何度でも、さよならを奪うよ










例えば、青い空だとか。
例えば、澄んだ海だとか。
例えば、緑に満ちた大地だとか。

あの頃は確かに近くにあったものなのに。
今はこんなにも、遠い。












清涼な空気が鼻孔を掠めたかと思えば、さらりと何かが肌を撫でた。
擽ったさに小さく唸ると、誰かがそっと笑う。
次いで、控えめとは言えない強さで肩を揺すられ、閉じた瞼を押し上げるように促された。


「ん…何だぁ…?」

「もうすぐ夜明けだぞ、トリコ」


低いクセに甘い、そんな声が落ちる。
肩を揺する主の正体はすぐに知れて、その手を逆に握り適当な強さで引けば、おい、と咎めの声が降ってきた。
耳に心地いいその声を聞くのも何年ぶりだろう、便りがないのは元気な証拠を地で行く自分達にとって、久方ぶりの邂逅は情熱的な夜を与えてくれたのだったか、声の主の喉が掠れているのは明らかだった。


「…まだ休んどけよ、愛」


薄く開いた瞼の向こう、暗闇の中にも確かに捉えた人影は、みつあみにしていた髪を無造作に下ろしている。
昨晩寝台に引きずり込んだ時に自分が解いたのか、それとも愛自身が解いたのかは覚えていない。
間近に下ろされていた腰に腕を回すと、そうもいかないのだと苦笑交じりの声が返って来た。眠気の残る状態でこの声を聞くと、どうしたって起きる気になんてなれやしない。だというのに当の本人は昨晩脱がせた夜着を既にきっちり着込んで目覚めているのだから酷い話だ。
もう少し位は恋人同士の時間を紡いでくれたっていいんじゃなかろうか。


「お前が居るからいつもよりは遅いだろうが、朝になったら滝が来る。寝ててもいいが、せめて服は着ておけ」

「……何だって?」

「だから、いくら昔馴染みでも全裸でベッドに居たら変だろう」

「いや、そうじゃなくて」


何を言ってるんだとばかりに目を丸くされて、逆に此方の目が覚めた。
愛は解っていないのか、じゃあ何だ、と呑気に瞬きまでしている。勢いよく身体を起こしたのはもはや反射的なものだったが、愛には驚くべき事だったらしく、突然覚醒した恋人を訝しむように名を呼んで窺ってきた。


「トリコ、どうかしたのか」

「どうもこうも、何で朝から滝丸がお前の部屋に来るんだよ」


滝丸がどれだけ愛を慕っているのかなど問うまでもなければ考えるまでもない。
だが、まさか早朝から部屋に招き入れるような相手だとは思いもしなかった。
愛にとっては食の主義も相俟って、人を助けるのは呼吸をするのと同じ位に自然な事だ。それ故、愛を慕い付き従う者が増えていくのは言われずとも理解できる話である。


「…何を誤解しているかは知らんが」

「お前と滝丸ってそういう仲だったのか」

「考えている事を口に出すのはお前の美点だよなぁ、トリコ」


そうだろうか、ココには短所だと言われ、サニーには美しくないと批難されるのだが。
そもそも褒められて喜んでいる場面でもなく、けれども愛は呆れたように苦笑を浮かべているだけなので考えているような事は何もないのだろう。
慌てて損をした、思わず息を吐いて肩を落とすも、愛は相変わらず素っ気なく「服を着たら話してやる」と言ってきたので仕方なく服を拾い上げる。
とはいえ、寝る時は大抵半裸の自分にしてみれば下着とズボン位しか整えるべきものはないのだが。


「で?何でそこで滝丸なんだ?」

「身支度を手伝いに来るんだ」


ズボンを履きながら問えば、愛があっさりとそう返した。


「見ての通り、こっちが使えないからな。髪の編み込みや包帯を巻き直したり、まぁ、そういう細かい事をやってくれるんだ」


年寄りみたいだが、嬉しいもんだぞ。などと、言葉通りに嬉しそうな微笑を見せられてもどう反応したものか困る。
愛の右腕は、全く動かない訳ではないが細かい作業を長時間する事はできないらしい。
やれたとしても途中から疲れて痺れが出始めるから食事や着替えなどの主な作業は左手のみで行うのだが、確かに髪の編み込みは片手ではやりづらいだろう。
器用な人間ならどうにか苦心してやってのけるかもしれないが、少なくとも自分には無理な話だ。
愛もこう見えて大雑把な男だから、多分できないだろう。
サニーなら髪自体を操れるし、ココならきっと余裕でできる。ゼブラは…いや、そもそもあいつの場合は髪なんぞ伸ばさないか。
愛の言う通り、夜明けはもう目前まで来ているようだった。昨夜までは暗闇に一色で塗りつくされた室内が僅かに光を受け入れて仄かに明るくなり始めている。
窓越しの薄明かりが愛の髪を照らして、クセのあるそれがほんの少し煌めきを見せた。昔は真っ直ぐなストレートだったのに、暫く会わない間に癖っ毛になっていたのだからどれだけ顔を合わせていなかったのかと今更ながらに月日が惜しまれる。
会わなければ会わないで平気なのに、どうしてか、顔を見ると欲しくて堪らなくなるのだから不思議だ。


「…俺が編んでやろうか」


だから、つい、ぽつりと言ってしまった訳なのだが。
自身は元より愛にとってもその言葉は衝撃的なものだったのだろう。
髪を梳くようにしていた左手がぴたりと止まり、まじまじと凝視してくる眼には正気を疑うものが浮かんでいた。
何もそんな反応をしなくたっていいじゃないかとは思うが、口にした自分でさえ上手くできる筈がないという自負があるので黙っておく。


「…トリコが、髪を編む、のか?」

「…おうよ」


恐る恐る確認を取ってくる様にいよいよ気恥ずかしさが極まって、返答は小さなものになってしまった。
自分でもらしくない事を言っているとは自覚している。
所在ない手を額に当て、そのまま少々乱暴ながらも髪を後ろに撫でつけてから、よし、と一つ膝を叩いた。


「とりあえず、此処に座れ」

「…………本当に、できるのか?」

「解んねぇよ、やってみねぇと」


至極不安げな眼差しが、開き直った此方の言葉を聞いた途端に丸くなり、それからすぐに細められる。
仕方ねぇなぁ、といかにもな体を装って此方に背を向ける形で目の前に腰を下ろし直した愛は口で言う程には嫌だと思っていないのだろう。証拠に、声が笑っている。
気恥ずかしさは絶えぬまま、何故こんな事を言い出したのかと自分でも不思議になってきたが思い立ったが吉日、やると言ったからにはやるのだ。
昔「庭」でサニーの長い髪を編んでいたココの姿を必死に思い出す。
確か手順は…と思考を走らせながら髪を首元から掬いあげると、白いうなじが覗いた。美しいというよりも病的なまでに白いその肌は、やはり愛なのだと実感させられるだけのものであって案じる事もなければ哀れだと思う事もない。


(…美味そうな首してんなー)


今すぐ食いついてやりたいが、そんな事をすれば不興を買うのが解りきっている。
とにかく今は編み込みの作業に集中しよう、とココのやり方を思い起こし、不慣れな手つきながら編み込んでいった。


「っ…だぁ!……あー…くそ、ちまちまと逃げやがって…!」

「おいおい、俺の髪にナイフは止せよ?」


所々、髪が飛び出ているがそれはもうどうにもならないと諦める。
楽しげな声音は明らかにこの状況を面白がっていた、なんと憎たらしい事だろう。
昔よりもずっと長くなった髪は量も比ではなく、生え際から下まで編み込んでいくのは相当な苦行だった。
時折茶化すように愛の声があげられて、それから他の奴らの近況だとか、所謂世間話のようなものをぽつぽつと紡いでいく。
部屋に差し込む光が徐々に強さを帯びて行き、外では既に一日の幕を開いたのであろう鳥達が飛び交っていくのが見えた。


「相変わらず、此処は静かだな」

「ん…あぁ、お前には退屈だろう」


喧騒から程遠い大自然の最中に身を置くグルメ騎士達は、滅多に大都市に姿を現す事はない。
それでも愛にとってはそれが普通で、自然こそが彼の生活の根幹なのだから、今更それをどうこう言う気もなかった。
ただ、本当に此処は静かなのだ。
しんとした、気の重くなるような静けさではなく、例えば鍋に火をかける僅かな音だとか、人の話し声だとか、それぞれの音が雑音と化す事無く一つに溶け合い、調和しているような、心地いい静けさ。
組織のトップが臥せっていたのも理由の一つかもしれないが、療養にしたって充分過ぎる程に穏やかな地だ。


「老後に住むには向いてそうだ」

「ははっ、言ってくれるじゃないか。老いたお前なんて想像できないぞ」

「奇遇だな、俺もだ」

「お前は歳を食っても、狩りに行ってそうだ」

「美味ぇもんを食いたいからなぁ」


言葉の応酬をしながらも、手は休めない。
やがて終わりが見え始めた所で、愛が「なぁ、トリコ」と声をあげた。


「お前の老後には、付き合えそうにないぜ」


ぽつりと落ちたのは、それまでと欠片も変わらない声。
動揺や哀愁、悲哀もなければ憤怒もない、平素と変わりのない、落ち着いた声が響く。
愛の夢を引き合いに出してまで命を長らえさせたのは、自分だ。
癒しの国で貰った薬と小松の作ったセンチュリースープを口にし病を治しても愛は生き方を変える事はないのだろう。


「……それでもいいなら」


他人の病を食って、命を救う。施しの精神は純然たる善意と僅かな義務感からと知っていながら、止めようとした事は一度としてなかった。
それが愛の生き方で、考え方で、誇りなのだと知っているからだ。
知っているから、止めはしない。但し、死なせてもやらない。


「GODが現れる日くらいまでは、精々生き延びてやるよ」


卑怯者だと罵るだろうか。
いいや、愛ならきっと笑うのだろう。
呆れたように目を細めて、馬鹿な奴だな、などと言って。
















例えば、青い空だとか。
例えば、澄んだ海だとか。
例えば、緑に満ちた大地だとか。

あの頃は確かに近くにあったものなのに。
今はこんなにも、遠い。

あの頃に戻りたいなどと青臭い事は言わないが。
ただ、お前がお前で在れるように生きられたらいい。
そうして最後には、老いた俺の横に老いたお前が居たら、俺の人生は美味いもん尽くしで終われるに違いないのだ。












何度でも、さよならを奪うよ
(そう簡単に死なせてなんかやるものか)




















愛丸さんが本誌に再登場する前に書いたものなのでちょっと色々おかしい。
そして呼び方表記を「愛」にしていた初期…本誌で「アイ」だったので、後々の原稿等では変えてます。




あきゅろす。
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