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短編
2
僕はその日のうちに巳堂の家へ身柄を移され、拉致された当初とは真逆の待遇を受けた。殴られたり爪を剥がされた時にできた怪我は丁寧に手当てされ、血や汗にまみれた体を風呂で綺麗さっぱり洗い落とすことも許された。
 
食事に至っては好きな物を出前で取ってもいいと言われたが、さすがにこの状況で素直にその誘いに乗る気にもなれず、断ってしまった。

「お腹空いてないのかい? 遠慮しなくたって好きなもの食べていいんだよ」
 
ダイニングの椅子に座らされた僕の向かいで、ニコニコと愛想よく笑う巳堂はテーブルに頬杖をつきながら僕の顔を覗き込んでくる。

「いや、さすがにそれは……こんなに待遇を良くしてくれるってことは、僕に何かさせるつもりなんですか?」
「君は何をさせられると思ってるのかな?」
「ス、スパイ、ですか?」
「スパイねえ。確かにそれもいいけど、でも君向きの仕事じゃないかなあ」
「えっと……じゃあ、帳簿とか書類とかの改ざんですか? 僕ができることなんてそれくらいですし」
「さすが学歴があるとできることが違うね。うちの奴らにも見習わせたいよ。でも、それも違うなあ」
 
意味ありげに笑う巳堂の真意はまるで読めない。でも、ろくでもないことを考えているだろうなというのは本能的に感じ取れた。

「僕に何をさせる気なんですか?」
「その話は後にして、今は何か食べよう。この近所にある店の天丼なんかおいしくておすすめだよ」
「その前に聞かせてください。僕を一体どうする――」
 
何の前触れもなく巳堂の拳がテーブルに叩きつけられた。ドンッと鈍い音がして僕の前に置かれていたマグカップの中のコーヒーが激しく波打つ。

「くだらない話してる暇あったら早いところ何食べたいか決めたらどうかな? 君が暖かい飯恵んでもらえる機会なんて、これから当分ないだろうからさ」
 
巳堂はどこまでも冷ややかな顔をして、抜き身の刃物のような目つきで僕を見つめた。それまでは微塵も表に出さなかった冷酷さが垣間見え、僕は思わず口を閉じ、テーブルの下で震えそうになる手を必死に握りしめていた。
 
やっぱりこの男も他の奴らと一緒でまともじゃない。それどころか相当ヤバい奴だ。僕だって万代さんの隣でこの世界を渡り歩いてきたから、多少なりともそういう人間を見抜く目は持ち合わせている。
 
きっと逆らったら殺される。少なくとも今は絶対服従だ。
 
僕は自分にそう言い聞かせ、必死に声の震えを隠しながら、巳堂の言っていた近所の店の天丼が食べたいと告げた。

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あきゅろす。
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