笑って、くれませんか










思い返してみれば、彼女は、あまり笑わない人だった。
そもそもからして姉の恩人であるアラジンや、バルバッドの皇子であるアリババとの会話にばかり気を向かせていたから、彼女の存在は当初希薄なものでしかなかったのだろう。
とにかく、彼女はあまり笑わない人だった。
小さな体躯に細い手足は、見るからにただの少女でしかなく、真っ直ぐに向けられる瞳はまだ幼さを残している。
一般的に考えるならば、整った顔が綺麗だとか、丸い眼が可愛らしいとか、そういった感想を抱くべきなのかもしれないが、彼女への第一印象は「こんな年端もいかない少女を迷宮に連れて行って大丈夫なんだろうか」という懸念だった。
幼さでいえばアラジンの方が年下なのだろうし、彼女の、よく言えば落ち着きのある表情や行動は年齢に不似合いだったのだから言動で決めつけた訳ではないけれど、それでも無意識に男女の差を慮ったのかもしれない。
ただ、正直に言ってしまえば己のやるべき事を完璧にこなさなければならないという時に、彼女を護る余裕などないだろうと、それだけが不安だった。
それこそがむしゃらに槍を振るおうとする己の目前には、そんな懸念など笑い話にもならない光景が広がるとも知らずに、傲慢な考えを抱いていた。




彼女は、不躾に言ってしまえば何を考えているのかよく解らない。
アラジンやアリババには、なんとなく解るらしい。それは付き合いの長さに依るものだろうと思ったが、聞けば彼らも行動を共にしてからそう長くはないらしく、ならば己の鍛錬不足だろうかと彼女の顔をじっと見つめるも成果は得られなかった。
燃えるような赤、彼女の髪と、瞳の色。
灼熱の太陽か、闇に誘う夕の灯か、その光が、視線に気づいて真っ直ぐに捉えると此方の瞳が焼かれてしまいそうで、反射的に逸らしては彼女の不審を買った。けれども思い起こせば起こした分美しい赤から目を逸らすのが勿体ないと、誰に言うでもなく思ったりもした。
胸中に僅かな違和感を持ち始めたのは、そんな時。
迷宮を出る前から、出てからもずっと思っていた事を、彼女に告げた。
アラジン、アリババ、そしてモルジアナ。彼らの好意に報いたくて自らの過去を、願いを語れば、彼女もそれに倣うかのように口を開いてみせた。


「私も、奴隷でした」


故郷は知らない、僅かにしか、覚えていない。
けれどそれは、ただの憧憬であるのかもしれない。
一族は全て奴隷にされ、家族の記憶もない。
告げられた言葉の羅列、それら全てを情報として受け入れ理解するには、時間を要した。
一つの部族そのものが奴隷として扱われるなどと、そのような部族があったなどと、知らなかったからだ。
まさか、そんな事はありえないだろうと思ってみた所で、彼女がそのような嘘を吐く人ではない事などとっくに解りきっている。
奴隷だったのだと、彼女は言った。
奴隷になるまで、奴隷になってから、そして現在に至るまで、それらの仔細は語られる事こそなかったが一方的に想像する事ならばできる。


「お姉さんを、大切にしてください」


無知は時に、残酷な言葉を吐かせるものだ。
無神経な問いかけにも、彼女は怒るでも無視するでもなく、真摯に答えてくれた。
それは彼女が、己を深くまで踏み込ませてくれた事と同義であり、そして同時に、己の無力さを思い知らされる優しさといえる。
家族の記憶。
故郷の記憶。
全ての人間の根幹である、生まれた場所、取り囲む人間、それら全ての記憶が、彼女には殆んどない。
それがどれだけの不安や絶望を与えるのか、己には解らなかった。
己には故郷がある、たった一人の家族と思う優しい姉が居る、もはや失ってしまった家族との、幸福だった頃の記憶がこの脚を支え、背中を押してくれている。
では彼女は、何に支えられ、今この場に揺るぎなく立っていられるというのだろう。


「…兄弟が居たかも」


それは、酷い思いつきだった。
空想にも等しい、子供染みた言葉だった。
世の中は、現実は、そんなに甘いものではない事などよく知っていたというのに、それでも彼女に、言いたかった。


「両親が居ない人間は居ないし、覚えていなくても両親や兄弟が居て今もどこかで奴隷から解放されて元気に生きているかもしれません、貴方のように。きっとそうです!」


家族も生きているかもしれない。
自由で居るかもしれない。
いつかきっと、

きっと、会えるかもしれない。

無責任な言葉の羅列は、けれども「そうであって欲しい」と思うが故のものだ。
捲し立てるように早口で告げたのは、己が気の利いた事を言える人間ではないと知っているから。
そして叶うならば、彼女にも、そう思って欲しかったから。
不快にさせてしまっても仕方がない事を言ったというのに、彼女は暫く何も言わなかった。
波の音が響く。
ひいては返し、ひいては返し、それはまるで命の胎動にも似ていた。
風が彼女の髪を揺らす。僅かにぼやけた瞳が、ゆっくりと、弧を描いた。


「ありがとうございます」

「――――――」


それが、初めて見た、彼女の純粋な笑顔。
眦に浮かぶ雫は、けれども零れる事なく、その涙を拭ってあげたいと、思ったのはそんな事だった。
彼女はそのままで充分に整った顔をしていたけれど、初めて見たその笑顔は、悲しくも美しく、そして、せつなくて。
胸中の違和感はもやもやと渦を巻くばかりだったというのに、それを嫌だとは思わなかった。




ただ、できる事なら、国に帰る前に。

もう一度、だけでも。








笑って、くれませんか
(貴方の笑顔が、もう一度見たい)

















本誌を立ち読みして勢いで書いたもの。
でも本命はマスモルなんです…モルさん可愛いですよね。




あきゅろす。
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