雨音に落つ










気づけばいつの間にか居る。
約束をしている訳でもなければ示し合わせたのでもない。
好意どころか嫌悪すら抱く相手だというのに向こうはそんな事忘れたと言わんばかり。
無防備に、無抵抗に、喉元を晒して笑っている。
その喉に噛み付かないのは、単なる気紛れでしかない。


不確かで曖昧な今を、言葉で表すのならと。

考えても解らず、別に必要でもないからと放棄したのはもう随分と昔の事だった。






















統括区(というと語弊が生じるが、現状に変わりはない)見回りに出た帰り道、ポツリと頬を打った冷たい感触に、元々寄っていた眉が更にギュッと寄る。
眉間の皺は気にするのも今更なので放っておくとして、空を見上げると仄暗い雲が一面に広がっていた。
夕方に近い時間だから暗いのかと思っていたのだが、どうやら雨が降る前触れだったらしい。
濡れるのは面倒だが、もう家も近いので歩みの速度は大して変えなかった。
しかし雨となると、またも歓迎していない来客があるのだろう。予想というよりはずっと確信に近い事を考えながら、冷蔵庫に食料があったかなどと家庭的な思考に至って苦々しい思いをした。苦味は口の中で容赦なく噛み砕き、咀嚼する。
程なくして見えてきた我が家のドアノブに手をかけると、何の抵抗もなく扉は隙間を作り出した。
反射的に、溜息を吐く。
見るまでもなく玄関には白いブーツが転がっているのだろう。まぁ結局見てしまうのだが。


「…靴位ちゃんとしろと何度言えばやるんだ」


呟きながらも、転がっていたブーツを立てる。
母親のような小言は、子供を持ってもいない上に男である自分からすると大層不本意極まりない。というのに近頃はこれが癖になってきているのだから、自分もヤキが回ったものである。
一気に十は歳をとったような奇妙な疲労感に溜息を吐いて首を鳴らした。
ゴキリッ、鈍い、骨の鳴き声に疲労を実感させられる。
家の中にある唯一の和室には目もくれず、キッチンまで足を向けてまずは冷蔵庫の中を見た。適当な物を作れる程度の材料はあるので、とりあえず安堵する。雨の中に買い物へ出掛けるのは正直面倒だった。
手洗いとうがいを済ませ、長ランをクローゼットに押し込む。
着替えを小脇にバスルームを覗くと、使用した痕跡が嫌になる程のあからさまさで残っていた。


(……いや、考えるだけ無駄だ無駄)


こめかみを指先でグリグリと解す。
脱ぎ散らかされた衣類は放っておくと怒りに任せて引き千切ってしまいそうだったので手早く洗濯機に放り込んだ。俺は何も見てない。
ビチャビチャに水浸しになっている床は使用直後だろう濡れたバスタオルでさっさと拭いた。俺は何も見てない。
細かい事を一々気にしていたらキリがない上に血管がいくつあっても足りなくなるので見てみぬフリをする。
それが子育てでいう「甘やかす行為」だとしても、甘える間柄でもなければ甘えられる間柄でもないのだからそもそも前提が違うと屁理屈をこねた。
大体、来客は客と称すのも嫌になるような男であり、甘えているのではない。諸々の理不尽な行為は全てあの男が素で行っている事なのだ。
無意識と同義、日常的なその行為を、誰がどのような権限で咎めようというのか。そう言わんばかりのふてぶてしい笑みで、あの男は気にしなければいいのだと宣った。
当時、いくつの血管が犠牲になった事か…ほぼ諦めと共に慣れた今では苦い思い出である。
浴槽に張った湯に手を入れる。あんまりにもあんまりなぬるさには、予想の範囲内だったので気にしない。
湯を焚き直す間に身体を流してしまおうとシャワーからの放水を促せば、やはりこれもぬるかった。


















風呂を済ませて時計を確認すれば、時刻は六時を回っていた。夕飯の支度の前に爪の手入れをしなければと思い出す。
見回りに出た際、少々不良の相手をしたのだ。
道具を持って和室を覗くと、風呂に入っている間で随分と雨脚が強くなったのか、窓の外では雨音が絶え間なく響いていた。仕切りは引いていないが室内の灯りを消している為に部屋の中は薄暗い。
窓に向けられた身体は、予想通り、ゴロンと寝転がっている。見慣れない色の着物に、また持ち込んだのかと溜息を吐いた。


「……」


毛布も何もかけずに寝そべる背中は僅かな呼吸を繰り返しているのか動きが小さく、目を凝らし耳をすまさなければ一見すると死体にしか見えなかった。男を死に追いやるのは自分のつもりだが、流石に家の中で死なれるのは気味が悪い。
起きた途端飯を要求されるのはもはやいつもの事だったので、取り込み中だと解らせるのも兼ねて和室での作業を決行する事にした。
但し、背を向けて座るなどという自殺行為に等しい愚行は犯さず、男の背が視界に入るようにして胡座をかいた。
滅多に欠ける事のない爪は、常から鋭い訳ではない。意識して爪を出すのではまるで猫のようだ犬のクセにとよく解らない揶揄をしたのはこの男だったか。
皮膚に移る境界からヤスリをかけ始める。シャリシャリと小刻みに滑らかな音が、雨音に紛れて聞こえてきた。異質とも思える程に静まり返った部屋は、まるで雨に包まれているかのようで、何故か落ち着く。
男が訪問するのは大抵が雨の日だから、つまり男と居ても心が安らぐかといえばそういった訳でもない。
なんせ男が雨の日を厭う理由が理由なのだ。


『金糸雀の鳴き声が紛れて聞き取りにくくなるのだよ』


そう言って恨めしげに雨雲を見上げるような男と居て何が安らぎだというのか。
危機感を抱きこそすれ、安堵などありえない。
斬る、食う、寝る、単純なまでの欲求と本能的な生き方はひどく生き急いでいるようにしか思えなかった。
それがまた、苛つくのだが。


「………おい」


ゴロンッ、と。
薬指にヤスリをかけていると男が寝返りを打ち、左膝に薄気味の悪くなる細く青白い脚が無遠慮に乗せられた。
舌打ちをして男を見れば、寝起きなのかそれとも笑っているのか、細められた目が柔らかに緩められる。
邪魔をするなという意味を含めて声をかけ、足首を掴む。少し力を入れてしまえば呆気なく折れてしまいそうだ。
無防備に、無抵抗に、男がそんな姿を見せる度、噛み付くべきか否か一瞬躊躇う。


「…………」


だが、結局は。


「…爪が伸び過ぎだ」


それは狩りではないと、略奪ですらないと、誇りが疼く。
不意を突かねば勝てない相手だと、自らを貶める気がしてならない。
くだらない自尊心かもしれない。だが、誇りなくして何が狩りだ。
不意討ちも一種の戦法だと認めてはいる、そこまで堅い頭をしている訳ではない。
だが、この男には真っ正面から向かってこそ意味があるのだと。
己の中で決着をつけて、また小言を吐いた。


「……何時だい」

「…六時、半になるな」

「……調度いいから小生の爪も切りたまえ」

「…人に物を頼む態度か」


無意味としか思えない問答。
溜息と、僅かな笑い声。
このようなやりとりに慣れたのは一体いつからか。
考えても無駄な事だと思考を打ち切るのも、何度目か。
くだらない。そう思いながら掴んだ足首を引いて、わざと無理な方向に曲げてやった。が、文句はなく、男はまた寝返りを打って楽な姿勢をとる。


(……ヤスリの前に爪切りだな)


いっそ足の指を切り落としてやったら、男は顔色の一つでも変えるのだろうか。
パチッ、パチンッ。
思いながらも、そう乱暴には扱わずにいると、男が小さく欠伸を洩らした。
何時に来たのかは知らないが浅い眠りでもなかっただろうに。
斬る事と読書をする事以外ではグータラして寝てばかりの男に、変わりはないらしい。
モゾモゾと動いて此方を向いた男の頬に、薄く畳の跡が見えてつい笑ってしまった。


「…何だい」

「…いいや、別に」


なんともマヌケだ。マヌケだが、本人に言った所ですぐさま直るものでもないのでシラを切る事にする。怪しむ眼差しは今にも眠りそうで、ゆらゆらと揺れていた。
寝てろ、と珍しく自分から言い出すと、不思議そうに瞬きする。やはりマヌケだ。


「…雨が降っているのだね」

「だから来たんだろう」


窓に背を向けた男から、今気付いたという風に訊ねられ、適当に返すと男は小さく笑ったようだった。
脚を伝って一度、微弱に揺れる。
小生が来た時は降っていなかったよ、と。
何を馬鹿な事をと言いたげに男が呟いた。自身が帰宅する直前に雨は降り、そして男が来たのはそれよりも前の事なのだから、当然といえば当然だ。当然だが。


「…なら何で来たんだ?」


男がやって来るのは大抵が雨の日で、そして雨の日は人を斬るのもつまらないから来ているのだと、そう思っていたからか、会話の食い違いに疑問が浮かんだ。
男はまた、微かに、それと解らぬ位に小さく、笑う。


「存外、此処は落ち着くのでね」

「――――――」


無防備に、無抵抗に、晒される素顔は不意討ちだった。


「…何だい、照れたのかね」

「…無駄口叩かずに寝てろ」


髪をクシャクシャに掻き乱すと、男は一度笑って瞼を閉じた。

畳の跡がついた寝顔は、やはりマヌケだった。




















雨音に落つ

(……箸をくわえるな)
(…)
(…寄せ箸をするな)
(……)
(っっっ、寝るか食べるかどっちかにしろ!!)
























相互御礼に金谷四郎様に捧げます!
『王狼と憲兵の仲良し日常』
(実際は憲兵が王狼にくっついてまわって天然で色々邪魔する的なほのぼの)


…ほのぼの?仲良し?何処が…いや爪切りとか普通人のしないよねだから仲良し!うん(無理矢理)
すいません、あれだったら書き直しさせて頂きます(汗)
……さらば!(逃げた)




あきゅろす。
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