短編
4
安心しきって無防備に寝顔を晒す一春に、瑛人は内心とても複雑な心境だった。
伊槻の手から逃れ、ようやく安寧を手に入れたことは喜ぶべきことなのかもしれない。
だが瑛人の慕っていた以前の一春は、もうどこにもいないのだ。
その事実が瑛人にはどうしても受け入れ難く、こうなってしまったのは自分のせいだと責めずにはいられなかった。
「……んぅ、瑛人」
ついさっき眠ったとばかり思っていた一春が、急に口を開き瑛人に何か伝えようとしてきた。
瑛人はいつまでも自分の頭にまとわりつく悩みを振り払い、穏やかな口調でどうしたのか聞き返した。
「眠れないんですか? そうだ、音楽でもかけましょうか」
「ううん、その、おしっこ行きたい」
見れば一春は脚をもじもじとさせ、両手で股を押さえていた。
表情からは余裕のなさが見て取れて、このままではまずいと、瑛人はひとまず公衆トイレの近くへ車を止めた。
「大丈夫ですか、まだ我慢できますよね」
「うん、お願い瑛人も一緒についてきて」
瑛人はもちろんだと言って、一春の手を取って車を降りた。
寂れた場所にあるこの公衆トイレは清潔とはほど遠く、蛍光灯は半数が切れていて薄暗かった。
一春は用を足すため恐る恐る中へ入り、瑛人は入り口のあたりに立って誰も来ないか見張っていた。
あたりは人通りなど皆無に等しく、瑛人と一春以外の人間はいない。
瑛人は一春が出てくるまでの間、これからどうするかぼんやり考え事をしていた。すると瑛人の視界の端に、黒い人影のようなものが映りこんだ。
その影はすぐに瑛人の視界から消えたが、瑛人が見逃すはずもなかった。
一体今の正体はなんだったのか、瑛人は確かめに行こうとしたその時、急に背後に何者かの気配がしてくる。
瑛人は虚を突かれ、ゆっくりと後ろの方を振り返った。
「瑛人、誰かとお話してた?」
トイレから出てきた一春は不思議そうにして、入口の前に立つ瑛人に尋ねた。
「いえ、なんでもないです……一春さん、先に車に乗っておいてください。俺は少しやることがあるので、終わったらすぐに来ます」
「えっ、で、でも……」
一人では心細いのか、一春は車の中で待機するのを拒んだ。しかし瑛人は半ば強引に一春を車に乗せると、すぐに戻ると言って無理やり笑みをつくった。
声はほんの少しだが震えていて、笑っていながらも表情は硬く、何かあるのは明白だった。
しかしあたりが暗いせいか、その様子に一春は気づかず瑛人の言葉に素直にうなずくと、大人しく座席に座っていた。
一春は瑛人のことが気になってはいたが、すぐに眠気がさしてきてまぶたは重くのしかかり、意識はどこか遠くへと行ってしまった。
一方瑛人は公衆トイレの裏で、待ち構えていた人物の足元にうずくまり、苦しそうに息を吐いていた。
「よくもやってくれたな、御崎」
恨みがましく吐き捨て、瑛人の腹に三度目になる蹴りを入れたのは、氷のように冷たい目をした伊槻だった。
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