夜泣きの声は聞こえない










人の顔のような、けれども確かにただの染みでしかない痕。

古ぼけた天井に残るそれを恐ろしいといって縋りついて来ていた妹は、今となっては笑ってそれを見上げるようになっていた。


「けれどもやはり、人の顔のようでございます」

「わしには、そうは見えんが」

「兄様はああいった型に慣れております故、違和感がないのでは」


などと、失礼な事を言い出す妹の頭をぐしぐしと掻き回すようにして撫でると、鈴のような笑い声が零れ落ちる。
確かに他人の顔を押しつけた泥も、天井の染みと似たり寄ったりな形に見えるかもしれないが、泥の陰影によって彫が深く見えるそれよりも薄っぺらい平淡な天井の染みは、人の顔というにはぴんとこないものがあった。


「昔はよぉ、あれを見ては怖い怖いとぬかしておったくせにのう」

「昔は昔にございますれば!今はそのような事もございませぬ!」

「解った解った。そうだな、そういう事にしておいてやる」


未だに不気味だと思っているであろう事は聞かずとも明白であったが、敢えてそれを追求はしない。
それでも宥めすかしたような口調が気に入らなかったのだろう、妹の頬がぷくりと小さく膨らんだかと思えば「兄様など知りませぬ!」と顔を背ける。
その言動の幼さにまたも笑みを誘われるのだとは、流石に言うまいが、それでも湧き上がる愛しさを誤魔化すには至らず、お胡夷、と妹の名を殊更優しく口にすれば、少女のような幼い横顔がちらりと此方を窺った。


「天井裏に人の死体があるが故と申されたのは兄様でしたのに」

「はて、そのような事も言ったかな」

「もうっ、そのように恍けられてもお胡夷は覚えておりますぞ!」

「変な所で物覚えのいい妹で、喜ぶべきか悲しむべきか…」

「兄様っ」

「はっはっ、冗談じゃ。そうむくれるな」


桃色の唇をつんと尖らせたかと思えば、一転して笑みが浮かぶ。
ふふ、と小さく零れ落ちた笑みは柔らかで、年だけみればもはや童子ではないというのに頭を撫でてやりたくもなる。


「ですがそのおかげで、兄様の隣で眠る事ができたのは幸せにございました」


言われずとも、それは当時の自分もよく解っていた。
怖い怖いとその瞳を潤ませながら袖を引く妹を己の腕の中に招いてやると、途端に表情を明るくさせていそいそと入ってくる。
幼心に擽ったい喜びを孕んだ己の胸中に笑みながらも、その小さな身体を護るように抱き寄せたのは自分なりの愛情表現のつもりであった。


「今はお胡夷も、一人で眠れるようになったからのう。いや、立派になったものじゃ」

「…兄様?あまり褒められている気がしないのですが…」

「褒めておらぬからな」

「……もうっ!」

「はっはっはっは」


笑いながら、噛みついてくる妹の頭を掻き撫でる。
柔らかなその感触を、慈しむように指先に絡めて。

絡めて。












「――――――、っ」

はっとした。
どれ位意識を飛ばしていたのだろう、雨音がひどく耳についたが、それよりも今、自分は何の夢を見ていたのか。
首筋を伝い落ちる汗が不快感を煽り、身を起こそうとして視界に入りこんだ天井に動きを止めた。
人の顔をした、ただの染み。
怖い怖いと泣いていた妹はもう居ない。
あれはただの染みでございます故と笑っていた妹はもう居ない。
片割れを探すように、生温かい生地の上を指先で辿ったが、そこに自分以外の体温は存在していなかった。

もう、居ないのだ。

探しても、居ないのだ。

この指に、絡めていた髪も、体温も、笑顔も、全て。

兄様、兄様、と己を呼ぶ声は雨が止もうとも二度とこの耳に響く事はない。

天井には変わりなく顔のような染み。


「………生きてる人間に勝るものなど、居るまいに」


全ては塵に帰す。
妹も、己も、ただ生きて、死んでいく。

あぁけれどせめて、せめて今宵だけは。






あの体温を抱き締めて、眠りたかった。










夜泣きの声は聞こえない
(こんなにも鮮明に、今も尚思い起こせるというのに)













即興小説御題「くだらない天井」にて。
30分で書き上げたのでかなり短めですが、如月兄妹好きすぎる…!




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