知らぬが仏、とでも










夜叉丸が大変機嫌がよかった。ここ最近の彼にしてみれば鰻登りと言っても過言ではない程の浮かれようであった。
数ヶ月前、弦之介と朧の婚姻が執り行われた事で甲賀と伊賀の和睦が成立してしまった時から、夜叉丸の気分はあまり良いものとは言えなかったのである。
勿論、許嫁の蛍火が血に手を濡らさずに済むようになったのは喜ばしい事だが、甲賀への嫌悪感とは別問題であり、実際此度のように朧の里帰りに随伴した甲賀者が伊賀の里へ踏み入っただけでも虫唾が走る、というのが本音であった。何より和睦が成立してしまったばかりに、忍法御上覧という機会位でしか己の術を扱う機会がないというのが夜叉丸には我慢ならない。
だが、その胸中で渦巻いていた不満を晴らす機会を与えたのもまた甲賀者である。
水面下で未だにいがみ合う甲賀と伊賀の内情など知らないのか、皆仲良くなどと言い出した朧に賛同した弦之介が、では親善試合でもと口にした瞬間、夜叉丸は自分こそがと名乗りをあげた。念鬼もしつこく食い下がって来たが、天もまた味方してくれたのか、結果として夜叉丸は甲賀者との試合に臨み、そして見事に勝利したのである。
素手で戦おうと言われた時には鼻白んだものだが、成程そう言い出したのに得心がいく程に相手は弱かったのだ。
あれで十人衆だというのだから、甲賀の里の力も知れたものである。


「何じゃ、夜叉丸よ。随分と機嫌がよいな」

「これは天膳様、聞いてください、甲賀者を見事負かしてやりましてございます!」


甲賀者と同席するなど御免被るとその場を辞していた天膳にしてみれば、試合があった事など寝耳に水だったのだろう、ほう、仔細話してみよ、と楽しげに唇を歪めた。
夜叉丸にとっては、朧よりもこの天膳の方が重要な人物である。頭領であるお幻の右腕といっても差支えない、副頭領に、是非とも己を認めて貰いたいと思うのは当然の事であった。
相手が黒縄を恐れるがあまり素手での試合を申し出た事、その割に相手は大した腕ではなくこてんぱんにしてやった事など、語る夜叉丸は饒舌であった。興奮冷めやらぬといった体で白い頬を薄ら紅色に染め語る若者は、それ故に話が進むに連れて顰められていく天膳の表情に気づくのが遅れてしまったのだ。


「おかげで今このように晴れやかな気持ちで御報告を、」

「夜叉丸よ」

「あ、は、はい!」

「お主、よもや白痴ではあるまいな」

「……は?」


一瞬何を問われたのか、夜叉丸には解らなかった。
思わず零れた声こそが返答であるとでもいうかのように、天膳は鼻先を一度鳴らして夜叉丸を嘲る。


「曲がりなりにも十人衆に入る相手ぞ。そう容易くやられたという事は、我ら伊賀方を謀るが為に決まっておろう。それすら解らず浮かれるとは何たる恥知らずか」

「た、謀る、とは…」

「そのままの意味よ。大方その甲賀者はわざとお主に負けたのだ。我らを天狗にさせるのが狙いであろう」


全く忌々しいと歯を噛む天膳の言葉は俄かに信じがたいものがあった。
しかし言われてみれば、甲賀の男が負けた時の弦之介の顔に、悔しさはあっただろうか。己の配下ともいえる忍が負けたというのに、それを責める素振りすらなかった。それはもしや、天膳の言う通りわざとだからとでもいうのだろうか。
それまでの爽快といって差支えない高揚感はどこへやら、胸中に再び渦巻き出した不穏な感覚は、夜叉丸を動かすに充分なものだった。






******






本来なら下忍が行う筈だった甲賀方の見張りを申し出た夜叉丸は、夜も更ける間際になり部屋の天井裏へと忍びこんだ。夫婦である弦之介と朧は当然ながら別室にて二人の時間を過ごしており、随伴してきた甲賀者は一室に纏められている、個別にした方が有事の際に対応し易くなるが、相手も馬鹿ではないのか同室で構わないと先んじて言われてしまい、結果一つの部屋に甲賀者を纏める事となってしまった。
針穴の如き隙間から見下ろせば、男が二人座している。片方は昼に叩きのめした男であり、その相貌にはしっかりと痕が残っていた。特徴のない顔に残るそれは既に青紫から黒に変色しており、思い切り叩き込んだ夜叉丸に優越の念を与えるも、天膳の言葉を思い出し頭を振って雑念を追い出す。
静かな室内に、小さな溜息が落ちたかと思えば男が僅かに喉を詰めた。


「如何した、左衛門」

「あぁ、いや、口を切っておった事を忘れていた」


左衛門、というと如月左衛門か。結局試合を終えても名乗らなかった男の正体を知り、夜叉丸は小さく頷く。
別段突出した所のない男の顔と名前をしっかりと一致させ、改めて室内に気を配れば、左衛門が尚も口を開いた。


「全くあの夜叉丸という男ときたら、容赦がない。帰ったら皆になんと言われるか…」


今にも深い溜息が出そうな顔つきからして、言葉に偽りはないのだろう。
どうやら天膳の深読みで済みそうだと、夜叉丸が小さく息を吐いた次の瞬間、豹馬が聞き捨てならない事を口にした。


「弦之介様の面目と朧様の御心を煩わせぬ為といえば、如何なお胡夷とて何も言えまい」

(……何の為、だと?)


お胡夷とやらが甲賀の女である事は解るが、何故そこでその名が出るのか、左衛門の女房か何かかと思いながら、豹馬の口振りが夜叉丸には引っかかった。
まるでその為に負けてやったのだと言わんばかりの、その口振り。
ざわりと湧き上がった心中の波紋を、更に広げたのは左衛門の声であった。


「――――――しかし、苦心したぞ。不自然にならぬよう負けるのは、な」


声は別段潜められるでもなく、夜叉丸の耳へと届き、そして心を揺さぶる。
元より声を発する状況でもないが、夜叉丸は言葉もなかった。
左衛門の返しに満足げに頷いた豹馬の姿など、もはやその視界には映らない。


「既に歓迎されておらぬのに、これ以上不興を買う必要はない。ただの試合じゃ、勝ち一つくれてやる位で気をよくするのなら負けるもやむなし…お主なら、言わずとも察するであろうと思うておったぞ、左衛門」

「勝ってしまえば伊賀の面々は更に殺気立つであろうからな。不仲では朧様が悲しまれるであろう、そして結果、弦之介様の御顔に泥を塗ってしまう。とはいえ盲のお主に勝った所で納得するかは解らぬ故、仕方なくやったが…もう二度と勘弁じゃぞ、豹馬よ」


わしはもう疲れたわい、と畳に転がった左衛門を目で追いながら、夜叉丸は己の心の臓が速まる音ばかりが耳についていた。
これでは天膳の言う通りではないか。伊賀方を謀る為、左衛門はわざと夜叉丸に負けたのだと。
それはつまり左衛門が本気ならば夜叉丸に勝てたという事に他ならず、そして更には、内心で夜叉丸を嘲っていたという事だ。
――――――虚仮にされた。
おぞましい寒気にも似た憤怒が背筋を這い上る。
甲賀と伊賀の和睦、弦之介と朧、そんな事はもはや、今の夜叉丸にすればどうでもよかった。殺す事はできずとも、痛い目に合わせてやらねば気が済まないと、天井を破ろうとした瞬間、豹馬が左衛門を庇うようにして覆い隠してしまう。
まさか殺気が漏れたのか、慌てて息を詰めた夜叉丸の杞憂を晴らすように、左衛門が訝しむ声を零した。


「……何をしておる、豹馬」

「いやなに、お主を労わらなければと思うただけの事よ」

(……何だぁ?)


どうやら此方の殺気を察した訳ではないらしいと安堵の息を吐いたのも束の間、では何故男が二人も揃ってあのような体勢になっているのかという疑問が浮かぶ。
針穴の大きさが変わる訳ではないというのに、やや身を乗り出す様にして覗き込んだ夜叉丸の目には、愉しげに笑う左衛門の顔が映り込んだ。


「……ほぉ、して。如何な手法にて労わってくれるのだ?」

「如何にして欲しい、左衛門」

「聞かねば解らぬ男かよ」


あ、と思った次の瞬間、豹馬の手が左衛門の頬に触れ口を吸った。
天井裏とはいえ、その様は夜叉丸からもよく見える、未来を知る事ができていたなら夜叉丸はとっくにこの場から去っていただろうが、生憎そのような力はなかったのでしっかりとそれを目にしてしまった。
思考は一時完全に停止し、背筋の寒気が憤怒とは違った類のものへと変貌していく。


(こ、こいつら、まさか…!)


そういった関係を持つ男たちが居るという事を知らない訳ではなかった。
実際、夜叉丸とてその若さと美貌から言い寄ってくる男は居たものだ。しかし蛍火という許嫁が居た彼はある意味純粋に育った為、男どころか他の女に心を寄せた事すらなく、むしろ言い寄る輩の所為で嫌悪感を感じるまでになったのでそういった事とは全く以って無縁であった。


(…いや!待て待て。これも芝居かもしれねぇ…!)


監視に気づいていない振りをしていただけで実は気づいており、その目を遠ざける為に一芝居打っている、とあらば夜叉丸とて引く訳にはいかない。大体任務放棄の理由が他人のそういった場面に耐えきれずなどというものになればそれこそ夜叉丸にとっては恥だ。
いくら夜叉丸が、未だ許嫁との一線を越えておらず未経験といえど、見聞きしたことがない訳ではない…男同士のものとなれば、ない、と言わざるを得ないが。
芝居なら、いずれは痺れを切らして止める筈。此処は根競べだ、と夜叉丸は意気込み、そして……後に彼はこう語る。

――――――何故あそこで引かなかったのか、と。

















知らぬが仏、とでも
(………)
(夜叉丸殿?如何なさいました…あら、凄い隈!)
(ほ、蛍火!俺達は健全な付き合いをして行こうな!)
(はい?)


























大人って汚い、とか思ってる青二才。
蛍火と夜叉丸組は、元服年齢位で致すと思っていますが如何なのでしょうか。





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