好奇心は猫をも殺す










豹馬が怪我をしたらしいと耳にしたのは、朝餉を終えようかという時の事だった。


「豹馬が?」

「はい。お胡夷は確かにこの耳で聞いたのでございます、兄様」


神妙な顔つきは常の妹らしからぬものであり、左衛門はそれが嘘偽りのない所である事を知った。
岩魚を食んだままというやや無作法な状態で、お胡夷はもにゃもにゃと口元を動かす。


「昨日の昼過ぎに地虫殿の所を訪ねました時にですね、豹馬殿がいらっしゃいまして」

「…やや気になる点もあるがまぁよかろう。それで?」

「それでお胡夷は席を外したのですが、その時に確かに「よい傷薬を煎じてくれる薬師を知らぬか」と仰られておりました」

「……ふむ」


豹馬は盲目でこそあるが、その本領は参謀役としての頭脳と深夜での戦い方にある。
その為平時に任務を仰せつかる事はあまりなく、故に怪我をする機会も早々ない筈なのだ。
だというのに怪我をした、という事は、単なる不注意や不慮の事故というものが連想される…のだが。


(豹馬にしては、珍しい事もあるのう…)


隙のない身のこなしとその言動から、盲目であるとはその相貌を覗くまで解らない。
盲目にありきたりとも思える転倒などは罷り間違ってもしないだろう、何よりお胡夷がその話を耳にした時よりも後に左衛門は豹馬と顔を合わせていたが、目に見えて傷がついているような部分はなかった。加えていうなら豹馬からそのような話は聞いていない。わざわざ言うような傷ではないのならば傷薬を煎じて貰う必要もないだろうに、である。


「まぁ、豹馬にも色々あるのだろうよ。仔細は聞けるようなら兄が聞いておく故、深く考えぬようにな」

「はい!」


そう言うと、お胡夷は食べかけの岩魚を豪快に食んでから行儀よく頷くのだった。







******





時は宵、である。
地虫と豹馬、昼の話題の中心人物からとっておきの酒を出す故に一献どうだと誘われてお胡夷と夕餉を済ませた後に地虫の部屋を訪ねた訳だが、そこには丈助の姿もあり、これは珍しいものだと左衛門は頬を緩めさせた。


「お主が女の尻でなく男の集まりを選ぶとは珍しいのう、丈助」

「いやぁ、地虫殿のとっておきを頂戴できるとなれば、流石に来ない訳にはいきますまいて」


快活に笑う丈助は既に多少できあがっているようだ。とはいえ互いに忍、いざとなれば酒気も抜けるであろうが不戦の約定に平定されている現在であれば敵襲などとは早々考えられまい。
一応はと持参した脇差を抜き己の傍に置いた所で、空いた手に猪口を勧められるまま、まずは一献と酒を舐めた。地虫がとっておきと言うだけあってそれは滑らかな舌心地と芳醇な香りに満ちており、僅かに零した吐息すら勿体ない程に旨味がある。


「美味い、な」

「そうじゃろう。将監には内緒にしておけよ」

「知られたが最後と見た、おお怖い」


言いながらも手を止めずに猪口を傾ける丈助を横目に、未だ一言も発しない男をちらりと窺った。
時折猪口を傾けるだけで、静かに酒を過ごしているその男は、目が見えぬ故に気配には敏感で、向けられた視線を察したかのように顔をあげる。


「わしの顔に何かついておるか?左衛門」

「……閉じた眼と鼻に口がついておる」

「なければ困るものだのう」

「で、あるからに」


それが問題なのだと、左衛門は思う。やはり見える所に傷らしきものはない。
白い相貌には切り傷も何もなく、そして剥き出しになっている腕のあたりにも問題はなかった。では脚か、もしくは腰…歳、といえば歳なのでそれは確かに言われてみれば納得がいくが、それを本人に聞いて教えて貰えるかどうかは微妙な所だ。かといって、豹馬相手に駆け引きを仕掛けるというのも無謀である。


「…時に地虫殿、昨日はお胡夷が此方にお邪魔したそうで。何か粗相がなかったでござろうかな」

「いや、妹御のような若い娘が来ると屋敷も明るくなって助かっておる位じゃ」

「おぉ、そうでござろう!お胡夷殿のあの豊満なから…あ、いやいやこれは口が滑りまして、失礼仕ったなぁ」

「っはは、丈助のような助平心はなき故、安心せよ。左衛門」

「地虫殿に限ってそのような邪推は必要ないでしょう。それで、お胡夷から面白い話を耳にしたのでござるが…」


――――――何でも、豹馬が怪我をしたとか。


そう言った瞬間、細めた瞳を僅かに片目のみ覗かせて件の男を窺えば、他人には解らぬ程度に、けれども確かに僅かな動揺が肩の揺らぎに見受けられた。
面白いなどという表現は同胞として如何なものかと思わないでもないが、話の向け方がこれしかないのだから致し方がない。何より丈助にとっては本当に面白い話として刷り込まれたらしく、興味津津とばかりの体で地虫と豹馬を窺っているのでそれ以上の言及を自身でする必要がなくなったのが幸いした。


「見た所特に変わりもない様子だが、怪我をなされたのか?珍しい」

「あぁ…いや…うむ……」

「これ、丈助。そのように楽しげに聞くものでもなかろう」


丈助の問いにも常の落ち着きはどこへやら、どう言ったものかとばかりに口元で声を濁らせる豹馬と、如何にも事情を知っていて庇っていると思われる地虫の様子から、疑問は益々深まってゆく。
もしや豹馬ではなく、所縁の者がとも思われたが、最低限の下女しか屋敷に置いていない豹馬には所縁の者などそもそも弦之助位のものであり、次期頭領と目されている弦之助が怪我などすれば十人衆の耳には自ずと入るものなのだからそれがない以上可能性としては限りなく低いだろう。
では一体どういう訳か。ううむと首を捻る左衛門だが、暫し考えていたらしい丈助が手を打って納得の声をあげた所で思考は自然と引きつけられた。


「成程成程。解り申した!何じゃ、豹馬殿も隅には置けぬのう!」

「…………丈助」

「…ほんにこの男、見かけによらず頭は冴えるの」


明るい顔でうんうんと頷く丈助に、遠慮がちな豹馬、呆れたような顔をする地虫。
解っていないのは己だけのようだと気づいた左衛門は、それでも周囲には知られぬようそれとなく猪口に口をつけて間を埋める。


「その傷、もしや背中なのではござらんか?」

「…………………は?」


間の抜けた声を零したのは、紛れもなく左衛門本人であった。
豹馬は丈助の問いにも特に驚く様子もなく、むしろやはり知られたかとばかりに溜息を吐いている。それはつまり、丈助の考えに対しての肯定として他ならない。
丈助にとっては左衛門の間抜けな声も特に違和感を与えるものではなかったらしく、幸いにも事情を察していないらしいと気づいた丈助はこれもまた丁寧に事の仔細を口にした。


「つまり、引っ掻き傷にござろうとな。余程激しいおなごを相手にしたとお見受けするのう!」

「…………………」

「…………………」

「……丈助、そのへんにしておけ。酒が過ぎておる」


豹馬との間に沈黙が広がったのは、左衛門の気の所為ではないだろう。地虫が見かねたように口を出してくれなければ、左衛門は何も言えなかったに違いない。
何せ丈助の言葉で漸くその原因に思い至り、尚且つそれが己の仕業となれば、それはもう、知らなかったとはいえ羞恥の極みである。
そう、豹馬の背中の傷―――見せては貰えぬが恐らくはみみず腫れのようになっているのだろう、覚えていないという事はそれだけ強くしがみついたという事なのだから―――それは左衛門が、一昨日の晩につけたものではないのだろうか。というか、豹馬の性格からして他の人間とそういった事をする訳がないのだから、十中八九左衛門が相手の時についたのだろう。
言われてみれば確かにその日は豹馬の背を目にしていない。気を失うようにして眠り、朝も明けぬ内に褥を抜け出した時にはお互いに袖を通していた訳だから、目にできよう筈のなかった。
考えなしに、お胡夷の好奇心や心配を満たしてやる事ばかりでこの場の空気を作りあげてしまった己の不慮さを恨んだが、それよりも、地虫の態度からして彼には知られているのだろうと思えばこそ、こうして酒を共にしている事すら気になってくるというものだ。
顔色が変わる質でなくてよかったと、赤くも青くもならない己の頬に感謝しつつ、改めて豹馬を窺う。


「……あー…豹馬、すまぬな。言いづらい事を聞いてしまって…」

「…いや、構わぬが…此方こそ、気が利かずすまぬ事をした」


そこで何故お主が謝る。
よくよく考えずとも不自然な切り返しには当然ながら丈助が食いつき、地虫が今度こそどうにもならんとばかりに顔を顰めて酒を啜っている。
自業自得とはいえ、この状況を乗り越えろとはあまりにも無茶な仕打ちではないか。


(…暫く背中に腕を回さぬよう気をつけねばなるまいな…)


問題はそこではないような気もするが、まずはとりあえず、好奇心の塊を化した丈助を宥めるのを先としよう。
折角の酒の味すら解らなくなって、左衛門は改めて己の失態を嘆くのだった。













好奇心は猫をも殺す
(後日の宵にて、豹馬から「こういった傷は悪くないものだと思うておるぞ」と言われ、結局我慢できずに背中にしがみついてしまったのは、また別の話である)




















左衛門は妹のお胡夷ちゃんには相当甘いと嬉しい。
任務に関する事だと厳格だけどそれ以外の事に関しては甘いといい。
そして豹馬の背中に爪を立ててしまう兄様萌える…




あきゅろす。
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