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彼女の死が齎すもの



彼が嗤つてゐられたのも、其れまでゝある。最初はかうしてせゝら笑つてゐた筈だが、幾分も経てば余裕が無くなつてしまひ、到頭口唇の何一つさへ動かす事の儘ならぬ醜態に陥つた。極めて、己への自尊心が高いものだから、其の様子を感づかせまいと必死である。目前の女はたゞ容貌だけを眺めれば寸分違はぬ緻密な計算で生み出された容貌だと云ふのに、かう眼光鋭く睨み続けられゝば、彼はたちまち不快と畏怖を覚へるのだ。己の眼は動揺して揺れ泳ひではゐないだらうか。其のやうな不安が幾度も彼の躰を駆け巡つた。

「私は、何一つ怒つて等ゐませぬ。」

彼が彼女の口癖である其の言葉を聞くのは、今週に入つて三度目になる。大抵彼女の口は大嘘吐きで、かう云へば必づと云つて良い程彼女の憤りは甚だ溜まつてゐる。常日頃の経験で、其れを─も百も熟知する彼は己の微動だにしない唇を恨めしく思つた。下から彼を見上げる彼女は彼よりも一回りも二回りも小さく、加へて彼よりも一回りも二回りも優しい矮小な存在だらう。丸い怒りに満ちた眼が、なほ彼の切れ長の眼を射抜く。彼はまだ子供であった。其れは、厭くまで彼女にとってゞあり、体躯ばかりはすくすくと育つ彼は生憎精神に於いてのみ未だ幼いやうで、決して子供では無かつた。たゞ、さうして己の躰と心がどんどん不一致してゆく事を彼は危惧してゐた。

「嘘だ。お前は何時もさうして嘘を吐く。」

やをら胃液が込み上げて食道を刺激し体外に排出されるやうに、彼の言葉は仕様がなく堰を切つて飛び出した。當然、彼は己の凝固した唇がそんな口を利くとは思ひも寄らず、思はず上唇と下唇の間に隙間を開けた。微かな隙間から一瞬空気を吸ふと、己の生意気な口振りに下唇を甘く噛み締める。しかし、其れは好機でもあつた。彼女は未だ彼を子供だと思ひ、未だ可愛い弟分ぐらゐにしか考へてをらぬ。彼女の時分の過ぎ去つた思考を打破する為にも、彼には一度くらゐ言ひ負かしてやらうと驕つた気持ちが芽生へてしまつた。

「俺はもう子供じゃねえ。お前の其の微温い保護者意識は要らないんだ。」

肝を据ゑて云つた筈の言葉だが、声帯の震へとは異なり口から出れば瞬く間に情けない、否、粋がつてゐるだけの子供のやうになつてしまつた。今更になつて己の言動の愚かさと陳腐さを恥ぢる彼だが、彼女だけは其の失言も揶揄する事なく逆に真摯に受諾してゐるやうだ。

「…さうですか。分かりました、良いでせう。ですが、私には藍染様より貴方を預かつてゐる義務があるのです。良いですねグリムジョー、貴方が大人でも子供でも貴方は藍染様の物なのです。」

分かつたらもう無茶はお止しなさい。彼女は微笑を湛へてさう云ふと、彼の頭を柔らかく撫でた。またゞ、と彼が彼女の子供扱いに脳内で舌打ちをしたが、最早彼の意思に反して口から言葉が零れるやうな事は無い。

思ひ出した懐かしい昔の記憶に、彼は舌打ちをした。己が破面で在るやうに、彼女も破面で在つた。しかし、彼女は人一倍戦ふ事も何もかもを嫌悪してゐた。あの時は、同じぐらゐの年の何とかと云ふ破面と些か反りが合はず口論になり下種と云ひ傲慢と云はれ互ひに激昂し、遂には喧嘩どころか殺し合ひにまで発展したゞけである。互ひにせゝら笑ふやうなをかしい戦ひだつたのに、彼女は其れすらも咎めた。其れのみにならず、あの時あれだけの剣幕で己を叱り付けたのに、彼女は藍染の命令とあらば有無も云はずに戦場に行つた。さうして、藍染の為に、彼女は戦ひ、一つの戦禍として、敢へ無く亡くなつた。

遠き日の記憶は未だ色鮮やかに頭蓋に焼き付いてゐる。血腥い彼女の姿は、己の鼻腔を焼き脳味噌を溶かし眼球を潰させた。彼女の死が齎すものは、彼女が敬愛した主君への憎しみだけ。夜毎に見る夢に映る彼女は、果たして笑つてゐるのだらうか。







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