュミレース”随一の“帝国”――“ザーフィアス”の次期皇帝候補の一人なのだという。そんな自分が城に居らず、こうして旅に赴いているのも、自分自身で決めた目的、決意があってのことだそうだ。しかし、そういったことの断片的なものさえ何も思い出せない。もどかしく何とも言い難いが、思考を巡らせ思い出そうとすると、傷口に鈍痛が走った。
 ベッドから起きられるようになると、リタ以外の人に会えた。それが、エステルの一緒に旅をしている仲間らしかった。一緒に居てくれる人達は、基本的に皆優しかった。自分がこの人とどんな経緯で一緒に居ることになったのかも分からないが、優しくしてくれるのは嬉しいことだと、素直に思った。
「カロル」
 覚えた名前と顔とを一致させる。
 茶髪の少年。まだ幼くして、ギルド“凛々の明星”の首領を努める少年。
「あ、エステル……」
 一瞬だけ、カロルの顔が強張った。
 どう接すればいいのか分からない、といった表情だった。しかしそれもすぐに消え、少年は明るい声で言った。
「もう起きてて大丈夫なの? お腹空いちゃった? もしかしてトイレとか? あ! ご、ごめん! 女の人に失礼だったよね!」
「ふふ……! カロルって面白い人ですね」
「そ、そうかな。えへへ……」
 茶髪の少女、リタ。エステルの一番の、友達。
 茶髪の少年、カロル。“凛々の明星”の首領。
 真っ白になってしまった頭の中のノートに、しっかりと書き留めていく。
 自分が何者であるかの自覚も亡くし、大切であった筈の旅の目的さえ思い出せないことは、もどかしかった。だけど、エステルにとってはそれよりも何よりも、優しい仲間達のことが思い出せないことが酷く申し訳なかった。エステルを見た仲間達の顔に、強張りや悲痛を浮かべさせてしまうことが辛くて仕方なかった。
 それでも自分には嘆くより他に、自身を責めるより他に、何も無かったのだ。
 あまりゆっくりもしていられないだろうことは、エステルにも分かっていた。しかしそれを顔にも態度にも出すことなく仲間達はエステルの外傷の回復を待ってくれようとしていた。だから、エステルは自分から出発を頼んだ。仲間達は承諾してくれた。依然として何も思い出せないまま、ダングレストを発った。
 一週間が過ぎても、記憶は戻らなかった。

「ユーリさん」
 近付くと、そこに佇んでいた青年はエステルを見た。落ち着いた紫紺色の目だった。
「よう、エステル」
「何してるんです?」
「別に。ただの散歩だ」
 エステルは隣に寄り添った。
 よく“散歩”に出る青年だった。一人になりたいのか、誰かを追いかけているのか、その真意は不明だが、エステルはこの“ユーリ”という青年に、何故だか自分は付いていかねばならないような、そんな気がした。
「訊いてもいいです?」
「ん?」
「わたしは、どうしてユーリさん達と……いいえ、ユーリさんと旅をしてるんですか?」
 ユーリは少しだけ微笑んだ。
「おまえが行きたいって言ったからだよ」
「わたしが……?」
「ああ」
 エステルはユーリを見た。ユーリの紫紺色の目が、静かにエステルを見つめた。
「おまえが、自分で望んだからだ」
 傷口に鈍痛が走った。
 あまりに痛くて、エステルの膝から力が抜けた。咄嗟にユーリがエステルの腕を掴んで支えてくれた。その手の力強さにデジャヴを感じた。急浮上した記憶の欠片を逃さないように必死に手繰り寄せて掘り起こそうとした。が、激しい頭痛がまた脳の彼方に押しやってしまった。
 エステルの目から涙がこぼれた。はらはらと。悔しくて、あまりにも悔しくて。
「エステル、大丈夫か?」
 それを違う風に捉えたユーリが声をかけてくれたが、エステルはゆるゆると頭を振った。
「わたし……思い出さなければいけないのに。他の何を思い出せなくても、あなたの事は、あなたの事だけは思い出さなければいけないのに……!」
 エステルの腕を掴むユーリの手に、ぎゅっと力が込められた。
「……焦んなくてもいいさ。ゆっくり思い出してけばいいんだから」
 まるで、絞り出すような声だった。
 胸が苦しくなった。濡れた瞳でユーリを見上げる。
「嫌です。わたしは……今、思い出したい。あなたの事を、思い出したい……!」
 刹那、すごい力で腕を引っ張られて、何を考える間もなく、エステルはユーリの腕の中へ閉じ込められていた。
「……ったく。おまえは本当に……頑固なお姫様だな……」
「ユーリ、さ――」
「たとえ、おまえがオレのことを思い出せなくても、オレは――」
 その力強さが。肌の温もりが。耳元で聞こえる低い声が。
 戻す。引き戻す。フラッシュバック。エステルの頭のなかで濁流のような記憶の逆流が起きた。
 衝撃。戦闘。旅。仲間。戸惑い。希望。夢。願い。焦燥。出会い。
 黒。紫紺色。ユーリ。ユーリ・ローウェル。“エステル”というあだ名をくれた。外の世界を教えてくれた。いつだって自分を助けてくれた。導いてくれた。エステルの、大切な――。
 ぎゅうっと、黒の背中を抱きしめた。
「ユーリ……、ユーリ!!」
 ユーリが驚いたようにエステルを見た。
「おまえ……記憶が……?」
 エステルはしっかりと頷いてみせた。大粒の涙がぽろりと一粒こぼれた。
「そっか、はは……っ、そっか」
 記憶が溢れ出てくる。戻ってきた。失っていたものが次々と戻ってきた。エステルはそれら全てを大切に迎え入れた。自分の中の大きく空いていた穴が塞がったのを確信した。大いなる安心を得た。
 不意にまた、恐怖を感じた。以前の恐怖は、頭部の怪我が原因で死んでしまっていたら、という恐怖。そして今回は、このままずっとユーリ達のことを忘れたままだったら、という恐怖。どちらもぞっとする。知らずぶるりと震える。ユーリが、どうした?と声をかけてきた。その紫紺色の目を見つめ返してから、エステルは返事の代わりにもう一度、ぎゅっと抱き付いた。ユーリはもう抱きしめてはくれなかったが、エステルの好きにさせくれた。
「……訊いてもいいです?」
 ふと、気になることがあった。
「今度はなんだ?」
「さっき、何を言おうとしてたんですか?」
「…………さっき、って?」
「何か言いかけてたじゃないですか。“おまえがオレのことを思い出せなくても、オレは”って」
「ああ……」
 ユーリの様子がおかしいのは見て取れた。抱き付かれて近いからか、そうじゃないのか原因は分からないが。
「で、その先は何て?」
「ん、あー……、その先はだな……」
「はい」
「忘れた」
「え?」
 明らかに目が泳いでいた。
「忘れちまったよ」
「そんな、ダメです! 思い出してください! って、ユーリ! こっち見てくださいっ」
 記憶がなくとも生きてはいける。しかし記憶がなければ空っぽだ。自分が自分である証。自分がここまで歩いてきた足跡。エステルのユーリ達との、ユーリとの思い出。亡くしてはならない軌跡。
 たとえ時が過ぎて薄れていったとしても、覚えていれば遺すことは出来る。
 ――もう忘れません。
 ――あなたとの思い出が大切だから。あなたが大切だから。
 それは、そのことだけは、大切に自分の記憶の中にしまっておくことにした。



ここまで読んでくださってありがとうございます。

記憶喪失になったエステル、想像しながら書かせていただきました。きっと記憶喪失でもみんな、変わらず接してくれるんだろうな。ただ素直なリタやカロルは顔に出してしまったり。

ユーリはきっと素直じゃないからそんな素振りを全く見せないでも、思うところがあったらいいのにな、と思いました。
駄文ですが、捧げさせてください。リクエストありがとうございました!


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