シリーズ
6
用事があると言い残し、雪間は家を出て行ってしまった。突然のことで何があるのか尋ねる暇もなく、取り残された古座は悶々とした気持ちを抱いていた。
雪間の様子がおかしくなったのは、赤尾という男と出会ってからだ。雪間とは旧知の仲であり、また友好的とは言えない関係であることを考えると、どうしても不穏で不確かな想像ばかりが膨れ上がってしまう。
まさかこの外出も赤尾と会うためだろうか、そう思うと古座は居ても立ってもいられなくなり、雪間が出て行った十分後には家を飛び出していた。だが向かった先は雪間の元ではなかった。
いつか来たアパートの前。すすけた白い壁を見上げ、いくつも並ぶ無個性な扉の中から目的の部屋を見つけると、古座は緊張気味にそのドアをノックした。
戸を一枚隔てた向こうから足音がして、気配がすぐそこまでやって来る。おそらく覗き窓を覗いているのだろう。古座は覗き窓に向かって愛想よく笑って見せ、ドアが開くのを待った。
「朝っぱらから何?」
ドアが開くと気だるげで不機嫌そうな鐘辻が古座を出迎えた。
「ちょっと相談っていうか、雪間さんのことで話が……」
「こんなとこで話すのもあれだし、とりあえず中に入って」
雪間の名を聞くなり鐘辻は態度を変え、古座を自室へ迎え入れた。
雪間に強い好意を抱いている鐘辻は、その雪間と親しい仲の古座のことを日頃から気に入ってない様子だった。
だが、雪間への思いが強いからこそ、雪間の名前を出しさえすれば大抵のことには飛びついた。扱いやすいな、と古座は思いながらも鐘辻の後へついて行った。
通されたのは整理整頓の行き届いた居間で、古座はテーブルの前に敷かれた座布団に座るよう促された。
「コーヒー飲む?」
「いらない。それより話なんだけど……」
鐘辻も余計な手間が省けて好都合だったのか、いそいそと古座の向かいに座った。
「秋がどうしたんだ?」
「うん、その……」
古座は言いにくそうにしながらも、赤尾という男のこと、赤尾と雪間が昔一緒に働いていたこと、雪間の様子がおかしいことを事細かに説明した。
古座の説明を聞いた鐘辻は神妙な顔をしながら何やら考え込んでいた。その表情は徐々に暗くなり、目つきは刃よりも鋭くなっていく。
「そうか、秋が昔の男と……」
「違うって! 誰もそんなこと言ってないじゃん!」
何か勘違いし始めた鐘辻に、古座は慌てて訂正を入れた。元ストーカーだけあって、放置すれば事件を起こしかねない。
古座の説得で鐘辻も少しは冷静になったのか、目つきや表情をほんの少し緩め、しばらく考え込むように押し黙っていた。
「……今の話はさ、どれくらいが古座君の想像なの?」
「想像って。まあ、雪間さんの様子がおかしいとかはほとんど憶測だけど」
「ふーん。やっぱりこういうのは本人に直接聞いてみるのが一番だと思うな」
珍しく真っ当な意見を言う鐘辻に、古座はきょとんとしていたが、すぐに首を横に振ってそれは駄目だと主張した。
普段なら雪間に対してどんな失礼なことでも言ってのける古座だが、この件はあまり踏み込んではならないような、一種のタブーめいたものを感じていた。それでも雪間のことは気になって仕方なく、煮え切らない態度ばかりを取る。
そのうち業を煮やした鐘辻は、きっぱりと古座へ言い放った。
「君が聞かないんなら俺が秋にわけを聞いてやる。もしも赤尾って奴が原因だったらそいつを潰してやる。これでいいだろ?」
「よくねえ! って何携帯出してんの?」
「今から秋に電話する」
「だから駄目だって! せめて聞くんなら直接会ってとかにしないと」
「ああ、それがいいな。じゃあどこかの店にでも呼び出すか。できれば赤尾も連れてくるように言わないと」
「マジでやめろよ! デリケートな問題だったらどうすんだよ」
古座はテーブルに身を乗り出し、鐘辻から携帯をひったくろうとするが、わずかな動きでかわされ前のめりに倒れてしまう。その隙に鐘辻は携帯を操作し、雪間へ電話をかけた。
「あーもう! スピーカーにして俺にも聞かせろよ」
電話をかけてしまった以上どうしようもないとあきらめた古座は、スピーカーから聞こえてくる呼び出し音に耳を澄ませた。
しんと静まり返った部屋に、無機質な電子音だけが聞こえる。雪間はなかなか電話に出ず、呼び出し音は何コールも鳴っていた。それを聞くたび古座は気が遠くなっていくような感覚になり、このまま雪間は出ないのではないかとぼんやり考えていた。
しかし鐘辻はそうは思っていないようで、雪間が電話に出るまで執拗にその時を待っていた。そしてその時は不意に訪れた。
呼び出し音がぷつっと途切れ、スピーカーの向こうから雪間のものと思わしき息遣いが聞こえる。
「もしもし? 秋、話がしたいんだが大丈夫かな?」
「今か? ……ああ、少しの間なら大丈夫だ」
電話の向こうの雪間は少なくとも普段通りのようだった。気になる点があるとすれば、声がいつもより重く陰鬱な響きを持っていたことくらいだろう。
古座は雪間の声を一言一句聞き逃さないようにしながら、自分の存在を悟られないよう息を潜めていた。別に存在を気づかれたからといって何があると言うわけではないが、なんとなく気まずさからそうしていた。
そのため雪間と話すのは完全に鐘辻の役目になっていた。
「なあ、ちょっと話したいことがあるんだけどさ、ファミレスとかカフェとか、どこでもいいから一緒に行けないか?」
「今は無理だ。用事があるんならここで言うかメールでしてくれ」
「じゃあ夜だったら大丈夫なのか? 古座君も同席してもらうつもりだけど」
「珠樹が?」
しばしの沈黙があり、鐘辻も古座も無言でテーブルに置いた携帯の画面を見つめていた。スピーカーからわずかに話し声のような物音が聞こえてきて、またしばらくすると再び雪間が電話口に戻って来た。
「今日は仕事で遅くなるから、夜の九時からでもいいか?」
「秋の都合に合わせてくれていいよ。それより、赤尾って奴も連れてきて欲しいんだけどできるかな?」
「なっ、なんでお前が赤尾のことを? そうか、珠樹か……」
鐘辻の口から赤尾の名が出たことに驚きを隠せない様子の雪間だったが、すぐに古座から聞かされたのだろうと合点がいったようで、それ以上追及はしてこなかった。
結局、午後九時に赤尾も含めた四人で会おうということになり、電話は切れてしまったのだった。
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