欠けた月を満たす夜










世界は美しい、だなんて。
そんな事を言う詩人は、世界の何を見て「美しい」などと言えたのだろう。












薄暗かった。まるで膜でもかかったかのような、薄暗さだった。
もう何度も詰めた事のある統括艦の自室は、整然としており、何の乱れもない。
空気は夜独特の肌寒さに満ち溢れ、肩にかけたコートを僅かに手繰り寄せた。
ぼんやりと、空色の瞳は暗闇に濁る、揺れる、溢れる。
膜の中から外を見回して、何を得られたのだろうか。
男は、ドレークは、ゆっくりと己の口元を拭った。もはや滑りを失った赤が、パラパラと屑になって膝に落ちる。
任務は海賊の殲滅であった。
海に蔓延る悪を駆逐する、いつも通りの任務であった。
ドレークが指揮官を務める隊においての犠牲者は、怪我人こそ出たものの死亡者が出なかった事が幸いし、帰還する為に手間取る事もない。だというのに、ドレークの表情は晴れなかった。


「ドレーク少将、よろしいでしょうか」

「どうした」

「航路に異常はありませんので、湯浴みでもされては如何かと」

「……あぁ、もう少ししたらそうさせて貰う」


副官の声は扉一枚を隔てながら一向に此方へやってこようとはしない。心得ているのだ、境界線を。
遠退いていく足音に、その気遣いに、僅か緩んだ口元はけれど動き辛く、ドレークはそっと指先で拭う。
パラパラと、また赤が宙を舞った。
膝を汚すそれを振り落とす事もせず、ドレークはぼんやりと机上に目をやる。
目を閉じて眠っているかのように静寂を保つ電伝虫を、起こすのも忍びないとは思ったが、けれど起きて欲しいとも思った。
誰でも良い訳ではないが、出来るならば誰か、今すぐにこの静寂を打ち破ってはくれないだろうかと。
任務は海賊の殲滅であった。
海に蔓延る悪を駆逐する、いつも通りの任務であった。
けれどドレークは、ふと思うのだ。
海賊も、人間ではないのかと。
同じ人間を殺して、称えられる事は、何かが歪んでいる証拠なのではないかと。
しかし性善説を信じる訳ではない、どのような事情があろうとも海賊は海賊だ、甘ったれた理想論ばかりでは自分の命がいくらあっても足らないだろう、そんな事はドレークも解っている。
ならば何が引っ掛かるのか、ドレークは己の肩に重くかかる「正義」のコートを省みた。
海軍と海賊の、何が違うというのか。
海軍は略奪などしない。海賊は略奪をする。そんな単純な違いか。
けれどドレークは知っている、民を支配する海軍の権力者が居る事を、自由気儘に生きているだけの、民に好かれている海賊が居る事を。
立場のみで善と悪が区別される、行いなど関係なく、有象無象など関係なく。
組織というものは一枚岩ではない、それ故に組織の中にも善と悪は存在している。
ドレークだけではないだろう、その事にはきっと、ドレークよりもずっと上に居る人間ですら気づいている筈なのだ。けれどそれが看過されている。沈黙は守られている。
それは体面の為であり、それは保身の為でもあり、そのような事が罷り通る程に、組織が腐敗した部分を有している事に、ドレークは言いようのない想いを抱えていた。
常は鳴りを潜めているその想いは、こと任務の帰りに度々感じられる事である。
理想論だけでは何も救えない。綺麗事だけでは何も護れない。
解っている。今更それに心を痛める事の青臭さを、甘えを、理解はしている。


(だが、俺が護りたいものとは、一体何だ)


海軍か、民か、それとも己か。
護るべきモノが定まらない、その曖昧さが、ドレークは恐ろしかった。
目的のない殲滅は、ただの虐殺であり、そうとするならばX・ドレーク少将という男はただの人殺しに成り下がるのだ。
喉がやけに渇いている。その事に気づきながらも、ドレークはそれをどうにかしようとは思わなかった。
こくりと喉を鳴らすと、口腔に鉄の味が広がる。
これは血だ。海賊の、人間の、血だ。
暫しの間これを堪える事は贖罪にもならないが、けれども簡単に洗い流して良いものだとは思えなかった。
悪魔の実によって、古代の恐竜に姿を変えるドレークを、海賊は一様に化物と呼ぶ、剣を、銃を、向ける。
それは間違いではなかった。ドレークとて、己の身体でなければ目の前に突如現れた「それ」を人とは認識しないだろう。
海軍に入隊した頃は夢にも思わなかった、己が悪魔の実を口にするなどとは。
けれども上に認められたが故なのだと、そう思えば誇りが胸に満ちていた。
昔、は。
今はどうだろうと、思いながら己の手のひらだけを獣人化させる。
緑色の皮膚、鋭い爪、五本もないその指は、人間には到底思えない。
初めてこの手になって人を、海賊を殺した時は、酷いものだった。
力加減が上手くできず、頸動脈ごと首を吹き飛ばしてしまい、全身に血飛沫がかかった。
その日は、眠れなかった。
次の日も、眠れなかった。
剣でも銃でも、そんな風にはならなかったから、余計に混乱と吐き気が失せなかった。
あの時はどうしただろう、上官に叱咤されたか、同僚に情けないと鼓舞されたか、それとも部下に激励されたのだろうか。
いつの間にか眠れていたのだろうか。
思い出せない。

自分が今、どうして此処に居るのかすら。

腰をあげると、それに併せてコートがずり落ちる。拾おうとは、思わなかった。
血に汚れたそれは、恐らく帰島すればすぐに新しいものが支給されるのだろう。
清廉とした白。正義の証。けれど今やそれは、血と、部屋の薄暗さとで所々黒ずんでいる。
暗闇の如き黒。それは悪。けれど今やその色にこそ安堵しているのだから不思議な話だ。
部下に注進されたものの、一人安穏とシャワーを使うのも気が引けて、ドレークはとりあえず身に着けたものを脱ぐ事にした。口周りを汚していた血は念入りにタオルで拭い、新品のシャツに腕を通す。身綺麗にした所を見計らったかのように、静まり返った部屋の中、電伝虫が、鳴いた。
上官には先んじて海賊殲滅の任務完了の旨を伝えてあったので、それでは私用であるという事になる。軍の回線を私用に使う人間に心当たりは男性と女性の二つあったが、浮かんだ女性の方は今現在同じく任務に出ていると知っていたのでもう一人の方だろうとあたりをつけてから受話器をとった。


「軍の回線だぞ、スモーカー」

『こっちは家からだ。問題ねぇ』

「経由してるのは軍だろう、またクザン大将に渋い顔をされるぞ…まぁ、良い。何か変わった事でもあったのか?」

相手はやはり思い描いた人物で間違いなかったらしい。
珍しい事もあるものだと、ドレークは全面に押し出して問い掛ける。
私用で軍の回線を使用する事は多々あれど、用がなければ電話などしない男だと、ドレークはスモーカーに対しそういった印象を持っていたしそれは間違いではなかったから。
自然と、不思議になる。
何か用ができたのだろうかと、首を傾げた。


『そろそろ帰ってくるんだってな』

「うん?…あぁ、クザン大将に聞いたのか。そうだな、航路も順調なようだから、明日にはそっちに、」

『そうか、解った。それより今外に出れるなら出てみろ』

「は?おい、スモーカー」

『あと帰ってきたら何処にも寄るな。真っ直ぐ俺んとこに来い』

「何言って、」


じゃあな、と。
面倒そうな顔をしていた電伝虫はそう言ってすぐにまた眠ってしまった。
受話器を置く。言葉を理解しようと分解させる。
何処にも寄るなって、帰島直後は報告の為に大将の元へ向かわなければならない事などスモーカーは知っているだろうに無茶を言う。
一体どういうつもりかと、思ってから、外にという単語が引っ掛かった。
甲板へ出れば部下に気を使わせてしまうだろう、だがスモーカーが言うのだから外に何かあるのだろう。
好奇心に勝つ事は難しく、しかし惨敗も嫌で部屋に備え付けられた小窓を押し上げた。小さな真四角から覗くのはやはり薄暗い闇…ではなく、水面を照らす月光。
キラキラと、日中とは違った水面の反射は暗さに慣れた目には酷く綺麗に映り込む。
小窓をこれでもかと押し上げて、狭い真四角に顔を突っ込んだ。
見上げれば、僅かに欠けた、けれど満月に近しい月と、濃紺に浮かび上がる星の数々。


「……スモーカー」


先程電話をかけてきたのは一体誰だ。ぽかんと口を開きながら、そんな事を思う。
恐らくは、これを見ろと言いたかったのだろう。こんな、星空なんて、興味を示す程ロマンチックな男ではなかった筈なのに。
けれど、そうは言ってもこれは見事であると認めざるを得ない。
惜しむらくは、これを見ろと言った男が隣に居ないこ…と……


「…………スモー、カー」


もしかして。いや、まさか。
けれど、もしかして。もしかしたら。
スモーカーも、同じように思ったのだろうか。家だと言っていたから、いつものように不健康にも葉巻を咥え、酒でも飲んでいるのだろう。そうして、ふと空を見咎めて、ドレークの不在を思ってくれたのだとしたら。
あぁやはり、あの電話の相手はスモーカーではなかったのだ。
あの男は、こんなロマンのある事に気を配ったりはしない筈だから。
くそ、あの馬鹿煙、馬鹿スモーカー。いきなりらしくない事をするんじゃない。
お前の所為で、明日が待ち遠しくなってしまうじゃないか。上官への報告など、頭から飛んで行ってしまうじゃないか。くだらない自己嫌悪など、甘たっれた青臭さなど、忘れてしまいたくなるじゃないか。

空に悠々と浮かぶ月は、まるでお前のようだ。
決して強過ぎないその光は、暗闇に堕ちる俺を何度も導いて。
なんて無様、なんて浅はか。
口の中に広がる血の味は、未だ消えない。
けれど視界に入る世界は何処までも美しくて。

早く、

早く、会いたかった。




















欠けた月を満たす夜
(お前が居るなら、この世界も捨てたもんじゃない、なんて)




















恐竜少将は海軍抜けるまでにギリギリの所まで堪えて来たと思います。理想と現実の違いとか、解っててもやっぱり、とか。
でも誰にもそれがぶつけられなくて、煙さんはそれを察するでもなくでも結果的には支えて欲しい、なんて。煙さん殆ど出てないけどスモドレと言い張る(よし黙ろうか)




あきゅろす。
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