闇夜にて、慈しむ











兄様、お胡夷は大きくなったら兄様の嫁になりとうございます。

幼い頃、耳に蛸ができそうな程に聞いた言葉。

解った解ったと笑ってやると、拗ねたようにむくれるので、宥めるように抱き上げてやったあの頃。


「兄様!お胡夷を嫁にしてくださいませ!」


近頃はとんと聞かなくなったので、すっかり兄離れしたものだと思っていたというのに。

まさか、寝込みを襲ってくるようになるとは、流石に予想していなかった。













「…斯様な入れ知恵、誰にされた」


丈助か、もしくは面白がった刑部だろうとあたりをつけながらも、左衛門は平素と変わらぬ顔で己の上に覆い被さっている妹を見上げる。
薄く開かれた片目に一瞬怖気づいたお胡夷だが、素直に答えるつもりもないのかぎゅっと唇を閉じて頭を振って見せるばかりだ。
これはどうやら長くなりそうだと察した左衛門は、小さな欠伸をひとつ、噛み殺した。
夜も更け灯りを落とした室内は暗く、それでも忍の目を以ってすれば、お胡夷が今どのような顔をしているのかよく見える。


「のう、お胡夷よ。努々言ってきた事だが我らは血を分けた兄と妹。夫婦にはなれぬ。十にも満たぬ頃ならいざ知らず、年頃の娘がそれを解らぬ程ねんねではあるまいな?」

「ですが、夫婦であろうが兄妹であろうが今の生活と然して変わりはございませぬっ」

「ならば尚の事、兄妹のままでよいではないか」

「それは…そう、でございますが…」


もごもごと口ごもったお胡夷にも言い分はあるのだろうが、何分時刻が時刻だ。
任務ならば如何様にもできるが日常の中にまで忍耐を持ち込むつもりはなく、湧き上がる眠気を素直に享受したいというのが本音であった。とはいえ素直にそのような事を口走れば機嫌を損ねるのは目に見えているので言いはしないが。
代わりに、腹部あたりに置かれていたお胡夷の細い腕を手に取る。


「何が不満じゃ。言うてみよ、お胡夷」


全く、兄離れして欲しいと思いながら結局は妹に甘い自分には内心で呆れる。
突っぱねるのならとことんそうしてやらなければならないのは解っているが、それでもお胡夷と言葉を交わしている内についその要望を叶えてやりたくなってしまう。
可愛い妹なのだ、蝶よ花よと育てて来た、大切な家族である。それはもはや反射的な言葉であった。
暫しの沈黙を互いに放っていると、堪え切れなくなったのは当然ながらお胡夷が先である。


「…兄様は、嫁を欲しくなったりなどされないのですか?」

「わしがか」

「はい」


躊躇いながらも紡がれた言葉に、左衛門は俄かに目を丸くした。
お胡夷が嫁になりたいと言い出したのは今に始まった事ではないが、嫁が欲しくはないのかと問いかけられたのはこれが初めての事である。
まさかそのような問いかけを胸に秘めていたとは知らず、左衛門は手持無沙汰を誤魔化さんが為に頬を掻いた。
欲しいか欲しくないかが問題ではなく、そもそも相手が居ないのだがお胡夷が聞いているのはあくまで左衛門本人の気持ちなのだろうと推測する。で、あれば。


「欲しいとは思わんのう」

「思わぬのですかっ!」

「何じゃ、その驚きようは。何かおかしい事でもあると言いたげだが」

「普通は細腰のおなごの一人や二人や三人は娶るものだと、」

「丈助か、また妙な事を吹き込みおってからに」


言葉尻に被さった左衛門の表情は呆れ一色。そこへ迫るように顔を近づけるお胡夷の表情は驚きそのもの。噛み合わないそれらの原因がたった一人の男である事と、その男の言葉に如何程の信憑性があったのか考えたお胡夷は、次の瞬間、頬を真っ赤に染め上げた。


「で、では、手のかかる妹が居るが為に未だ一人でいるというのも…」

「冗談、であろうなぁ」


お調子者の言葉を真に受けてしまった己の迂闊さへの羞恥であろう事は明白で、左衛門はやれやれと微笑みながら息を吐く。
萎びるように身を縮こまらせたお胡夷の髪が鎖骨を撫でたので、その後ろ髪を柔らかく梳いてやった。


「丈助の言う事ならあまり気にするでない。わしとて自ら望んで独り身で居るのだから、お胡夷が気にする事など何一つないぞ」

「兄様…」

「手のかかる妹だけで、わしには余りある幸せを貰うておる。これ以上の幸せは必要ない」

「…手のかかる、というあたりは否定して頂きとうございました」

「うん?そうか?」


喉を震わせて笑うと、腹の上でお胡夷も笑うのが伝わって来る。
ほれ、冷えるから寄れ、と掛け布団を広げてやると、嬉しさを隠そうともせず布団の中に潜り込んだ。
こういう所が未だ幼く、手がかかるのだとは間違っても言うまい。何しろそれよりも先に愛おしさが先だってしまうのだから、口にした所で説得力も何もないだろう。
そのような事を考えているとは欠片も思っていないのか、お胡夷は自分なりに居心地のいい場所を見つけるところりと左衛門の懐に転がり込んだ。
するりと肌を撫でる髪が増えたかと思えば、肌の触れ合った箇所から徐々に温もりが広がっていく。


「兄様、兄様」

「何じゃ」


小さく息を吐いたお胡夷は、頻りに左衛門を呼んだ。
かと思えば些か口ごもり、それから意を決したように左衛門の顔をじっと覗き込む。
そこには既に言われようのない冗談を真に受けた不安定さはなく、ただ只管に強い光が宿っており、真っ向からそれを受け止める形となった左衛門は一瞬言葉をなくした。
それを幸いとしたのかは解らないが、それでもお胡夷はその好機を逃す事無く物にする。


「兄様の為なら、お胡夷は妹にも妻にもなれるのでございますよ?」

「――――――…たわけ」


暗闇の中を潜むような、小さな小さな声は、それでも左衛門の耳元へ無事に形を成したまま届けられた。
やや照れたようにはにかんで見せたお胡夷の額を、左衛門の指が些か強くなぞる。
それが兄なりの照れ隠しである事を知っているお胡夷は、むくれるでもなく、嬉しそうな笑い声を短く漏らした。


「もう寝てしまえ。明日も早いぞ」

「はぁい、兄様」


瞼を下ろす様に目元をなぞる指先は、優しく、穏やかなもの。
軽い調子で頷いたお胡夷は、それに促されるまま瞼をしっかりと閉ざすと、寄せていた身体を更に寄せ、左衛門の胸元に擦り寄った。
程なくして零れ落ちる寝息は微かなものだったが、忍としての習性がそうさせるだけで眠りそのものは深いに違いない。
何故ならば、お胡夷は今、この世で最も信頼し、愛する兄に抱かれているのだから。


「……全く、ほんに」


手のかかる妹じゃのう、と。

薄暗闇の中ぽつりと零れ落ちた声は、やはり優しく、穏やかなものであった。













闇夜にて、慈しむ
(丈助、お主またお胡夷に余計な事を申したそうではないか?)
(あいや暫し待たれよ左衛門殿!わしはただ、健全な男の身でつらいのではないかと気遣ったまでで…)
(この際、問答は無用であろう?丈助よ)
(さ、左衛門殿、目が恐ろしい事になっておるぞ…!?)

















普通兄妹だからって一緒に布団に寝ないよ、という突っ込みはなしの方向でお願いします。いいんだ、兄妹だから、一緒に寝てたって変じゃないさ!
変じゃ、ないさ!(二回言った)




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