それでは誘惑の準備を










実を言うと昨日の夜から違和感はあった。
何となく喉がいがいがしいというか、ひりひりするというか、そんな感覚。
空気が乾燥しているからだろうと決めつけて、それでも一応はと白湯を口にしてから寝たのだが、翌朝には見事に悪化していた。
上官程ではないが、喉を鳴らして調子を整える事数回、目敏い同僚はすぐさま気づき、眉尻を上げてみせ。

「早い内に侍医に見て貰うといい」

とだけ言ったのだが。













まさかこれ程悪くなるまで放っておくとは思わなかったぞ、と。
呆れた物言いが頭上から降るも、何事かを言い返す気力すら湧かない。
自分でもそう思っているのだからこれ以上現実を突きつけないで欲しいものだ、とは内心で思うのみである。
白魚の如き手のひらが額に翳されるとひやりとして冷たい、それは自身の額が熱いからだと解ってはいるが、気持ちがいいので暫くはこのままにしてくれないものだろうか。
眦を細めた隼はといえば、額の熱に対し顔を顰めるばかりだ。


「第一、能力者であるお前が侵された病原菌ともなればヤワなものではない事位解りそうなものだ」


それは自分でも思っていた事なので浅く頷いて見せる。
喉が渇いて痛むな、と思えば言うまでもなく水差しが手渡されたのでありがたく頂戴した。
喉の痛みは声を発する事すら放棄させる程であり、相手の名を呼ぶだけで盛大に噎せ返ったのはつい数時間前の事だ。
仕事の合間、こうして様子を見に来てくれる同僚には申し訳ないが、正直助かっている。
他の人間では言葉なく此方の欲求を悟るのはなかなかに難しい、おかげで世話についてくれていた侍女を随分と困らせてしまった。
これが王や王女、上官であるならば話は別だが、皇族直々の看病など恐れ多くて呑気に寝転がってもいられないし、上官の至っては普段から喉の調子がよろしくないので移してしまったら大変だ。
その点、この隼は悪魔の実の能力者なので早々体調を崩したりはしない。
自身に関してもそれは同じ筈なのだが、今回は体内に侵入した病原菌の方が上手だったようだ。
全く以て面目ない。風邪を甘く見ていた訳ではないのだが、如何せん近頃は仕事が立て込んでいた。
休憩時間を潰してでもこなさなければ終わりが見えず、侍医の所へ足を運ぶ事すら億劫だったのだ。
言い訳にしては、随分と幼稚なものだが。


「まぁ、仕事人間のお前には調度いい機会かもしれんな」


冗談交じりに零された言葉には全力で反論したい所である。
誰が仕事人間だ、仮にそれを認めるにしても、目の前の男にだけは言われたくない。
オーバーワークに勤しむのは決まってそちらであって、自分ではないし、何よりこの状態を「調度いい」と言われるのは不本意なものがある。
じろりと力を込めて睨んでみるも、怯んだ様子が見受けられないので大した効果はないようだ。
まぁ、風邪で寝込んでいる人間が睨んだ所で怖くもなんともないのは仕方があるまい。
快復したら覚えていろ、とはこれもまた口にはしないが、相手には伝わったようだ。


「そう怒るな。寝込むお前が珍しくてつい言ってしまっただけだ」


笑みと共に告げられては素直に頷いて見せるのも癪である。
ふいっと目を逸らして心情を訴えると、男は肩を竦めて息を吐いた。
悪かったと言っているだろう、とは呆れた声音であったが、額の汗を拭う指先は優しい。
冷えた感触は相変わらずで、夜になれば今以上に熱があがるのだと侍医に言われた事を思い出し苦い気持ちになった。病気になんてなるものではない。


「暫くは俺かイガラムさんにしか会わせられんが…何か欲しいものがあれば遠慮なく言ってくれ」


例えば、王や王女が見舞いを申し出た所で面通しさせる訳にはいかない。
そんな事は言われるまでもなく解っている事だ、一家臣が、たかが風邪を引いた程度で仕えるべき主に見舞われるなどただでさえ過分であり、常人に比べて頑丈な身体を持つ能力者が引いた風邪となればそれなりに悪質である事は否めない。
移してしまった場合は悔やんでも悔やみきれないだろう。
充分だ、と口を動かすだけで伝えると誤りなく受け取ったのであろうペルが苦笑するのが見えた。
室内の灯りが落とされ、窓にはカーテンが敷かれているおかげで薄暗い空間にぽつりと浮かび上がる白はよく窺える。
何故そんな顔をするのか、解らずに目を瞬かせれば、今度こそ口元に手を当ててペルが笑った。


「いや、こんな時位は我儘を言えばいいのにな、と思っただけだ」


お前も大概苦労性だからなぁ、としみじみ呟かれれば、いくら何でも言いたい事が解ってしまい同じように苦く笑うしかない。
若い時分ならばともかく、皇族に仕えてから随分と長く過ごしていれば周囲に気をやってしまうのは仕方ないだろう。
こればかりはもはや性分のようなものだから、ペルに言い返す気にもなれなかった。
事実口にするものに関しては足らないものなどなく、こうしてペルが居る間は何かに不自由する事もないので「充分」なのだ。
ただ、惜しむらくは仕事に一切手をつけさせて貰えない事だろうか。
せめて書類の決裁位はと一度イガラムさんに言ってはみたものの、渋い顔で一言「休め」と告げられただけだった。
恐らくはペルに言ってみた所で結果は変わらないだろう。いやもしかしたら、イガラムさんよりもずっと過剰な反応が返ってくるかもしれない。
自分の事には疎いクセに親しい人間に対しては過度な反応を見せる男の事だ、目を吊り上げて寝台に括りつけられるなどという事態も有り得る。
これは黙っておこう、と内心でのみ呟いた。知られたらそれこそ隼が鬼となるに違いない。
冷やかな水に浸されたタオルが額に乗せられ、瞬きを一つ感謝の表しとして寄越す。
少し寝たらどうだ、と声が落とされ、その声量が常よりも柔らかに低められている事を知れば笑いすら込み上げてきそうな所だが、その申し出はあまり嬉しいものではなかった。
悪魔の実を食べてからというもの、実の影響でというならばともかくあくまでも一般的な病で倒れた事など数える程度しかないこの身にしてみれば、たかが風邪でも気が滅入るのだろうか。
目を閉じて意識を手放したが最後、次にはこの男の姿が消えている事がどうにも心寂しく思えてならなかった。
乳離れしたての子供でもあるまいし、病は気を弱らせるというが流石に情けないものがある。
すぐさま応えなかったのが不思議だったのだろう、目を丸くさせたペルに「何でもない」と口を動かしてみせるもこんな時ばかり察しのいい男は「どうかしたのか」と顔を覗き込んで来た。


「心配ごとでもあるなら言ってみろ。仕事に関する話なら少しは手助けできるやもしれん」


但しそれ以外はその限りでないという事か。
己を知るというのは大事な事である。仕事に於いてはかなりの手腕を持つ男も、それ以外がからっきし駄目な事は否めなかった。


「あまり無理はするんじゃないぞ」


常は自らが口にする言葉を、常はその言葉をかけられる側の男に言われると奇妙な違和感があったが、まぁ、悪くはない。
チャカ、と。
落とされる声は低く、穏やかで優しかった。
ペルがこうして己の名を呼ぶ事に意識をやる度、それに気づいてはどうにも照れくさくなるのだが、今回ばかりは安堵しか湧きあがらないのだから不思議なものだ。


「……」
「…何だ?」


不思議そうに瞬く猛禽の瞳に、何だか情けなさを覚えるのも馬鹿らしくなってきて、手のひらを上に向けて動かして見せると意図を掴めずに男が困惑しているのが解りおかしくなる。
実直な男には、いつもならばあからさまな言葉で伝え狼狽する様を楽しむ所だが生憎今はそれが許されていないので口元だけを緩めて見せた。




















それでは誘惑の準備を
(……子供かお前は)
(…けほっ…っ、)
(………)
(げほげほっ)
(っ〜…解ったからわざとらしく咽るな、喉に悪いっ)



















手を握って欲しいジャッカル←
握ってれば居なくならないよね、みたいな。
久々過ぎてスランプである…

title/確かに恋だった




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