09





願望や希望と現実は違う



そうなって欲しいと
そうするつもりだと



人は願望や希望に縋るけれど




考えていたものとは到底かけ離れたそれこそが現実






そしてその現実というものは

純粋で残酷でけれど美しくけれど醜い












ボタンと一緒

掛け違えたつもりは無くて
掛け違えたままで歩き続けた


誰かが指摘してくれればまだ間に合ったのに

一人きりで歩いていたから誰も教えてはくれなかった



振り返っていれば、誰か一人でもいたのかもしれない
振り返ってみても、誰一人残っていないかもしれない



それは願望で

それは現実で










結局、怖くて、振り返れなかった





















迫る迫るカウントダウン


























石畳を叩く音は重く低くそして異常な速度を刻んでいた。
今日のカリキュラムは、異常なまでに伸びた猛の能力値によって早々に終えられたのだ。
壊れた測定機を横目に送られる担当者の賛辞も、周囲から注がれる羨望や畏怖の視線にも一瞥すらくれずに訓練場を出たのは、つい先程の事である。
そのまま猛は只管に歩き続け、けれどその足が進む先にあるのは優の部屋ではなかった。
彼がカリキュラムを終えた後に優の部屋へ向かわない事は珍しかったが、それを問う者など居る筈も無い。
猛は、今日は優に会いたくなかった。
いや、今日に限らず、もう会いたくない、会うべきではないと考えていた。

彼の中の穏やかな気持ちも。
足場を失いかねない不安定な感情の波紋も。
楽しく過ごしたいと笑った優と、何を望むのかと問う無表情の優の顔を交互に思い返しては奥歯を噛み締める。

あんなものを見なければ、今日も自分は優の部屋へと向かったのだろうか。
あんなものを見なければ、何の疑念も抱く事無く残り少ない日数を優曰く『楽しく』過ごせたのだろうか。
栓の無い事を考えて、そんな自分に、まだそんな事をと苛立つ。
けれどそんな時に程、間の悪い事は起こるものだ。
いや、これはむしろ必然といえるのかもしれない。
ずっと部屋へ引きこもっている訳ではない、お互いにそんな立場ではない。


「…やァ、偶然だね」

「……」

「測定機壊したんだって?開発部が凄い騒いで、」


ならば、こうして互いの部屋ではない場所で会う事も無いとは言い切れないのだ。
けれどそれすら優の計算通りのように思えて、猛は苛立ちに任せて壁に拳を叩き付けた。
ガツンッ、と人の拳が叩きつけられたにしてはありえない重音が響く。
白い壁の表面に走った亀裂は深く、優は猛の突然の行動に口を閉じ、瞠目した。


「……ふざけるな」


地を這うような声だ。
怒鳴りつけるのを必死で堪えているような、そんな声だ。
初めて出会った時も猛は優を威嚇するように低い声を出したが、これ程までの声は優も初めて耳にする。
それ程に猛の怒りはあからさまであり、そしてそれが解らない程、優も鈍い訳ではなかった。
何かあったのかと、問う程愚かでもない。
けれど、わざわざ心当たりを提示する程、真っ正直でもなかった。


「…何のことかな」

「……ふざけるな」

「だから何のこと?言って貰わないと解らないんだけど」

「……解らない、だと?」


怒鳴りつけるのをどうにか堪えていた。
けれどそんな努力を嘲笑うように、素知らぬフリをする優の物言いが、猛の自制心を呆気なく蹴り落とす。


「虫の居所が悪い時に会った僕が悪いって言うなら退散するよ。じゃあね」


踵を返して、この場を去ろうとする優の腕を力任せに引くと、骨が嫌な音をたてた。
突如走った激痛に顔を顰めた優へ何の言葉もかける事の無いままその肢体を担ぎ上げると、猛は当初目指していた己の部屋を再び目指し始める。


「っ…腕、痛かっ…たんだ、けど」

「黙れ。逆の肩も脱臼したいのか」


脱臼させた事が解ってるなら、と優がまた文句を言うが、猛は聞かない。
無言しか返って来ないことに、優は諦めて溜息をついた。
























部屋に入るなりベッドの上へ乱暴に放り投げると、優は己の肩を抑えて呻いた。
猛はそれに構わず優の身体を強制的に仰向けにさせ、襟元を緩めて目を細める。


「…自分が何をしたのか解っているのか」


白い首筋には、不死鳥と、そして猛がつけた覚えの無い鬱血の痕がある。まだ真新しいそれは、猛が今日見てしまった光景を思い出させる。
黒い髪に猫目の男が優の身体を抱き、優は抵抗する事もなくむしろ誘い込むように男の首に腕を回していた。
しかしそこに甘さは欠片も無く、時折二人が交わす声は所々が抜けていたが確かに計画中の事であり。
優がその身体を差し出す事で、己を優位に置こうとしている事を知った瞬間、猛は自分もその対象なのではと身震いした。


「…幻滅した?でも君が僕の何を知ってるって言うの」

「…自分を守ると言っただろう」

「言ったよ。でもこうも言った。僕が僕で在れる場所を守るって。その為なら、自分の身体位いくらだって差し出す」

「…俺と寝たのも、手段の一つか」

「そうだよ?それ以外に何があるって言うの。まさか僕が君を好きだったって思ってた?」

「…俺は、」


問いに対して、まるで予め用意しておいたように優は流暢な答を述べる。
嘲笑にも等しい笑みは、謀略を知られた動揺など霞ほども見えない。
焦れた猛が、口をついて出そうな言葉を喉元で堰き止めようとするが、感情が既に止まらなかった。


「…俺はお前がっ…」


それはこれまでの生き方を否定する言葉だと、解っていて猛は感情を吐露してしまおうとする。
だがその先を紡ぐ前に、優はフルフルと首を振った。


「違うよ」


どこか冷たい響きを帯びた声に、猛は目を見開く。
優は、その黒い瞳を曇らせる事無く、無機質なまでに冷たいそれで猛を見上げた。


「君は僕を好きじゃない。君は錯覚していたいだけだ」

「何だと…」

「愛子さん、だっけ?それから、君の弟も。君は全部捨ててきたんだろ」

「…何故お前がそんな事を知っている」

「こんな貧弱な身体でも、それなりの情報と等価にはなるんだよ」


君とも、君が今日見た男以外とも、僕は身体を繋げてる。
何の躊躇いも無く述べられた事実に、猛は脱力した。
沸々と湧き上がってくる怒りは、もう既に自分と優のどちらへ対してのものなのかすら解らず。

荒れ狂う怒りに、

震えすら、起こらなかった。
言葉すら、発せなかった。

そしてそれを見越したように、優は言葉を紡ぐ事を止めなかった。


「大事なものを棄てて、棄てたことを後悔してる。君は僕なんかよりもずっと人間らしいよね、でもそれが君の中で枷になってる。後悔してるんだ、君は」

「……黙れ」


言葉は徐々に核心へと近づく。
見透かしたような物言いは怒りを増幅させ、猛の腕が小刻みに震え始める。
それでも優は、言葉を止めない。


「だから僕みたいな奴につけ込まれるんだよ」

「…黙れと言っているだろう」


その漆黒の瞳で、ただ猛を見上げ。
猛の胸中に渦巻く負の感情を、煽るように話し続ける。


「君は、僕を好きだと思うことで自分はまだ真っ当な人間だと自覚して安堵したいだけだ。女も弟も棄てて、それでもみっともなく縋ってるだけだ」

「―――黙れっ!」


耐え切れなくなったのは、何の心構えも出来ていなかった猛が先だった。
優の頬を叩き、その身体が壁に叩きつけられた直後になって、漸く冷静さを取り戻したように猛は己の掌を凝視する。
ズルリと、壁に添ってずり落ちた優は、乾いた笑い声をあげた。


「は、は、あははっ…ホラ、まだそんなに人間ぶろうとしてる」


滑稽だよ、なんて哀れなんだろうね。
一気に腫れあがった頬のままそう言って笑う優の方が余程滑稽であるのに、猛は優の言葉をそのままに受け取った。
笑い続ける優から逃れるようにして部屋を出て行く猛を、けれど優は咎める事無く、その足音が遠退いてから、漸く笑う事を止める。











「……思ってもいないクセに。情を棄てる気なんか、無いクセに」











腫れあがった頬と、軋む肩。


そのどちらも労わる事無く、自分以外は存在しない部屋で優はただそう呟いた。




































さァ幕を引こう
君の為にも僕の為にも

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